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グレーアッシュの悪魔。

『黒熊ヒーロー、指名あり』
 俺のスマホに、「殺戮婆」からメッセージが届いた。
 メッセージに既読を付け、背後の壁に設置された大きな硝子ケースに向かう。ケースの天井部分には照明が取り付けられており、陳列された様々な武器が美しく光っている。その中からネイルハンマーを取り出し、カウンターへ向き直った。
 ここは、「湿気の街」のラブホ区域にあるラブホ、「胔」。胔は特殊なラブホで、通常のラブホとしての営業と、会員登録をしている殺し屋の管理を行なっている。1〜3、5階は、ラブホの部屋として活用されている。地下1階は、殺し屋の待合室である。今、俺がいる大きな1室だ。また、4階は、依頼人との取引、殺害、死体処理……と、殺し屋専用の部屋がある。金を払えば、殺し屋のみ4階にある部屋で宿泊も出来る。
 先程俺にメッセージを送ってきた殺戮婆が、胔を管理している。彼女も元は殺し屋とのこと。しかも、伝説と言われる程の凄腕だったらしい。
「げへへへへへへへへ」
「ふひひひひひひひひ」
「ふひょふひょふひょ」
 下品な笑い声が待合室に響く。
 この部屋は、薄暗いバーのような作りになっている。9人が座れるL字型のカウンターと、点在する立ち飲み用のラウンドテーブル、カウンターと向かい合う壁には黒色の革製ソファーが並んでいる。
 客からの依頼を待つ殺し屋達が、各々好きなように待機している。煙草や酒を嗜んだり、薬をキメたり、賭け事をしたり、殺し合ったり、身体を求め合ったりしている。
 俺は、殺し屋じゃない。この待合室でバイトをしている。飲み物やちょっとした料理を作ったり、清掃(待合室で死んだ殺し屋の掃除もするから、あまり殺し合いはしないで欲しい)をしたりする。そんなバーのマスターのような業務だけではなく、殺し屋の武器の手入れや、管理人である殺戮婆との業務連絡等も行っている。
「武器、くれよ」
 目の前に、黒色の熊の着ぐるみを着た男が立っていた。存在に気が付かなかったので、少し驚いてしまった。
「あ! あぁ、申し訳ございません」
 彼は、胔の会員である殺し屋、「黒熊ヒーロー」。虐殺婆から連絡が来た通り、彼に殺しの依頼があったのだ。
「こちらをどうぞ」
 黒熊ヒーローに、手入れをしたネイルハンマーを渡す。
 彼は無言で受け取ると、待合室を後にした。
「行ってらっしゃいませ、黒熊ヒーロー様」
 黒熊ヒーローの背中を見送りながら、彼の影の薄さに感心をしていた。技術的に身に付けたものではなく、素質としてあったもののように感じる。存在感の薄さで苦労してきた人生だっただろうけれど、殺し屋という天職を見付けられてよかったと心から思う。誰にも見付からず、素早く仕事をこなせる人が、この稼業に向いているから。
「たからよぉっ! あんた、ここで生きていくんなら、拘りなんて捨てなっつったろ!」
 こちらから見て左側、2番目にドアに近いカウンター席に座る女が煙草を吹かしながら怒鳴っていた。
「何度言えば分かんだよ」
 奥二重で目が細いのに、異様に目力のある彼女は、「金棒乙女」だ。名前の通り、金棒を使って対象を殺す。常に殺気立った金棒乙女は、彼女が着ている真っ赤なワンピースがとても似合っている。普段は黒熊ヒーローとは正反対の存在感を放つ金棒乙女も、凄腕の殺し屋だ。
「殺し屋、舐めんな」
 俺は、彼女のドスの効いた低い声が好きだ。
「……あんたには関係ない」
 金棒乙女の隣、1番ドアに近いカウンター席から、気怠く囁くような女の声が聞こえた。
「何度言えば分かるの」
 そこには、艶のある黒髪が特徴的な制服を着た美女がいる。「猛毒ソーダ」が入ったグラスを持つ彼女は、「毒爪女子高生」だ。両手の爪に毒を塗っており、殺害対象を引っ掻いて殺す。胔では、新人の部類だ。黒熊ヒーローとほぼ同期である。だが、何故か「男しか殺さない」という縛りで依頼を引き受けている為、彼より成績は低い。
「何度でも言ったるわ。……あんた、ほんと可愛げねぇな」
 毒爪女子高生は整った顔をわざとらしく歪ませて、不快感を露わにした。
 彼女のこの不快そうな顔も好きだ。綺麗な顔を俺も歪ませたい。そんな意地悪な心が芽生えてくる。
「ちっ」
 2人の女殺し屋は同時に舌打ちをすると、一方は煙草を全力で吸い、もう一方は葡萄味の炭酸飲料を飲み干す。片方が煙を勢いよく吐き出すと同時に、もう片方が大きな音を立てて空のグラスをテーブルに置いた。
 こんなに仲が悪そうなのに、待合室では今いる定位置でよく一緒にいる。更には、2人で出かけているのを見たこともある。犬猿の仲、というやつだろうか。本人達に言ったら、殺し合いが始まりそうだから黙っておくけど。
「……最近よぉ、カルト教団信者の殺し依頼多いんだよなぁ」
 金棒乙女が、新しい煙草にライターで火を付けながら言った。
「教団名、何つったっけなぁ……。白鳩……白鳩の……」
「『白鳩の聖域』?」
 毒爪女子高生が、金棒乙女の後に続いた。
「そうそう」
 金棒乙女は数回頷きながら、煙草を硝子製の灰皿の縁に数回当てる。ぱらら、と灰が落ちた。
「やっぱ、あんたも知ってんだ」
「私達だけじゃない」
 毒爪女子高生は、グラスの縁を右手の人差し指でなぞり始めた。
「胔の殺し屋の殆どが、白鳩の聖域信者の依頼を受けてる」
「最近出来た教団なのか?」
 金棒乙女は細い目を更に細めながら、天井に向かって煙草の煙を吐き出す。
「何件も殺しの依頼がされるって……そんなにやべぇのか、あいつ等」
 白鳩の聖域。何人もの人間に殺意を向けられるカルト教団、か。気になる話題だ。あの人にも、情報を提供出来そう。よし、混ぜてもらおう。
「毒爪ちゃん、お代わりいる?」
 俺は毒爪女子高生の正面に立って、彼女に尋ねた。毒爪女子高生とは年齢が近いこともあってか、タメ口で会話が出来る。
「ん?」
 彼女は右手に持った空のグラスを一瞥すると、俺に向けて持ち上げた。
「そうする」
 俺は空のグラスを受け取るとシンクに置いて、毒爪女子高生のお気に入りである猛毒ソーダを作り始めた。
「『グレーアッシュ』。あなたは知ってる? 白鳩の聖域」
 毒爪女子高生が、俺に問いかけた。グレーアッシュとは、ここでの俺の渾名だ。俺が髪の毛をグレーアッシュ色に染めているから、皆、そう呼んでいる。その所為で、他の色に染められなくなった。
「いや……その教団名を聞いたことはあるんだけど、詳しくは知らなくて。新しい教団なのかな。気になってはいる」
 嘘だ。先程、2人の会話で初めて聞いた。だけど、気になっているのは、本当だ。
「あ、そう」
 毒爪女子高生は俺への興味を失ったのか、両目を広げて、紫色の爪を眺めながら冷たく頷いた。
 まずい。会話が終わってしまう。
「……毒爪ちゃんは、詳しいの?」
 新しいグラスに完成した猛毒ソーダを注ぎながら、俺は尋ねた。
「詳しくはない。ただ、依頼人から彼等の話は聞く」
 相変わらず、冷めた目で話す毒爪女子高生の前にある紫色のコースターの上に、俺は猛毒ソーダの入ったグラスを置いた。
「金棒乙女様も、よくお聞きに?」
 金棒乙女の前に置かれた灰皿を取り替えながら、今度は彼女にも尋ねた。
「あ、あ、あ、あ、あ、あの、えっと」
 すると、先程まで厳つい声で話していた金棒乙女が顔を伏せて、吃り始めた。
「えっ、えっと、その、わ、私は、その何て言うか、えっと……」
 いつもそうだ。俺が彼女に話しかけると、金棒乙女からは殺気が消え、焦ったみたいに口をあわあわさせる。
「きっしょ」
 毒爪女子高生が、鋭く冷たい目を金棒乙女に向けた。
「いや、えっと、その、あの……」
 それでも、反発するどころか、金棒乙女は更にテンパり続けている。男が苦手なのだろうか。
「ま、麻薬とか、く、配ってたり……」
「はぁ……こんな男のどこがいいの」
 見兼ねた毒爪女子高生は深い溜め息を吐くと、金棒乙女に続いた。
「依頼人曰く、白鳩の聖域信者は『鈴蘭の麻薬』っていう、鈴蘭の見た目をした麻薬を販売しているらしいの。食べた人間を幸福にするらしい」
「それの何がいけないの?」
 俺は首を傾けた。
「麻薬を販売するカルト教団なんて、この街には沢山あるよ。しかも、幸福にしてくれるなんて、食べたら狂う『林檎の麻薬』を配ってる『林檎教』より、遥かにいいように感じるけどね」
「だから、詳しくは知らない」
 毒爪女子高生は猛毒ソーダを一口飲むと、ワントーン声を低くして言った。
「……ただ、黒い噂はそれだけじゃない。頻繁に、少女を誘拐・拉致してるらしいの。一度、娘を奪われた母親から、拐った信者の殺しを依頼されたことがある。だから、ただの噂話ってわけではないと思う」
 少女を拐って、何をしているんだろう。
 俺の疑問を察してか、毒爪女子高生は首を横に振った。
「理由は知らない」
 白鳩の聖域。使用者を幸福にする麻薬、鈴蘭の麻薬を販売するカルト教団。胔の殺し屋に、白鳩の聖域信者の殺害依頼多数あり。また、目的は不明だが、少女を誘拐・拉致している。
「あなたもそうでしょ?」
「あぁ、知らねぇ……です」
 毒爪女子高生に尋ねられ、金棒乙女は居心地が悪そうに頷いた。
 うん、いいね。なかなかに面白そうな教団だ。きっと、あの人も喜ぶ。

*

 湿気の街の居酒屋区域。
 両側に居酒屋やスナックが立ち並ぶ小路に、俺達はいる。電飾看板や赤提灯の光が、妖しく夜道を照らしている。
「ここら辺ー」
 そう言うと、「遺袋乙女」と名乗った死体掃除屋は何か大きな物が入った黒色の袋を引き摺りながら、薄暗い路地裏を奥へと進んだ。老婆のように曲がった彼女の背中が、闇夜に消えた。
「ありがとねー」
 俺は、左手に持った釘バットを左肩に置いた。
 今日は胔でのバイトは休みだから、スーツは着ていない。灰色の長袖Tシャツに、黒色のカーゴパンツ、灰色のスニーカーという普段着だ。
「乾いた悪が出てくるのは、ここはだすか」
 隣下から低い声が聞こえた。
 そこには紫色のペストマスクを被り、紫色の装束を着た少女がいる。身長150センチ程の彼女は、紫色のバールで近くにある室外機を叩きながら言った。
 彼女は、俺のもう1つのバイト先、「ペスト乙女展」の館長だ。悪人を罰して集めることを生き甲斐としている。一時期、湿気の街には「ペストマスクの制裁者」という人がいた。バールで悪人を殺す、紫色のペストマスクを被った怖い奴だ。彼のファンである館長は、ペストマスクとバールを購入し、それ等を自分で紫色にペイントした。彼女は「ペスト乙女」と名乗り、いなくなったペストマスクの制裁者の意志を継いで、悪人を罰するようになった。しかし、ペストマスクの制裁者とは違い、彼女は悪人を殺さない。死よりも残酷な、コレクションにする為に。集めた悪人達を、ペスト乙女展に展示するのだ。
「来るかな、信者達」
 自覚している。殺し屋の待合室でのバイトしかり、悪人を展示する美術館でのバイトしかり、俺は変な仕事をすることが好きだ。面白そうなことには、すぐに首を突っ込む。他にも「湿気の悪魔」というカルト集団に所属しているが、それはまた別のお話。
 本日は白鳩の聖域信者を捕まえる為に、ここまで来た。勿論、ペスト乙女展に展示する用の。金棒乙女と毒爪女子高生に聞いた話では、白鳩の聖域は少女を誘拐・拉致しているということだった。麻薬密売もしているらしいが、そんなのこの街じゃ普通だからどうでもいい。だが、まだ未成年の人間に悪いことをするのは、間違いなく悪だ。展示するに値する。
 2人の女殺し屋に、白鳩の聖域信者が出没する大体の場所を教えてもらった。更に、その付近を歩いていた遺袋乙女という死体掃除屋に、もっと詳細な場所を聞いた。
「『グレーアッシュの悪魔』、煙草はあるだすか?」
 ペスト乙女は、居酒屋の前に置かれた室外機に座りながら尋ねた。
「うん、あるよ」
 俺は、カーゴパンツの右ポケットから煙草箱を取り出した。
 グレーアッシュの悪魔。これが俺の正式な通り名だ。グレーアッシュ色の髪をした、湿気の悪魔だから。髪の毛の色を名前に使うと、下手にイメチェン出来なくなる。
「ありがとうだす」
 ペスト乙女に煙草箱を渡そうとした時、遠くから泥濘んだ地面の上をタイヤが回るような音が聞こえた。
 2人して音のした方へ顔を向けると、2つの人影がこちらに近付いていた。彼等は白色の装束を着て、右耳に白色の鳩のピアスを付けた男女だった。
 男は何かが入った白色の袋がいくつも載ったリヤカーを引いており、女はリヤカーの左側を歩いていた。
 白装束に、白鳩のピアス。事前に金棒乙女と毒爪女子高生に聞いた、信者の特徴と同じだ。彼等は、間違いなく白鳩の聖域信者だ。
「来ただすね」
「ね、来た来た」
 ペスト乙女はバールを、俺は釘バットを構えて、道を塞ぐようにして立った。
「誰かいるな」
 リヤカーを引く男が不審そうな目で俺達を見ると、立ち止まった。
 彼はマンバンヘアーが特徴的な、肩幅が広く長身の30代半ばぐらいの男だった。彫りの深い顔立ちで、鼻は高く、まるで外国人のよう。顎に生えた整えられた髭が、更に彼に色気を与えている。先程確認した通り、右耳に白鳩のピアスを付けているが、左耳には駱駝のピアスを付けていた。また、履いているのはただの白色のサンダルなのに、お洒落に見える程の色男だった。
「何? 何か用?」
 彼の色っぽい笑みに見覚えがある。そうだ。居酒屋区域にある煙草屋、「樂」の店主だ。
「……」
 樂の後ろから、女信者が無言で笑みを浮かべた。
 樂より5センチ程低いが、長身の20代前半ぐらいの女だった。思わず撫でたくなるような、さらさらのマッシュヘアー。二重で垂れ目、澄んだ茶色の瞳、高めの鼻、柔らかそうな唇が、小さな顔に乗っている。首は長くて細く、また、体付きも細めだった。モデルをやっていると言われても、何の疑問も抱かない。首の右側に彫られた鳥兜の刺青と、紫色のぎざぎざの歯が特徴的だ。
 彼女は黙ったまま、こちらに手を振った。
 思わず、固まってしまった。彼女は……。
「白鳩の聖域信者だすか?」
 ペスト乙女が、ゆっくりと首を傾けた。
「あぁ」
 樂は白装束の内側から煙草箱とライターを取り出すと、煙草を口に咥えて火を付けた。その動作に、何故だか嫌な予感がした。
「俺達は『白鳩』だ。俺が『樂の白鳩』で、この子が『毒歯の白鳩』」
「乾いた悪には、乙女の制裁を」
 ペスト乙女は、2人の白鳩の聖域信者の目をまっすぐに見て低い声で言った。
 たった今、彼等がペスト乙女展の展示物になることが決定した。生きたまま水槽に入れられて、展示されることが。
 樂の白鳩が首を傾けた時には、バールを振り上げたペスト乙女が彼に向かって飛びかかっていた。
「ふぅー」
 樂の白鳩がペスト乙女の顔に、煙草の煙を吐き出した。その瞬間、彼女の身体から力が抜けて、地面に倒れた。
 嫌な予感、的中。
 ペスト乙女に気を取られて気が付かなかったのか、彼女の背後にいた俺がスイングした金属バットは樂の白鳩の左頬にダイレクトヒットした。樂の白鳩は吹っ飛んで、室外機の角に右顳顬を勢いよくぶつけた。
 自分の感覚を信じて、すぐに動いて正解だった。樂の白鳩は、目を閉じて地面の上で動かなくなった。
 だけど、毒か、睡眠薬か、何かを仕込まれた煙草の煙を浴びて動かなくなったペスト乙女を心配している暇はなかった。間髪入れず、毒歯の白鳩が紫色の鮫歯を剥き出しにして、俺の右手に噛み付こうとした。咄嗟に振り上げた俺の右膝が、彼女の顎にクリーンヒットした。
 呻き声1つ上げなかったが、毒歯の白鳩は背中から倒れた。俺は一瞬の隙も与えず、彼女の腹に馬乗りになった。そして、釘バットを振り上げる。ペスト乙女展では生きたまま悪人を展示することが鉄則だが、ペスト乙女の生死が確認出来ない以上は毒歯の白鳩の生死も気にしている余裕はなかった。
「……」
 口から垂れた血で顎を赤黒く汚した毒歯の白鳩が、無言で微笑んだ。
 俺は釘バットを振り上げたまま、動けなくなった。
 毒歯の白鳩。元々の通り名は、「毒歯の花子」。武器は、歯に塗った猛毒。噛み付いて、毒で相手を殺す。毒爪女子高生が爪に塗っている毒と、同じものを使用している。歯に毒を塗るようになる前、毎日少量の毒を飲んで身体に慣れさせたらしい。わざわざ歯に塗らなくてもいいのでは、と思うし、実際に質問したこともある。毒歯の花子はメモ帳に「歯に毒を塗ってる子って、可愛くないですか?」と書いて、無言で微笑んだ。あまりにもキュートで、彼女の笑顔を今でも鮮明に覚えている。
 そう。毒歯の花子は、胔の殺し屋だ。喋れないのか、ただ喋らないだけなのかは不明だが、無口の殺し屋として、胔の中では通っている。そんな殺し屋が、白鳩の聖域信者になっていた。
「花子ちゃん、何で……」
 そう彼女に尋ねたが、心の中で自分にも問いかけていた。
 俺は、何で釘バットを振り下ろせないんだ? 面白いことをするのが好きで、一緒に働く人より、やっていることを大切にして楽しんでいただけなのに。
 それなのに、待合室での毒歯の花子との思い出が脳裏を過ぎる。彼女は、自分の武器に自信があるわけではなかった。だから、もしもの為の武器も用意していた。歯に塗った毒と同じものを刃に塗りたくった、サバイバルナイフだ。俺はそのサバイバルナイフを研いだ後に毒を塗って、彼女の仕事に備えていた。
「あ」
 しまった、と思った時にはもう遅かった。殺し屋に隙なんて見せてはいけないと、頭では分かっていたのに。
 いつの間に取り出したのか、毒歯の白鳩が右手に握ったサバイバルナイフの刃先が、俺の左脇腹を目がけて飛びかかってきた。
 どちゃ。
 前方から何かが落ちたような音がした。
 毒歯の白鳩は右手を止めて、音のした方を見た。思わず、俺も同じ方を見る。
 樂の白鳩が引いていたリヤカーの近くに、黒色の兎のお面を被った少年少女がいた。彼等の前に、リヤカーから降ろしたであろう白袋が1つあった。
「お袋、お袋」
「お開けよ、お開け」
 そう言いながら、黒兎のお面の少年少女は地面に置いた白袋のファスナーを開けた。そして、中から1体の少女の裸の死体を取り出した。死体だとすぐに分かったのは、彼女の身体が青白かったから。
「お死体、お死体」
「お貰うよ、お貰う」
 黒兎のお面の少年は死体の両肩を、黒兎のお面の少女は死体の両足首を持って、路地裏を進んでいった。
 きっと彼等は金になりそうな物を盗む小遣い稼ぎだろうと思ったが、そんなこと気にしている余裕はなかった。
「……何、あれ」
 黒兎のお面の少年少女が持ち運ぶ死体を眺めながら、俺は呟くように毒歯の白鳩に尋ねた。
「ねぇ、何、あ」
 あれ、を最後まで言い切る前に、毒歯の白鳩は俺の腹を押した。突然であったことと、力が強かったことが相まって、今度は俺が背中から地面に倒れた。
「……」
 毒歯の白鳩は立ち上がると、俺を一瞥し、室外機の近くで気絶している樂の白鳩の元へ向かった。
 俺も動かなくなったペスト乙女に近付き、肩を揺らす。
「大丈夫? なぁ、大丈夫?」
「んん、ううぅ……」
 すると、ペスト乙女から低く小さな声が聞こえた。
 どうやら、死んではないみたいだ。
 一安心したところで、2人分の足音が聞こえた。
「1体、持っていかれた!? まじでか!?」
 樂の白鳩の焦ったような声も。
 俺はそちらに顔を向けた。
 樂の白鳩と毒歯の白鳩は俺達に背を向けて、黒兎のお面の少年少女が向かった先を見ていた。
「追うぞ。俺はリヤカー持っていくから、お前は走って2人の後を終え」
 樂の白鳩がそう言うと、彼はリヤカーを引き、毒歯の白鳩は走りながら、来た道を戻り始めた。
 黒兎のお面の少年少女がリヤカーから降ろした袋の中には、全裸の少女の死体が入っていた。彼女の身体の至るところから、鈴蘭が生えていた。耳、鼻、口、乳首、局部等の目に見えて分かる穴だけじゃない。顔、胴、四肢を覆うように、白色の花が咲いていた。あんな死体、今まで見たことがなかった。
 白鳩の聖域が少女を誘拐・拉致していた理由は、何からの方法で身体中から鈴蘭を生やさせる為? でも、それに何の意味が?
 その時、ふと毒爪女子高生が言っていたことを思い出した。
「依頼人曰く、白鳩の聖域信者は『鈴蘭の麻薬』っていう、鈴蘭の見た目をした麻薬を販売しているらしいの。食べた人間を幸福にするらしい」
 すっ、と背中が冷たくなった。
「……俺、行ってくる」
 ペスト乙女の無事を確認出来たので、俺も彼等の後を付けようとした。
「いやぁ、いっぱい飲んだね」
 背後から、酔っ払ったような男の声が聞こえた。芯がなく薄っぺらいのに、妙に色気がある声だった。
 振り向くと、そこには濃紺色のペストマスクを被った男がいた。彼は覚束ない足取りで、ゆたゆたと歩いている。
「いいよ。高円寺から阿佐ヶ谷まで歩こっか」
 俺達に話しかけているわけでもない。かと言って、独り言のようにも見えない。それに、ここは高円寺ではなく、湿気の街だ。
「あ、コンビニで煙草と飲み物買ってこうぜ。深夜散歩のお供に」
 ペストマスクの男は、ゆっくりと俺達の横を通り過ぎた。
「あー、何かさ、いいね」
 鈴蘭の麻薬は、食べた人間を幸福にする。
 また嫌な予感がした。先程のものよりも、かなり強く。
 ペストマスクの男の薄い背中が、遠ざかっていく。
 煙草屋の樂、殺し屋の毒歯の花子、そして、この街の救世主と呼ばれているペストマスクの男……。
 湿気の街に、真っ白な粘液が徐々に侵食している。気にするまでもなかった些細な違和感が、幸福という名の巨大で邪悪な存在感のある悪夢に。
「行こっか、阿佐ヶ谷」
 湿気の街全体が今、最悪な空間へと変化を遂げようとしている気がする。いや、気がするレベルの話ではない。確実に、そうなっている。
 俺は、咥えた煙草にライターで火を点けた。
「あぁー……これ、やばいかもね」
 他でもない。
 白鳩達の、聖なる領域へと。



【登場した湿気の街の住人】

・グレーアッシュの悪魔
・殺戮婆
・黒熊ヒーロー
・金棒乙女
・毒爪女子高生
・ペスト乙女
・樂の白鳩(煙草屋、「樂」の店主)
・毒歯の白鳩
・黒兎のお面の少年
・黒兎のお面の少女
・ペストマスクの男

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