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自分で自分を評価してもあまりいいことないんじゃないか。特にHSPとか発達障害とか

昨年末にインスタグラムをアンインストールした。時間の浪費を減らすことで必然的に自己研鑽のウエイトを増やす狙いだが、これまで何度もアカウントを削除したり作ったりを繰り返しているので、気が向いたらまた浮上するのだと思う。完全にしないとか、絶対に継続するとか、0か100かのルールは自分に課さない。自分一人で完結する習慣ならいいかもしれないが、SNS等外部との接点に関しては極端な行動を取らないようにしている。なるべく自分の生活に不必要と思われる情報からは離れながらも、連絡が取れないなどの不便があれば柔軟に対応するぐらいでいいだろう。デジタルデバイスを持っていれば重要な情報は嫌でも入ってくるし、知りたいことがあれば自ら調べればよい。

前置きはこれぐらいにして。

昨日友人と話をしていると「自分には集中力がないし、どうやらADHDっぽい」と言う。その人とは知り合って8年ほど経つが、確かに映画を最後まで観ないし、会話の内容も飛ぶことがあるし、鞄の中はいつも散らかっているし、私は確かにそうかもしれないと納得した。

興味深かったのは、その友人が「ADHDは薬を処方してもらって治療するべき病気であり、発達障害は悪いことである」と認識していることだった。あまりにもはっきり、しかも涙まで流しながら"治すべき病気"だと言ってのけたのでなかなかに驚いた。

私は自身の経験もあって、これまでHSPや発達障害などをよくテーマに取り上げてきた。そしてそれらの、言わば「生きづらさにつながる要因」に対するスタンスは基本的に「仕方ないし、個性として受け入れて、楽しみながら付き合っていく」というもの。発達障害=排除すべき悪という考え方は大変に古く、極端で窮屈だと思っている。(症状の程度が甚だしく、日常生活に大きな支障を来している場合は別として)

ダイバーシティ&インクルージョンと言って、多様な人材を認め、その能力を発揮させる考え方が一般に浸透してきている現代において、発達障害を抱えていることがペナルティであると、わざわざ自ら頭を抱える必要はないのではないか。

私の主張は、概して自分のことを自分で評価する必要はないということ。過大評価は傲慢として言動に表れ、過小評価は卑下や自己憐憫につながる。要は余計な不幸を生む。

適正な評価は外部(他人)に任せればよく、自分は専ら興味のあることに取り組み続けるだけ。「努力は自分、評価は他人」である。また、「人の目というが、それは実は"自分の目"である」という話もある。過大でも過小でもない適正評価を自ら試みたとしても、それは客観性に欠ける。企業にとっての時価総額みたいなもので、自分で自分の評価をコントロールしようとしても過去の出来事や他人の考えはその範疇に収まらないため、相当難しいのだ。

私は人間として生まれてきた。笑える、泣ける、手足を動かすことができる。人生は一度きり。死んだら終わり。悩んで良し、泣いても良し、ただしその次は笑うこと。現状が苦しければ納得するまで足掻けばよい。川を流れる水のように流れに身を任せれば、やがて然るべきところにたどり着く。

ADHDに悩む友人にも、今はあまり自分の意見を伝えず、様子を見守ることに徹しようと思う。ま、この記事を読まれる可能性はあるのだけれど!( ・`д・´)


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