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僕は身近な誰かの死を、客観視できる自信はない

人は主観と客観のハザマで生きている。

エンディングの『あいことば』を聴きながら
そんなことを考えては、2時間の記憶を辿っていた。

実は今も聴いている。

決してガツンッというインパクトがあるわけでも
派手なストーリー展開があるわけでもない。

けれど今でも余韻がつきまとっている。

すごく良い余韻が。

死生観を形成させるものってなんだろう

タイトルとポスターだけを見て、

自分の娘に重ねて辛いだろうな

そう思ってた。

けどあまりそうは感じられなかった。
それは作中の「死」が
想像していたものとは少し違ったからかもしれない。

死生観、まさに死生観だ。

それは生のある死だった。

テクノロジーと人の死生観の干渉はもうすでに各所で発生し始めているし、そこはこの物語でも起点と終点を繋ぐところの起伏を大きくするための表現方法にすぎない気がした。

あれが彼の守りたい世界だとしたら、その先になにがあるんですか

人間なんてエゴな生き物だ

人間の技術が関わることの許される範囲ってものがある

神の領域とされるその禁忌は
まさしくエゴから生まれるものだ。

死生観がエゴから形成されることは
果たしていけないことなんだろうか。

主観と客観

対象物にひとつの光源を当てると
距離が近いほど光の届かない場所は広がる。

同じように主観には必ず一人の視点では
カバーしきれない死角が存在する。

そこに客観という光が当てられることで
陰だった場所が明るく照らされ、
見えなかった部分が見えるようになる。

ただ客観も結局はいろんな人の主観の集合体だ。
主観側が自分の立ち位置を変えないと
結局見える範囲は変わらない。

どの主観の立場も分かりすぎて辛い。

そう、予想外にここが辛いかった。

定義的な死と、こころの中での決別としての死

人の死を二度表現する作品は他にもある。
この物語にもそれは二度あった。

序盤の死は完全な死ではなかったからこそ、
あっさり表現していたし、そう感じたのだ。

人は二度死なない

劇中のそんなセリフがさらにそれを増幅する。

起こってしまったことへの捉え方や絶望、
なにが正しい選択かなんて分からない。

ただそれを背負いながら進んでいくしかない。
生きている、残されたものにはそうすることしかできない。

どこかでそれと決別して生きていくしかない。

音楽ノチカラ

冒頭でも書いた通り、エンディング曲に聞き入ってしまった。
絢香の「あいことば」の力もすごかった。

最後まで歌と一緒に見通して欲しい作品です。
インパクトはそんなにないけど、いい意味で余韻のある。
そんな2時間のスクリーン体験。

一言で言うなら

「葛藤」

この文字化できない感情。
映画『人魚の眠る家』の余韻を味わってほしい。

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