人生80年時代においては「スポーツ」ではなく「運動」を重視した教育こそが求められる
運動嫌いだった思春期
私は運動が嫌いで、小中高と体育や運動会などで良い思い出がほとんどありません。
野球をするとなれば飛んできた球はグローブの先をかすめるばかり、転がってきた球はトンネルだらけ、投げれば明後日の方向へ大暴投、バットは空振りの嵐という典型的な運動音痴でした。
バレー、バスケットなどは言うまでもなく、足も遅いために運動会では1~3の旗の下に座ったことは一度もありません。
それゆえに、体育の授業は毎回毎回憂鬱な気持ちになっていました。
加えて社交的な性格でもなく仲の良い友人がいないため「二人ペア」という恐怖の指示で余りもの扱いを受けたり、先生がペアになったりすることも多かったように記憶しています。
体育の授業は自尊心を傷つける時間
私の経験した体育の時間、担当した体育教員は全て技術的な指導をまともにした人はいませんでした。
それなりに準備運動をさせた後は、練習試合的なものをさせられるばかりで、どうすれば上手く体を動かせるかといった話を聞いたことはほとんどありません。
したがって、初めから運動が得意な生徒だけが目立つ時間になっていて、成長を実感したことは一度もありません。
あの時間は「スポーツができる生徒」にスポットライトが当たる時間であったと言えるでしょう。
とはいえそれはほかの授業時間も同じです。算数が得意な子供は算数の時間が、国語が得意な子供は国語の時間にスポットが当たることは体育と同じですし、それをことさらに否定するつもりもありません。
しかし、体育の時間の嫌なところは個人の能力的な劣位や「できない」ことを自覚させられるだけでなく、集団における「お荷物扱い」になるということです。
したがって集団競技においてミスをするたびに白い目で見られ、罵倒されるということになります。勝負熱が高まれば人格否定までされるような状況にもなります。
私の自分でも自覚する「やや捻くれた性格」が、その当時のそうした経験に原因があることは否定できないでしょう。
あの時間は自尊心をずたずたにされる時間でした。
(その経験ゆえに図太さを身に着けたことは間違いないですが、それを肯定的に捉えることもまた違うように思います)
「スポーツ」≠「運動」
近年はそうした風潮も変わりつつあるようです。若い先生などはきちんと理論に基づいた指導を行うケースも増えていると聞きます。
リンク先の記事にもあるように、筑波大学体育系の坂本拓弥助教は現代の体育教育が「スポーツ」に依り過ぎていると指摘しています。
「スポーツ」重視の体育は往々にして体を動かすことそのものを目標とせず、勝利を目的化してしまいがちです。
子供の目の前に勝敗の決まるゲームをぶら下げる以上、そうなるのは仕方ないことです。
だからこそ体育においては「スポーツ」ではなく、健康に体を動かしたり、技術を磨くための練習を学ぶ「運動」に重点を置くべきなのではないでしょうか。
「運動」が向いている
私は30代の後半から毎日運動を欠かさず行っています。エアロバイクを毎日漕いだり、自転車でかなりの距離を移動したりしています。
最近はNintendo Switchのリングフィットアドベンチャーを毎日プレイしています。(これはゲームと馬鹿にできないレベルの運動量です。)
その結果か、食事に関してさほど気を使わなくともBMIは20を維持していますし、メタボのウエスト基準をきちんと下回っています。
一方で「スポーツ」を得意とし、好きであった知人の多くが肥満体系になって「運動」を一切していないというケースをよく見ます。
どうやら私は「運動」が嫌いではなく、「スポーツ」で勝負をしたり、そこで人格否定を受けたりすることが嫌いだったということに、人生の半分を折り返す年齢になってようやく気付きました。
年をとっても続けられるのは「スポーツ」ではなく「運動」です。
「スポーツ」は時間的、人員的な制約があるのに対し、「運動」は一人でもできますし、年を取って身体機能が低下しても状況に合わせたものができるからです。
人生80年時代において求められる教育は「スポーツ」ではなく「運動」を重視したものではないか、と思うのです。
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