見出し画像

孤独が分からない

物心ついた頃から今、三十半ばまで一貫して変わらない事がある。自分は独りで生きていけると思っている。むしろ誰かが側にいてくれないと生きていけないと思った事が無い。寂しい、孤独だ、と感じた事が無い。感動して泣いたり、誰かが亡くなって泣いたり、助けてもらって感謝したり、そういう感情はあるんだけど。行ってみないと分からないけど無人島で独り暮らせると思う。

人として欠落してるのか。

鬱の時も躁の今もそれは変わらない。だから自分以外の他者すべての『孤独で寂しい』を理解できてないんだと思う。なので『自分はあまり人の気持ちが分からない人間』という前提で生活してる。分からないと言う事があると自覚できて、分かっていれば大丈夫な気がする。

独りでも良いし誰かがいても良い。あんまりベタベタされると億劫。小中高と特定の集団だけに居る事はなかった。今は平気で上手に社会に馴染んでいるけど確かに鬱の時はとても煩わしかった。人と関わるのが駄目だった。

世の中は相互扶助、だけど人と人が解り合える事なんてない。私はあなたにはなれないので私のあなたへの優しさや思い遣りは、本当に親身になっていたとしてもエゴイズム、自分を満たすための欲でしかないんだと。だから自分だって本当に誰かを心配したり優しくしたりしたくてコトバをかける事はあるけど、正しくはコトバをかけてあげてる自分が〜、と言うことなんだと思ってる。

誰かへの思い遣りは自分を満たすための欲でしかなくて、人と人が解り合う事はない、と生まれながら?にして分かっていたから孤独でも平気なのか?

孤独がどんなものなのかをいちばん体現してるのは自分なのかもしれない。そもそも解り合う事なんてないと悟りきってるから、自分の生き方の前提に孤独があるがゆえ、寂しいが無い。

このさき、寂しくて誰か側にいて、私の事を分かって、なんて切実に思うことがあるのか?

この生まれつきの性分は双極と因果があるのか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?