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あなたのほかには、誰も。【掌編集】


 ふたり


 アブラゼミってさ、なんかコーラ飲みたくならない?

 しゃがんだまま虫捕り網に手を入れて、セミを摘み出そうとしながら彼女は言った。小さい頃よく遊んでいた公園に、わたしたちは来ていた。

 早朝の公園には、わたしたちの他には誰もいなかった。公園に着くまでの道でも、ランニングしてる人や、犬と散歩してる人……ごみ出しに行く人なんかにも、幸いなことに出くわさずに済んだ。せっかく彼女とふたりでいるのだから、知っている人とは出来るだけ会いたくなかった。

 このあとは電車に乗って、水族館に行くことになっていた。久しぶりに会うんだし、せっかくだから夏っぽいところに行こう。そう言ったのは、彼女のほうだった。夜まで遊んでさ、イワシの群泳とか見ようよ。

 そうだ。予定、大丈夫? と彼女は言葉を添えてくれた。メッセージツールに、首をかしげた猫のスタンプ。わたしは、もちろん、と返したのだった。彼女も好きな少年漫画のスタンプ。水族館なんて何年ぶりだろう。

 彼女がわたしを見上げて、まぶしそうに目を細めた。黒髪のショートヘア、ほんとによく似合ってる。刈り上げた襟足。ビスケットのマリーを半分こしたみたいな耳が、ぜんぶ見える。

 触ってみる? そう言われて、セミのことだと分かるまでに、ほんの少しだけ時間がかかった。その、ほんの僅かなタイムラグを彼女は見逃さなくて、あ、今見惚れてたんでしょ、と悪戯っぽく笑って、はい、とセミを差し出してきた。

 彼女のつけてる水色のマニキュアは、空というよりも風のような雰囲気で、彼女がわたしの側にいて何かするたびに、気持ちの良い外気のようなものを感じさせた。思えば、むかしからそうだった。どこかへ出掛けようとするときも、新しいことを楽しもうとするときも、彼女がいると、心細くなかった。今だってそうだ。

 セミは、足をしきりに動かしているけれど、とても静かだった。鳴かないの、確かメスだっけと思っていたら、この子ってたぶんオスだね、と彼女が言ったので、うん、とだけ返した。どうやって見分けてるのか、聞いてみたい気持ちにはあまりならなかった。セミは正直、得意じゃないし。だからわたしは、あ、と思いついたように言ったのだった。たしかプールの入り口のとこの自販機に、コーラあったと思うよ、って。

 それ、確率高そう。そう言って彼女が指先のちからを緩めたとき、セミはすぐさま彼女の指を振りほどいて、やたらとあわただしい羽音をたてながら、ふらふらと飛んでいってしまった。

 小さい頃よく遊んだ公園って、やっぱり狭く感じるものなんだなぁと、公園を出るときに思って、彼女に言おうかとも思ったのだけれど、コーラ、缶だと良いなぁ、500のやつ、と彼女が言ったので、そうだね、とだけ答えた。それからほんの少しだけわたしの先を歩いて、虫捕り網を掲げるように伸びをしている彼女の肩甲骨のあたりを見つめながら、しばらく歩いた。








 夜風


 週の終わり、さいごの仕事から帰宅するなり、からだ中に貼りついてる服をうんうん言いながら脱ぎ捨てて、洗濯かごに投げつける。べろん。かごの縁からはみ出してるインナーを睨みつけてバスルームにはいる。床の目地、湯船の縁、どこかしらなんとなく汚くて、なにもかもが気に食わない。栓をひねるとシャワーからつめたい水が飛び出してきて思わず、だあああ! と叫んでしまったりして、苛々のしかたが、我ながら馬鹿馬鹿しい。シャワーのざああ……に、さっきの私のだあああ! の余韻が吸着されていく。叫んだせいかすこし喉がいたくて、口をすすいで、うがいをした。素っ裸で、人目を気にせずにするうがいは気持ちが良い。だんだん水が温かくなってきても、べえ、とか、ばあ、とか言いながら、だらしなく口を開けていた。

 顔も頭もからだもみんな、今日は適当に洗って、タオルも洗面所に積んであったやつを三枚使って拭いた。髪の毛の先からぱたぱた滴ってくるのをそのままにして、下着を履く。屈んだとき、鏡にろっ骨がうっすら浮き上がってるのが映って、じろりと目があった。あーあ……また痩せたのかねぇ。もう少し、省エネできたらいいのに。感情の起伏とか歩く歩幅とか、座る姿勢とか。でも結局はみんなわたしにとっての盾だし鎧だし補助系呪文だから、MPをケチったりすることは出来ないのだ。MPって、マジポイントだ。正気と書いて、マジと読む。

 ――ふぉぉ、世の人々に充満する邪気は今月になってますます強まっておる、これは邪神の再臨がいつまたやってきてもおかしくはない、今のうちにレベルを上げるのじゃ、気を抜くな気を配れ、備えよ……

 ……なんて頭のなかで不思議な婆ばに囁かれながら過ごしてりゃさ、ってそんなときもあるってだけで、いつもじゃないし! だってそんなの、変な人じゃん。あははは……ううう、話したい。電話したい、ともだち。でもみんな忙しいしなぁ、ううう、ちくしょう〜……。

 そんなこんなで膝を抱えてたら汗が引いてきたので、ふっかふかのパーカをかぶりものみたいにして着込む。つまんない無地のパーカ。でも、むちゃくちゃ着心地がよくて、部屋のあかりの色を着てるみたいで、ちょっと安心する。おふとんパーカと言っても過言ではない。下はスウェット。安いやつで、冬物の裏起毛っぽいやつをズボッと履いて、おしまい。もう蝉が鳴いてるけど、それがなんだっつーのか。外が夏でも、わたしはわたしの部屋の季節を過ごすんだい。ちぇ。

 ……かけよ、電話。アキ先輩、つながるかな。

「……もしもし?」アキ先輩。
「すみません、今だいじょぶですか?」
「うん、あ、ちょっと待ってて。こっちからかけ直すでいいかな」
 あっ、とか、はい、とか、わたしは逃げ帰るようにして、一呼吸おいてから電話を切った。自分から掛けたのに、申し訳なさでひたひたにふやけてしまう。
 まもなく携帯が鳴って、見るとアキ先輩と表示されていて、こっちから掛けたときよりもなぜだか緊張する。唾を飲んですぐ通話ボタンを押した。

「はい。あの、サチです」
「ああ。ごめんね、ちょっとバタバタしてて」アキ先輩。
「いえ、こっちこそ……なんかごめんなさい」
「いや気にしないで。ベランダに出てて、引っ込んだだけだから」
「あっ、タバコ中でした?」
「ううん。タバコは、最近吸ってない。ゆる禁煙それとなく、みたいな感じで」

 それを聞いて、アキ先輩がどんな銘柄のタバコを吸ってたのか、なんとなく思い出したくなったけど、ぼんやりと箱が緑色だったということくらいしか思い浮かべられなかった。その箱を、飲み会のとき、みんなと話して笑いながら、伏し目がちになって席を離れたアキ先輩が、す、と取り出したその仕草を、きれい、と思ったことはよく覚えていた。

「ベランダって、良いですよね」
「え? はは、そう?」アキ先輩。衣擦れ、座り直したような……それから、プシッっていう、たぶん缶のプルタブを開けた音。ハイネケンかなと思って、
「あっハイネケンですか?」と言ったら、
「分かる? すごいね、さすがぁ」
「あたしもなんか飲みます」
「あいよー」

 立ち上がって冷蔵庫を開けていると、ハイネケンがグラスに注がれる、にぶいノックのような音が聞こえてきた。アキ先輩の、飲んだときに喉を鳴らして息の抜ける音とか、んふ、ふふふ、って一口目のあとにすぐ笑いはじめるところを想像してしまって、なんだか開き戸の牛乳ばかり見てしまう。泳ぐ目で、やや上の段にあった缶を見つけて、レモンサワーを手に戻った。プシュ。

「じゃあ、ま、乾杯!」
「お疲れ様ですー」

 一息に飲み干したらしいアキ先輩の息の抜ける音、それから想像通りの、んふふふって笑い声が聞こえてきて、あたしも一口、もう一口、と喉を鳴らす。すっきりしたレモンの果実味を、きついアルコール感が追い越していく。何度も、何度も。

「仕事のこと?」
「ああ、いえ、でも……はい」
 
 仕事のこともあるけれど、それだけじゃないんだと思った。もっと、漠然とした、得体の知れないモヤモヤを、少しだけでいいから晴らしたくて、電話してしまったんだと思います。……ぐっと喉が熱くなる。こういう、分かりにくい話って、どうやって切り出せばいいんだろう。話し始めてしまったら、止まらなくなりそうで、鼓動が大きくなる。まだ何も話してないのに。
 
「……んー、サチさぁ。その感じ、違うでしょ」
「えっ」
「まぁ、今すぐには話しづらい感じなら、また後でもいいけどね。こういうの、言う側のタイミングのほうが話しやすいと思うし」

 アキ先輩の言葉に、わたしの部屋の中でえんえんと巡っていた空気が反応して、さあ、と風が吹いたような気がした。わたしは驚いて、そのときの体温のまま、目の前にいないはずのアキ先輩をすごく近くに感じた。まるでさっきまで先輩がいたベランダにわたしもいて、柵にもたれて、ふたりきりで話してるみたい。

 レモンサワーにまた口をつけて、つめたく濡れてる缶を首にあてた。わたしが黙っていると、アキ先輩が話しはじめた。わたしは目を閉じて、ときどき缶をあてるところを変えながら、ちょうど隣りあった人の肩口みたいな位置にあるソファにからだを預けて、相槌とも溜め息ともつかない曖昧な返事をしていた。

 先輩は、すごくどうでもいい話をしてくれた。食パンにはジャムをまんべんなくじゃなくて、ところどころ塗ったほうが飽きずに食べられる、とか。ハイネケンばかり飲んでるけどハイネケンじゃないビールも飲むしなんならビールなら何でもいい、とか。タバコを吸いたくなったらガムを噛むんだけどすぐ味が無くなるから継ぎ足すみたいにハイチュウ食べてる、とか。
 そうしたらだんだんわたしも口を挟みたくなってきて、ジャムもマーガリンもきっちり塗りたくったほうがすべて幸せになります、とか、クラフトビールは飲みものっていうよりスープじゃないですか、とか、ハイチュウはむかし突然味が変わったりしてから信じられなくなって買ってません、とか言ったりして、とうとうとふたりして話しつづけた。

 先輩がなにか言うたびに、わたしもなにか言えるのが、思ったことを思ったままに言えるのが心地よくて、床に置いてたレモンサワーの缶を持ったとき、空気みたいに軽くってあわてた。このままずっとこうしていたいなんて思う暇もないくらい話して、話さないときはちょっと仲の良い同僚って感じなのに、連絡して話し始めたらなんでこんなに楽しいんだろう、止まらないんだろう。

「ねえ、チエさ。って、あ、この呼び方はヤかな?」

 アキ先輩が照れたように言って、その瞬間ひかるみたいに、わたしの名前はサチエで、でも職場ではサチで通っていて、チエは……だらだらしたどうしようもないわたしのことを知ってて付き合ってくれていた友だちが、もう連絡はつかないけれど唯一無二の親友だった友だちが、わたしのことをずっとチエって呼んでくれていたことを思い出してしまって、込み上げてしまって、しばらくしてようやく、ヤじゃないです……ぜんぜんチエでいいです、とだけ言えた。

 酔っぱらったアキ先輩にあらためて、チエ〜〜……としなだれかかるように呼ばれたから、わたしも酔っぱらった感じで、チエですよ〜〜……と答えて、鼻をすすって笑った。









 あそぼうよ


 わたしには、エミちゃんという友だちがいました。その子を含めて、わたしたちは五、六人で、中学二年の夏休みにわたしの家に集まって、順番にこわい話をすることになりました。

 言い出したのはサキちゃんで、わたしはほかの子といっしょに、いいねいいねと言ってた気がします。けれどいざ話してみると、ぜんぜんみんな怖く話せなくて、とちゅうで変な顔してふざけ始めたり、突然大きな声で、ばあ! ……なんて言って笑ったりしていました。

 けれどエミちゃんは違いました。みんなと話しているときも、笑ってはいるんですけど、でもふいに真剣な顔をして、スカートの裾をぎゅ、と持っていました。わたしはエミちゃんの、そういう仕草をどうしても見つけてしまって、見つけてしまうとわたしもやっぱり笑ってはいるんだけど、なんとなくエミちゃんのことがずっと気になって、眼差しを向けてしまいます。すると、何度かエミちゃんと目が合うようになって、なにもないはずなのに目配せしてるみたいな……何か変な感じになってきてしまって、これはもうトイレにでも行こうかと迷いはじめたとき、じゃあ次はエミの番ね! とサキちゃんが言ったのでした。

(サキちゃんがはっきり声を出すと、みんなの間でぐにゃぐにゃに行き交っていたふざけたり笑ったりする空気みたいなものがいっぺんに改まって、もう一度、そこからどんな風に始めてもいいような雰囲気になってしまうから、不思議です。)

 エミちゃんも、うん、と言って、話しはじめました。さっきまでスカートを握りしめていた手が、す、とゆるんだのを、わたしは見つめていました。


「……こわい話、っていうのとはちょっと違うかもしれないんだけど。

 あれは、もしかしたらお化けというか……幽霊だったのかもしれないな、と思うことがあって。

 ちょうど、今ぐらいの季節だったかな。わたしはまだみんなと会う前だから小学生で、その日の夜はなんだか寝つけなくて、すごく暑いってわけでもないのにたくさん汗をかいちゃったから、なにか飲もうと思って起き上がったの。

 ベッドから降りて、ドアを開けて部屋を出て、廊下のフローリングが歩くたびにぺたぺた吸いついてくるの、なんかやだなあって思いながら、リビングに行ったら、なんとなくあかるくて……いや、電気は点いてないし、みんな寝てるんだけど、ふだんは電気が点いてないと手探りになっちゃう部屋の中が、なぜだかよく見えるくらいにあかるかったんだ。

 それでね、リビングのまんなかに、階段があったの。屋根裏につながる梯子みたいなのじゃなくて、どっしりした木の階段が、天井に続いてて。わたしの家、マンションの三階だし、真上には四階の部屋があるから、屋根裏なんて、あるわけないのに。

 わたし、しばらく立ってたんだけど、少しずつ、その階段に近づいていった。なんだか吸い寄せられてくみたいに、一歩ずつ、ぺたり、ぺたりって歩いたの。さっきまで乾いてたはずの喉も、そのときにはもう気にならなくなってて、その代わりになんとなく胸の辺りが、おもくなっていくような気がした。息もなんだか、しづらくて。それで見上げると、まるで今までもずっとそこにあったみたいに、天井に四角い穴があいてたの。

 なんで怖がったりしなかったんだろう。気づいたらわたしはもう、階段の一段目を踏みしめてた。ちょっとふかっとして、湿っていて、足のうらが包まれるような感じがした。知らない生きものの肌みたいに生温かかった。

 一段、もう一段、って上りながら、きゅうに崩れたりしないか、確かめながら進んだ。……そうやって慎重に、ゆっくり進んでいれば、何かあってもすぐに戻れると思ってた。そしたら突然、

 ぎ、

 ぎぎ、

 ぎぎぎぎぎぎぎ!!

 下からぜんしんが突き上げられて、わたしは何にも分からないまま、床だか壁にぶつかった。う、うう……って顔をあげると、うすぐらくて、でも、目を凝らせば見えなくもないくらいのあかるさで、わたしはそんなに広くない部屋だなあ、とか、そうか……さっきのは階段がばくんって閉まっちゃったのか、とか、なんでだろ、やっぱりあんまりあわててなかったんだけど、息をするたびに、あたまがどんどんぼんやりしてきて、そのぼんやりしたわたしの正面の……すこし離れたところに、とにかく、誰かいる、って気づいたの。

 気づいて、見ようとしたら、だんだんはっきり見えてきて、それは女の子みたいだった。わたしよりもずっと小さくて……幼稚園くらいなのかな、ちょっとうつむいていて顔は見えないんだけど、髪を二つ結わきにして、ふわっとした青っぽいワンピースを着ていて、ぺたんって座りこんでるみたいだった。すん、すん……って音が聞こえて、あ、泣いてるのかな、ってわたしは思って、迷ったけれど、もう少し近くに行って、話しかけてみようかなと思ったの。そしたらね、また、

 ぎ、

 ぎぎ、

 ……って、わたしが女の子のほうに行こうとすると、その場所ぜんぶが歯を食いしばってるみたいに軋んで、わたしは耳を塞ぎたいのに塞ぐこともできないまま、そこから一歩も動けなくなって……そのときね、女の子がわたしにこう言ったの。

『……あそぼうよ』

 って。」


 ――そこでエミちゃんが、ふううう……と息をついて、もうすっかり氷の溶けた麦茶のグラスに手を伸ばして、ゆっくりと口に含みました。エミちゃんのおでこや首すじから汗が伝っているのを見て、わたしも汗をぬぐいました。みんな息をのんでいたのか、くったりした様子で、麦茶には口をつけませんでした。

「……あの、エミ。その話、そこでおしまい?」

 そう言ったのは、やっぱりサキちゃんでした。サキちゃんの声も、いつもより小さかった気がしました。

「あ、ううん。でも、えっと……」

 エミちゃんは、窓のほうを見て、それからわたしたちを見つめました。窓の外は、もう夕陽がほんのり残っているだけになっていて、あとはほとんどくらやみです。

「……今日は、帰ろっか」

 サキちゃんは、ちょっと笑いながら、食べたものや飲んだものの片付けを始めました。みんなも、うん、とか、そうだね、なんていいながら、身支度をはじめて、それから誰ともなく、エミちゃんなんかすごかったよ、とか、まるでそこにいるみたいな気持ちになっちゃった、ありがとねって、ぱらぱら散りばめるみたいにエミちゃんに声をかけていました。

 エミちゃんは、うん、って頷きながら、またそろそろとスカートの裾を、ぎゅ、っとしていました。わたしはやっぱり、そのことに気づいてしまって、なんとなく目を伏せていました。


 ・●・●・


 玄関でみんなを見送ったあと、わたしはしばらく明かりもつけずに、その場に立っていました。外の、夏っぽい夜のにおいがまだ残っていて、その匂いをかぎながら、エミちゃんのしてくれた話と、エミちゃんのことを考えていました。あそぼうよ。それから、スカートの裾をぎゅ、っとしてたエミちゃん。

 どのくらいそうしていたのか分からないけれど、もう、どうにも足が軋んできたので、ペタリ、ペタリと、わたしはゆっくり廊下を歩いて、じぶんの部屋に戻りました。
 部屋にはまだ、みんなといたときの気配というか……シャンプーとか制汗剤のかおりや、おやつで食べたチョコとかビスケットの匂いが残っているのに、誰もいなくて、なんだか静かで、落ち着かない気持ちになりました。

 はあ、とため息をつきながら勉強机の椅子に座ると、机の上に置いてあった携帯がちかちか光っていました。……メール? 手に取ると、しっとりと吸いついてくるような手触りで、メールは、サキちゃんからのものでした。


 ▷きょうはありがと。
 あの、さっきのエミの話なんだけどさ。続き、いっしょに聞いてくれたりしないかな? メールしたら、やっぱり続きがあるってエミ言ってて……でも、また集まって話すのはなんかしんどいっぽいんだ。それで、メールならいいよって。どうかな?

 メールのあて先を見ると、エミちゃんも入っていたので、もうこれは、わたしも続きを聴くメンバーに含まれてるんだって……そう決まってしまっているように感じられて、


 ▷うん、いいよ。わたしも気になってたんだ。いっしょに聴きたい。

 と、みじかく返しました。するとその数秒後にはエミちゃんからメールが来て、ぽつりぽつりと間隔を空けて、メールは送られてきました。


 ▷その子にね、「あそぼうよ」って言われたんだって分かるまで、すこし時間がかかったの。そうしたらわたしの足元に、とろとろと広がってくるというか、流れてくるものがあって、足にふれると、つめたいともあついとも思えなくって、まるで体温がそのまま流れでてるみたいだなって思った。

 ▷わたしがぼんやりしていて、返事をしないでいたからか、女の子の泣き方が、だんだん激しくなってきて、少しずつだけど足元に流れてくるなにかのいきおいが強くなってるのに気づいて、それでようやく、ああ、流れてきてるのは、この子の涙なんだな、って分かったの。

 ▷だからわたしは、いいよ、って言ったんだ。いいよ、何して遊ぼうか、って。

 ▷そしたら女の子は、ほんとう? って言って、顔をあげたの。なみだで頬がふやけてて、じゃあ、おままごと、したい、って言ったんだ。そうしたら、ふっと全身がゆるんで、わたしは動けるようになったの。部屋はもうそこらじゅう女の子のなみだの浅瀬みたいになってた。

 ▷女の子はさっそく……どこから出したのか分からないんだけど、小さな木のまな板を膝の上に置いて、濡れちゃうのもお構いなしというか、そもそも濡れてることにも気づいてないような感じで、おもちゃの木のニンジン、ピーマン、タマネギを、おもちゃの包丁で切ってくれた。ざり、ざりっていうマジックテープの音が、なんとなく懐かしかった。わたしは、上手だね、って言ったの。ほんとにそう思ったから。

 ▷はい、どうぞ。
 女の子はおもちゃのお茶碗に、ころころした野菜をいっぱい盛りつけて、わたしに差し出してくれた。
 わたしはそれを受け取って、そのときにちょっとだけ、女の子の手に触れてしまったの。女の子は、さっ、と手を引っ込めて、わたしの触ってしまった指のあたりに、ふうふうと息を吹きかけてた。
 ごめんね、とわたしはすぐに言ったんだけど、女の子は、どうぞ、と言うだけで、ふうふう、ふうふう、ってし続けていた。

 ▷いただきます。
 わたしは二本の指でお箸をつくって、ニンジンをぱくり、ピーマンをぱくり、タマネギもぱくりと食べる真似をして、おままごとなんて久しぶりだな、なんて思ってた。わたし妹いないから、ちょっとだけ、お姉さんになった気分だった。
 おいしかった、ごちそうさまでした。そう言いながら、わたしは女の子にお椀を返そうとしたの。そしたら、女の子はふうふうするのをやめて、首を傾げながら、わたしを見つめて、言ったの。

「どうぞ。

 どうぞ。

 ……残さず食べて」


 ――ねぇ。

 ねぇ、ご飯できてるよ。食べないの?

 わたしは飛び上がって、声のしたほうへ振り返りました。部屋の入り口に、母が立っていました。ぜんぜん、気づかなかった。

 うん……今、行く。わたしは、すぐにでも続きが送られてきそうな携帯を置いてリビングに行きました。どちらにしろ、ご飯中は携帯を見れないし。
 うちは共働きで、父は帰るのが遅く、母が夕ご飯を作ってくれていました。
 
 はい、どうぞ。

 野菜やお肉がごろごろした大きさで入ってるカレー。なんか今日疲れちゃって、細かく切るのめんどくさくてさぁ。そう言って母が笑ったので、わたしも笑って、美味しそう、いただきます、と言って食べはじめました。
 もくもくと、なんとなくいつもよりよく噛んでいると、母が、なんか湿気すごくない? 除湿かけてんのにさ。エアコン古いしボーナスで買い替えよっか。と、独り言のような感じで言ったので、わたしもまたもくもくと頬張っては、うん、ほだね、と頷いて、エミちゃんのメール、もう届いてるかな、と、ただそのことばかり考えていました。

 ごちそうさま。

 残さず食べて、部屋に戻ろうとすると、あ、デザートあるよ、ヨーグルト。そう母が言ったので、うーん、ちょっとしてから食べる、とだけこたえて、廊下を歩きました。

 ペタ、ペタ……。

 ペタ。ぺ、タ……。

 なんとなく、床の感じがいつもと違う気がしました。足の裏がひっつくというか、少しずつやわらかくふやけていくような……。

 自分の部屋に入って少しすると、鼻先や頬に水滴がついてきて、わたしそんなに汗かいたっけ、たしかに今日のカレーちょっと辛かったけど……などと思いながら、携帯を見ても着信のランプは点いてなくて、エミちゃんからのメールは、夕ご飯前のでぱったりと途絶えてしまっていました。
 そのあいだにも、わたしの耳たぶからはずっと、ぽたぽた……ぽたぽたと雫が滴りつづけていました。

 間を空けて何度か受信ボックスを更新してみたり、送られてきたメールを見返したりしていると、携帯のあかりがだんだんまぶしく感じられるようになってきて、顔を上げると電気が点いているのに辺りが薄暗くなっていて、お母さん、ねぇ、お母さん……? と何度呼んでも、返事がありませんでした。

 と、携帯の画面が、メールの着信を知らせました。見るとそれはエミちゃんからではなくて、サキちゃんからのメールでした。


 ▷ごめん

 ごめんね

 エミの話あそこで終わりにしておけばよかった

 続き 話してなんて言うんじゃなかった

 電話つながんないよ なんで

 ごめん あたし

 ごめ攣燗 カ阨e#3ゃん


 いそいでサキちゃんにもエミちゃんにも電話をかけてみたけれど、コール音も鳴りません。すると、ジ、ジジ……と蛍光灯がちらつきはじめて、ついには消えてしまい、視界には、さっきまであったあかりの名残があるだけになりました。

 お母さん! お母さんってば! わたしは携帯を手にリビングに向かいました。廊下はびしゃびしゃに濡れていて、途中足を滑らせそうになりながら、わたしは母を呼びつづけました。

 リビングに入ると、さっきまでわたしと母が向かい合って食事をしていたテーブルのあった場所に、エミちゃんの話に出てきた階段がありました。見上げると、天井に暗い穴が開いていて、その穴を見つめていると、なぜだか目が離せなくなってきて、気づいたときにはわたしは階段の一段目を踏みしめていました。ゆっくりと、誘われるように、階段を上っていこうとした、そのとき。

 ズズズズ、ズズズズ。手の中で携帯がふるえました。バイブ機能、設定してないはずなのに。

 見てみると、メールが一通、届いていました。でも、送信元の表示が壊れてるみたいに点滅していて……わたしが瞬きするたびに、それはエミちゃんになり、サキちゃんになり、それから空欄になったかと思うと、さいごには真っ黒に塗りつぶされたようになりました。

 わたしはもう一度階段を見つめましたが、どうしても気になって、メールを開きました。そのメールには、こう書かれていたのです。


 ▷いいよって

 いっては だめ

 もしもいったら


 ……サキちゃんなの?
 エミちゃんは?
 お母さん……。
 
 メールを見終えると、わたしはまた誘われるように階段を上りはじめて、そうだ……きゅうに、ばくんって閉まるんだったと昼間のエミちゃんの話を思い出し、身構えたのですがそうはならず、上りきったところで、ゆっくりと音もなく穴は閉じてしまいました。

 すん……すん……と、どこからか誰かが泣いてるような声が聞こえてきて、まっくらなはずの辺りに目を凝らすと、小さな女の子の姿が、だんだん浮かび上がってくるのでした。青っぽい、ふわふわしたワンピース。間違いない、エミちゃんの話の通りだ、とわたしは思いました。

 女の子の涙でできているという水面は、わたしのくるぶしくらいまで来ていて、足元に気をつけながら、女の子のほうへ慎重に歩いていきました。だんだんと近づいていくにつれて、さっきまでの怖い気持ちや、からだがふるえてきそうな不安のようなものは、ちゃぷ……ちゃぷんと水音にとけていくように、歩くたびに落ち着いてきて……まるでふつうの小さな女の子が泣いているところをわたしは見かけて、大丈夫? そう声をかけようとしてるような気持ちになるのでした。

「……あそぼうよ」

 女の子が、か細い声で言いました。わたしは思わず、口を開きかけて、その肩に手を置きたくなるけれど、せり上がってくる気持ちを飲み込んで、ぐ、と口をつぐみました。さっきの、あのメールのことを、つよくつよく思い浮かべながら、わたしはくるぶしから脛のあたりまで、ざわ……ざわと、女の子のなみだが波打つのを感じました。

「あそぼうよぉ、お姉ちゃあん……」

 女の子の泣いている声は、う……ひっく、うっ、ううう……と、嗚咽のようになり、わたしの胸の内にある肋骨を、び、びり、とふるわせはじめました。すこしでも声を漏らせば、わたしはこの子に何か言ってしまう……こんなにも苦しげに、さびしげに、しかもたったひとりでこの子は泣いていて、そのことに、わたしはどうしようもなく揺さぶられてるのだと分かりました。

 でも、女の子の泣き声は、うっ、ううあっ……わあっ、あああ! 急激に、ぐ、ああががああ! ぎゃらああざざああ! ばらああぐああ! 人の声とは思えないようなものに変わってしまって、わたしは、ぐら、と体がふらつくのを感じ、めまいに堪えながら、……いいよって、言っちゃいけないんだ……でも、じゃあこの子にわたしはなんて言葉をかけたらいいの? もう、分からない。これじゃあ、ここから出ることもできないし、たぶんもうすぐわたしは立ってることすらできなくなってしまう。どうしたら……。

 そのとき、また、ズズズズ、ズズズズ、と携帯がふるえていることに、わたしは気づきました。あわてて確認すると、画面は、表示が乱れていて、じりじり音を立てて光っていました。


 う

  し
       ろ


 と、書いてあるのが、なんとか読めました。わたしは、ぎ、ぎぎ、と軋みをあげながら身をよじって、後ろをみました。

 そこには、少女が立っていました。わたしと同い年くらいで、女の子とよく似たうす青いワンピースを着ていて、こんなに女の子が、喉を切り刻んでいるような叫び声をあげているのに、知らん顔で、手元で開いてる本のページを、一枚、また一枚とめくっていました。わたしは、なぜだか分からないけれど、はっとすべてがつめたく繋がったような気がして、それから頭にぐわあっと血が上って、一気に爆発するみたいに叫んでいました。


 お姉ちゃん――――!!


 女の子の泣き声が、ふっと止んで、少女が本から視線を上げて、女の子を見ました。はあ、と気だるげにため息をついて、本を閉じて抱えると、少女はわたしの横をさらさらと通り過ぎ、女の子に近寄って、言いました。

 ……二度とあたしの本に落書きしないでよね。

 部屋中に広がっていた女の子の涙が、一瞬のうちに凍りついて砕けてしまうような、容赦のない声でした。女の子も、固まってしまったように動かなくなって、ただ呆然と、こくん、と頷きました。

 少女は、女の子の手を掴んで立ち上がらせると、わたしからどんどん遠ざかるように歩いていきました。そして、わずかにこちらを振り返り……いえ、女の子に微笑んだのでしょうか、少しだけ、笑ったようにみえたのでした。
 

 ・●・●・
 

 わたしは、遠ざかっていくふたりの姿を見つめながら、暗い部屋のなかで、ぺたんと座り込んでしまい……気づいたときには、そこはいつものリビングで、わたしはわたしの椅子に、ぐったりと座っていたのでした。

 ……そうだ、お母さん!

 思い出して見回していると、背後でトイレの水が流れる音がして、あんた何してんの、こんな時間に。寝たのかと思ってた、まったく……などと言いながら、母があらわれて、わたし寝るからね、おやすみー、そう言って寝室に行こうとしたところで、ふと立ち止まり、わたしの顔を覗きこみました。ん、どうしたの。何か、あったの。具合悪い? きゅうに次々に言われて、二の腕をさすられて、母の手はいつもは冷たいのにお風呂に入ったばかりなのか、じんわりと温かくて、わたしは何から話し始めたらいいのか分からずに、いや、話せない、お母さんには話せないんだ、と首を振りながら、涙を堪えていました。母は、ふるふると震えてしまうわたしの背中まで包み込むように腕をまわしてくれて、ゆっくりと、何度も、背中をさすってくれました。言えないような感じなら、無理に言わなくてもいいよ。ゆっくり息してごらん。言われるままに、息をはいて、吸ってみると、だんだんと落ち着いてきました。汗かいたね、お風呂どうする? 入る? 訊かれてわたしは、ううん、いい、お母さんありがとう、そう言うのが精一杯で、母のおやすみに、おやすみとだけ返して、自分の部屋に戻り、ベッドに倒れこんで、そのまま眠ってしまいました。


 ・●・●・


 翌朝……というか時計をみたらもう昼過ぎになっていて、母がゆっくり寝かせてくれたのかと、ぼんやり思いました。

 からだがひどく怠くて、それでもなんとか起きあがると、頭も重く……ん、んっ、と咳払いして、喉にからんだものを吐きだしたら、ティッシュが真っ赤に染まりました。

 携帯が床に落ちていたので拾い、ぼんやりとしたまま確かめると、きのうの夜にサキちゃんや、おかしな宛先から届いたはずの壊れたメールは、フォルダの中やゴミ箱、どこを探しても見つかりませんでした。エミちゃんから送られてきたメールも、わたしがご飯を食べる前のところで止まっていて、サキちゃんからは、何のメールも着信もありませんでした。

 わたしはサキちゃんに、おそるおそる電話して、はい、もしもし、とサキちゃんが出たことにほっとしながら、おはよう、あのさ、きのうのエミちゃんからのメールなんだけど……と切り出しました。

「ごめんっ! ごめんね、怖かった?」

 サキちゃんのその様子に、何を言われてるのか分からなくて、えっ、えっ、となっていると、

「実はね、あの話、エミとわたしで考えたやつだったんだ。ほんとごめん!」

 わたしはサキちゃんの話を、味のしない食べ物をもくもくと噛むように聞いていました。サキちゃん曰く、怖い話をみんなで話そうと、エミちゃんが言い出して、サキちゃんもエミちゃんがそんなことを言い出すなんてびっくりしたけれど、面白そうだと言って賛同して、みんなには内緒で準備をしていたのだと、楽しそうに話していました。

「エミってね、すごいの。小説たくさん書いたりしててね、でもみんなにはまだ言ってなかったんだけど、ちょうど怖い話ができたから、夏だし、じぶんが書いたことにはしないで、みんなに話してみたいんだって言うの。そんなこと、エミが考えてるなんて、びっくりしちゃったんだけど、話も先に読ませてもらってかなり怖かったし、これみんなの前でエミが読みだしたらどうなるかなーって、気分がノッてきちゃってさ。でも、いざ話してみたらさ、ちょっとアレな感じの空気になっちゃったし、時間も遅いから、わたしの方で切り出して、お開きにすることにしたの。そうしたら、エミがさ。まだ話したい、って言うのよ。いやでもあの感じじゃあさ、またみんなに話そうって言ってもキツいと思うよ? ってあたし言ったのよ。そしたらエミ、カヨちゃんに聞いてほしい、カヨちゃんなら聞いてくれると思う、って言うから、じゃあちょっとだけ訊いてみるけどダメそうだったらすぐに止めるよ、って言ったの。そしたら、分かった、でも、カヨちゃんなら、いいよ、ってきっと言ってくれると思うから、って。……いやほんと、なんだったんだろうね、なんか二人で盛り上がっちゃって、カヨちゃん巻き込む感じになっちゃって、なんかほんと申し訳ない、ほんとごめん」

 わたしは何度も、うん、うん、そうだったんだね、と頷いていました。

 じゃあね、またあそぼうね。サキちゃんが言ったので、うん、またね。わたしも言って、電話を切ろうとしたときでした。
 電話の向こうで、かすかに、サキちゃんじゃない誰かが、くすりと笑ったような気がしたのです。が、電話はすぐに切れてしまい、わたしもひどく疲れていた上に目が覚めたばかりだったので、それ以上確かめる気にはなれませんでした。

 わたしはそれ以来、この話を誰にも話していませんでした。……あなたのほかには、誰も。









 どうかしてまして


 真夜中にベッドのなかで眠れない時間がつづくと、怖い話を思い浮かべてしまう癖が、わたしにはあります。
 
 そういう癖はほかにもあって、たとえば、お経を上げてる時だとか、真面目に静かにしてなきゃいけないときほど、あのお坊さんの座布団がきゅうに浮き上がって回転しだすんじゃないかとか、下らないことばかり考えてしまうんです。それで笑いが込み上げてくると、今度は神妙な顔をして、じっくりと、その、なんというか……やらしいことを考えたりするんです。急に何をと思われるかも知れませんが、本当にそうなんです。とてもここでは言えないようなやらしい感じのことを、思いつくまま考えていく、するとさっきまで吹き出す寸前だったはずの笑いが、不思議なほど、スーッと落ち着いてくるんです。
 あの……そう簡単には信じてはもらえないかも知れませんが、笑ってはいけないのにどうしても笑いたくて仕方がなくなることって、きっとこれからもあると思うんですよね。その時に、もしよかったらこのことを思い出して、そして試してみてはもらえませんでしょうか。あの、たぶん堪え切れないとは思うんですが。……いえ、話が違うじゃないかとか、そういうことではないんです。すみません、分かりづらくて申し訳ないです。
 というのも、この方法には致命的な落とし穴がありまして、それは「こんなにも凄まじくエロいことを真面目な顔をして考えて、今にも吹き出しそうになるのをどうにか堪えている自分」のことを、なんとも思わない必要があるんです。でも、大抵は、何やってんだろう、わたし……って考えてしまうと思うんです。そうして結局あっけなく吹き出して、むせたふりをして誤魔化すことになるわけです。なので、あの、最終的に笑ってしまうことは、止められないんです。でも、吹き出してしまうのを先延ばしにすることはできます。それに、笑ってはいけない時間は有限です。なので、どうかこの方法でそういった時間をなんとか乗り切ることができますようにと、ささやかですが祈っています。
 
 ……ん? あれ? すみません、すこし話が逸れてしまったようなのですがとにかく、わたしは今も、思い浮かべてしまった怖い話がこわくて、どうしようもない怖さをねじ伏せるために、またこれも思いつきなのですが、ふくらはぎに力を込めて、こむら返りになるかならないかのギリギリの線を、ひとり探っていたところだったのです。

 ……まだいける、まだ……っふう〜。今のすれすれだったな、危ない危ない。

 ……うあっヤバ、あっあっあっ? くあっヤバいヤバい、ああっ! ぐあああっ! 

 ……とまあ、どうしようもない痛みと自分の馬鹿さ加減に悶えながらですね、盛大にこむら返っているふくらはぎをこう、ゆっくりと、ひいひい言いながら伸ばしていましたら、先程うっかり思い浮かべてしまった恐ろしい話というのはいつの間にかフェードアウトしていました。ふう。ひとつ闘いを終えた感じで、汗をぬぐいながら一息ついていた、そんなときでした。

 今度は、なんだか無性に、ケーキが食べたくなってしまったのです。

 それもわたしの大好きなショートケーキじゃなくて、目が醒めてしまうくらいにふわふわの出来立てのシフォンケーキが食べたくて仕方がなくなってしまったのです。時計は、深夜三時を回っています。ケーキ屋さんが開いてるはずもないですし、深夜営業のレストランではこの欲望を満たせそうにありません。これはいっそ作るしかないか……とも思いましたが、そもそもうちにはオーブン的なものが無いのでした。

 こうなったら、今からいっとう素敵なシフォンケーキの絵を描いて、枕の下へ忍ばせてやるしかありません。え? 何故って、夢に見るためですよ。夢の中で、現実では一生食べられないくらい素敵なシフォンケーキを、もう入らないってくらい口一杯に頬張ってやろうと、そう心に決めました。掛け布団がブワサッと宙に舞い、それがふたたびベッドに落ちるまでにわたしは暗がりの下、最高のシフォンケーキを描くために立ち上がったのです!。


 シャッ……

 シャシャッ……

 サカサカサカ、サッ……


 フフッ……

 ンフフフ、ヤバいこれ、まじヤバ……


 サッ……

 サササッ……

 ンフフフ、フ………

 シャッ……

 シャシャッ……カラン、ラカラカラ……ポトッ。


 ……ス――……

 ……フスゥ――……


 ……ゴッツ!

 アッ、イッタァ〜〜ッ……ハア!? ヤバッ! ふ、ふくらはぎリバイバルッ、アアッ、ウッ、クフゥ……
 

 ……チュンチュン、チチチ。


 窓の外があかるくなってきた頃、ようやく絵が出来上がりました……。


 ――青いシンプルな縁取りのあるお皿に、大きさにして食パンをななめに半斤にしたようなシフォンケーキが盛りつけられています。添えられたクリームもしっとりとケーキに身を預けるようにしていて、なんだか可愛らしく、でも、量はたっぷりとありました。シフォンケーキの表面には、ふくふくとした気泡の名残りがあって……きっとわたしが口に運ぶたび、そのひとつひとつにクリームがよく染み込んで、ひとつになっていくのだろうなと、想像が膨らんでしまいました。
 傍らには、同じく青い縁取りのシンプルなティーカップ、ティーソーサーがあり、見つめるたびに紅茶にもコーヒーにも見えるような色の飲み物がしずかに湯気をたてています。ちいさい指先くらいのミルクポットが可愛らしくて、なにか雛のように思っていたら、金色のスプーンの柄の先端がぽってりとした小鳥になっていました。それをみてなんとなく、このスプーンとティーセットはたぶん別々の人が選んだのだろうな、と思いました。この店はご夫婦でやられてるから、ふむ、どちらがどちらを選んだんだろう、などと考えるのもまた楽しくて、一口、また一口と、味わうように、噛みしめるように、頬張りました。
 半分くらいまで食べたところで深く息をついていると、よかったらクリームお足ししましょうか、と言われて、えっ、クリームお代わりできちゃうんですか、すごい、是非お願いします、とわたしは答えました。ごゆっくり、とお二人に声をかけられて、わたしは言われた通りお言葉に甘えて、ゆっくりと過ごしました。昼食は別に摂ろうと思っていたのもよして、つややかなテーブルに映る窓の格子を見つめたり、その窓から見える通りを歩く人たちをなんとなく眺めたりしました。
 えっ、飲み物もお代わりいいんですか? お二人は微笑んで、コクリと頷きました。わたしはさすがに悪いような気がしてきて、二杯目は違うものを頼んでみることにしました。それもとても美味しいもので、わたしはすっかり感心してしまいました。
 こんなに素敵な喫茶店なのに、店内にはわたしひとりだけしかいないことが不思議で、なぜか切なくて、でもひとり占めしているような贅沢な気持ちもあって歯がゆかったです。シフォンケーキも、あんなに大きかったのに、するすると消えていくみたいに食べてしまいました。
 フォークを当てるたび、それを限りなく優しく受け止めるようなやわらかさを、わたしは食べ終えるまで、何度も確かめるように味わっていました――。 
 
 
 こんなに、美味しそうに描けたのは、生まれて初めてのことで、わたしは嬉しさのあまり、まるでこの絵の世界に入り込んだような気持ちになりました。もっと言えば、もしかしたらわたしが知らないだけで、このシフォンケーキや喫茶店、ご夫婦もほんとうに存在してるのかも知れないとすら思えてきて……この喫茶店に、いつか誰かといっしょに行ってみたい、そんな夢のようなことを、しばらく余韻のように味わっていました。

 この絵を枕の下にして、夢をみるのはやめました。そんなことしたら、せっかくの絵が台無しですし、もう十分過ぎるくらい、良い時間を過ごせたように思います。

 わたしはふるえながらコーヒーを淹れて、描き上げたシフォンケーキの絵を何度も見つめながら、少しずつ大切に飲みました。カップに口をつけるたびに、部屋のなかが明るくなっていって、心なしかシフォンケーキも、ますますふっくらとしてるように思いました。
 
 ☆

 その絵をきっかけに、わたしは深夜に食べたくなったお菓子を絵に描くようになりました。SNSにも載せて、しばらく続けていたところ、嬉しいことに今ではお菓子の絵を描く仕事の依頼が、少しずつですが来るようになりました。

 もちろんそれで暮らしていくにはまだまだですが、どうしても食べたい一等美味しいお菓子を食べるためのお金は、みんなわたしの描いたお菓子の絵で出来ている……そうした循環が出来上がって、ぐるぐると続いていけばいいなと思っている次第です。


(了)