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トーテム・ポールにいのちを吹き込む【ハイダグワイ移住週報#15】

この記事はカナダ太平洋岸の孤島、ハイダグワイに移住した上村幸平の記録です。

11/15(水)

朝外に出てみると、霜が降りていた。温度計は2℃を指している。夜のうちに氷点下まで冷え込んでいたのだろうか。低い太陽が地面に霜と霧に光を投げかけ、地面にも空気にも宝石が散りばめられたように輝いている。しんしんと寒さが身を刺す。

そうそう、これだよ、という心持ちになる。このあくまで澄み切った鋭利な空気を吸い込みたくて、僕はいつも北の地に吸い寄せられるのかも知れない。

ロードバイクを引っ張り出し、凍りついた道を慎重に走り出す。コミュニティの朝食会は10時から。村までは10キロほどなので、30分を見ておけばいいだろう。いつも仲良くしているデラヴィーナはヘルスセンターで働いていて、住民向けのヒーリングイベントを運営している。先日いっしょにクランベリー摘みに行った際に、今日の健康イベントに誘われたのだ。

ヘルスセンターで村のおじいちゃんおばあちゃんとパンケーキを食べた後、皆で鹿肉を捌いて缶詰にする。今日もたくさんのお土産をもらう。こんなにいいんですか?

日が暮れたあと、また数軒となりのタモの家に向かう。今日はネイトの誕生日。僕たちの敷地内にあるキャビンを一ヶ月間借りている彼も、タモの幼馴染のひとり。一ヶ月のサーフ・トリップにきている友人グループと共にバースデー・ディナーだ。 

僕は昨日焼いたクッキーを持参し、タモたちは鹿肉でハンバーガーを焼く。どんな場所のどんな家にも必ずBBQ用のグリルがあるのは、やはり北米にいるのだと思わせられる。

「今日は一日中オーブンとにらめっこだったわよ」ハンバーガーにかぶりついたあと、ヘザーがケーキをふたつも出してくれた。切ってみると一同驚愕。なんて美しいマーブルなんでしょう。ふんわりしっとりもちもちの生地に、まったり甘いパンプキンが練り込まれたパウンド・ケーキだ。

こっちで出会って一週間、彼らのグループに混ぜてもらっている立場でこれだけ楽しいのだから、十五年来の友人である彼らにとっていかに今回の再会が意味を持つかは計り知ることはできない。岩手や長野に住んでいた頃、友達が遊びにきてくれた数日間がいかに輝かしい時間だったかを思い出す。

11/16(木)

昨日の夜から降り続く雨のおかげで朝の気温はそこまで下がらなかった。それでもベッドから出るのが一苦労の寒さだったので、サウナのストーブに火を入れ、その間に掃除機をかけ、キッチンを掃除する。日照時間も短くなり、雨の日も多いハイダグワイの秋と冬。家の掃除や薪割りなどは憂さ晴らしにちょうどいい。

香り用にレッドシダーを燃やし、さらにサウナ室を熱くするために広葉樹の薪も追加する。カンカンに熱したサウナにゆっくりと時間をかけて入る。これに勝るものはない。

ここのところソファで寝落ちてしまうことが多く、あまり良質な睡眠が取れていなかったのか、サウナ後にずっしりと疲労感が押し寄せる。ささっとスパゲティ・カルボナーラをつくって平らげ、早めにベッドに潜り込む。こういう一日もあっていいだろう。

11/17(金)

まだ暗いうちに車を走らせ、スキディゲートの博物館へ出勤。到着したタイミングで車のエンジンライトに気が付く。いつ点灯したのだろう?とりあえず、今週の仕事が終わった後に診断機を使ってみよう。この三菱のSUVは僕の人生初めての車であり、二十年落ちの極めて古い車。そんな代物でほぼ無人かつ圏外のハイウェイを走り回っているのだから、車の不具合には震え上がらされる。

今日は村で大きな結婚式があるということで、ビストロは閑散としていた。そのおかげでたくさん賄いとテイクアウトのご飯をもらえたので、僕的には万々歳であった。

11/18(土)

土曜日朝はエッグ・ベネディクトを提供することもあり、お昼までの時間が一番混雑する。朝のラッシュが少し落ち着いたタイミングで上がらせてもらい、スキディゲートの村に向かう。今日はポール・レイジング——新たなトーテム・ポールを建てる日だ。

村の近くにはすでに多くの車が止まっている。最後尾に駐車して会場に向かうと、すでに数百人が集まっていた。チーフ(族長)たちはレガリア(ハイダ族の民族衣装)に身をつつみ、子供たちは久々の晴天のもとではしゃぎ回っている。見晴らしのいい丘の上にはエルダーたちの席が設けられ、長老らがみなを見守っている。

ミドリとダンはどこだろう。レオナおばあちゃんも来るって言っていたな。知り合いを探し回っていると、見たことある顔の多さに驚く。握手したりハグしたり、会釈する相手ばかりだ。思えば、この島の小さなコミュニティに四ヶ月弱もいるのだ。九月、初めてポットラッチに参加しようとした時には知らない顔の多さに弱腰になってしまいあえなく帰宅してしまったが、今こうして馴染みのある顔が多くなったことに嬉しくなる。

「静粛に!まずは祈りから、本日の儀式を始めます」
故人への黙祷が捧げられ、続いてハイダ・ソングとダンスが披露される。この大イベントの司会者を務めているのはエリカ——ハイダ・ネームは「ギジン・ジャード(鷲の女)」——だ。彼女は八月の音楽フェスでハイダ語の授業をしており、その時の講演内容に感動して話しかけたのだった。彼女のように、ハイダ族のイベントにおいては親世代が音頭を取るのが習わしのようだ。祖父母世代はチーフとして、さらに上の世代はエルダーとして式典を見守り、子供たちは自分たちの親の姿を見て学ぶ。この構図は遠野祭りでも見た気がする。ユニバーサルなものなのだろうか。

トーテム・ポールを建てるのに先立ち、会場にいる人びとに小さなコパー・シールド(銅の盾)が手渡される。ポールの根本に投げ込めという。コパー・シールドはハイダ族にとって重要なモチーフの一つで、建築やアート、アクセサリーなどによく取り入れられている。

コパーを投げ込むタイミングで、初めて近くでポールを見上げる。ハイダ族のトーテム・ポールには大きく分けて2種類ある。一本の木材の根本からてっぺんにかけてびっしりと彫刻が刻まれているものと、土台から半分ほどまで彫られたあとは柱のような形で天に伸び、頂点に別の彫刻がしゃちほこのように載せられているもの。今回は後者のもののようだ。一番下からスーパーナチュラル・ビーイング(神秘生物)、イーグル、ウォッチメン、そしてウォッチメンの帽子がぐんと伸びたような柱の頂点に黒塗りのイーグルが座している。

「さあ、ポールを立てよう!みな位置についてくれ」ポール・レイジングの指揮をする男の掛け声で、皆が一斉にロープを掴む。僕もポールの前面右手側のロープを手にする。運動会での綱引きの縄のように太いロープはポールの前面に三本(右・左・正面)、そして後方に一本繋がれていて、各方面からバランスをとりながら垂直に立てるという方式だ。

前面三本のロープを引く指示が出たのと同時に、僕たちも体重をかけてロープを引く。「前面右側、あと1メートル分引っ張って!」僕たちのロープのことだ。さらに腰を落とし、腹に力を入れ、ずっしりと確かな重みを感じさせる綱を引く。その先に目をやると、てっぺんのイーグルが目を引くトーテム・ポールがゆっくりと立ち上がってくる。

数百人が各方面から一気にロープを引くので、数分でポールは垂直に安定した。それでも、今一斉に手を離してしまえば数トンはあるポールはすぐさま倒れてしまう。力自慢の男どもに集まるように号令がかかり、屈強な男性陣は我先にとポールの足元へ向かっていった。僕も負けてはいられない。ポールの根本には1メートル四方の穴が大きく開いており、その穴にポールの土台部分が刺さっている。ポールを垂直に安定させたあとは、穴に大量の土砂を運び入れて根本を固める作業だ。砂場に木の棒を立てるものの超巨大バージョンだと思えば単純である。ショベルで土砂を穴にかき入れ、大きな石は二人がかりで運ぶ。あくまでポールを傷つけないよう、丁寧かつ迅速に。子供たちは歌い踊り、ロープを支え土砂を運び入れる大人たちを鼓舞する。

手も足も顔も泥だらけになったころ、ようやくポールの根本部分が埋まる。小さなショベルカーで地面を固め、ちゃんと立ったかどうかをロープを緩めて確かめる。安定した、立った、成功だ。その声と共に、大きな拍手喝采が会場中で鳴り響く。ロープが外されたトーテム・ポールはついに自立する。まるで新たな命を吹き込まれたかのようだ。さっきまでロープの思いのまま操られていたのが嘘のごとく、凛と立つその姿には確固たる意志を感じさせられる。

チーフの一人がドラムを叩き、歓喜の歌を高らかに歌い上げる。ポールの前で包容を交わしているのはスキディゲートのクランの人々だろうか。昨日まで何もなかった場所には、昨日までずっとそこにあったかのように、ごく自然な異物としてトーテム・ポールが立ち尽くしている。僕は少し離れた場所で、今目にしていることを反芻し続けていた。

***

ポットラッチ会場のホールに向かうと、すでに二階席まで人で溢れていた。ポール・レイジングは一年に数度のビッグ・イベント。歴史的な儀式を一目見ようと、島内外からハイダ族が集結している。今日はケチカンやハイダベルグといった南島アラスカの村に住むアラスカ・ハイダの人々も島を訪れているらしい。

「ポットラッチは我らの法」と言われるように、ハイダ族にとってはアイデンティティそのものの中核をなすといっても過言ではないイベントだ。記録媒体や文字を持たなかったハイダ族にとって、ポットラッチは他のクランを招いて決め事や祭り事を見てもらい、ことの証人となってもらう場である。主催するクランは家族総出で莫大な財産を注ぎ込み、参加してくれる他のクランを盛大にもてなす。過去には家まで売り払ってまで全財産をつぎ込むようなこともあったようだ。ハイダ族全体としての「歴史を残す」作業として、開催するクランは全力でポットラッチを執り行い、他のクランはそれをしっかりと見届け、大きな献身をした家族をコミュニティ全体で守るのだ。

「このデザインが固まるまで、三年間チーフと悩み続けた。そして今年の春から急ピッチで制作を進めたんだ。孫たちにも手伝ってもらってね」トーテム・ポールを彫り上げた伝説的なハイダアーティスト、レジ・デイヴィッドソンが制作の裏側を語る。今回のポール・レイジングおよびポットラッチは、あるクランのチーフ(族長)の襲名を記念するものだ。スキディゲート村に位置する「スキディゲート・ギジン」クランは、ハイダグワイの中でも特に大きな氏族。その氏族のチーフが先代の名前を受け継ぎ、正当なクランのリーダーとして擁立されたという。新たなリーダーの誕生を島全土のハイダ族に知らしめ、その意思表明のために新たなポールが立てられ、大きなポットラッチが開催されたのである。

島中のクランのチーフたちがかわるがわるお祝いのスピーチを贈る。「1951年にポットラッチ禁止令が取り下げられ、初めてポットラッチを開催できたのは1961年。あの時、マスクは画用紙を切り貼りして作っていたんだ」会場中央に出てきた踊り手たちがドラムの音に合わせて軽やかに舞う。彼らが身に纏うイーグルやブラック・ベアをモチーフとしたマスクは大胆かつ精巧な装飾が施され、まさに芸術そのもの。「我々の遺産と文化はここまで息を吹き返しつつある。本当に、長い道のりだったんだ」

基本的にポットラッチは①チーフたちのお言葉②ハイダ族の伝統舞踊・歌唱の披露③食事④ファミリー・ビジネスの四つのイベントで構成されている。大規模なポットラッチに参加するのはこれで二度目であるが、その力強さにはいつも言葉を失ってしまう。

「これはギフトではありません。このポットラッチの証人となってくれたあなた方への『支払い』なのです」13時過ぎから始まった饗宴は夜がふけるまで続いた。時計が午前1時を指した頃、たくさんの引き出物で膨れ上がったバッグが全員に配られる。ゲストたちは『支払い』として抱えきれないほどの贈りものと食べものを持ち帰らされる。受け取ったゲストは、今日目撃した出来事を記憶に留め、コミュニティに、そして後世に伝えていく義務を負う。

***

熱気が渦巻くポットラッチ会場から出ると、ひんやりとした空気が気持ちいい。もう遅いのでマセットの家まで帰るのは諦め、スキディゲートの友人の家に泊まらせてもらうことにする。

車を停めた場所まで歩いていると、ふと今日立てられたポールが目に入った。黒く塗られたイーグルは大胆不敵なまなざしを、闇が支配する海に投げかけている。

その凛として立つポールが纏う空気には、僕がこれまでに見てきた数々のポール——日本やカナダの博物館のもの、ひいてはハイダグワイの村々に立っているもの——とは全く違う力学が働いているように見えた。先週まではただの芝生だったスキディゲートの浜辺。人々の手によって地面に突き立てられ、命を与えられたポールは今その地に深く足を下ろしている。

きっとこのポールも時の流れと共に色褪せ、ゆっくりと朽ちていく。いつの日かそれが自然に還る時、僕はこの場所に——いや、もうこの世界にいないのかもしれない。そんなポールの生涯の最初を目撃できたこの日を、僕はずっと忘れないだろう。

11/19(日)

昨晩のポットラッチ後、タモとミドリの叔母の家に皆で泊まらせてもらった。スキディゲートの静かな入り江を望む最高のロケーション。朝日がほくほくに差し込む開放的なつくり。陽の光に起こされたのも久しぶりだ。

ミドリが作ってくれたアボガド・サンドウィッチを食べたあと、男衆に車を見てもらう。昨日からエンジンライトが点灯しており、全く車に関する知識を持ち合わせない自分とっては「いったい何事!?」という事態であった。

「左の後輪がパンクしてる。これじゃ走れないよ」
空気圧が少し低いだけだと思っていたタイヤをよく見ると、完全にフラットになってしまっている。レンチでネジを外して確認してみると、内側に大きな亀裂が。トランクに入っていたスペア・タイヤを教えてもらいながら取り付ける。細いスペア・タイヤを付けられた「死ぬまで18歳」号は一気に心細く見える。この感じだと、4輪全て買い替えないといけないかもね、とひとりが漏らす。いくらほどかかるのだろう。そう考えるだけで胃が痛くなる。

日曜日ということで、スキディゲートの修理工場も開いていない。どちらにせよ、今日は午後からマセットで用事がある。デラヴィーナおばちゃんとクランベリー摘みに行かなければならない。ゆっくり走ればマセットまで帰れるよね、と聞いた時のみなの頷きを信じ、家に向かって出発することとする。この軽率な判断を、後になって後悔することとなるのだが。

ちなみにここでハイダグワイ北島の地理を簡単に紹介しておく。島には4つの村があり、それを繋ぐように一本のハイウェイが走っている。南端部分に先住民居住地のスキディゲート村とダージン・ギーツ村が隣接しており、北端には同じく先住民居住地であるマセット村がある。120キロほど離れているこれらの村の中間にあたる部分にポート・クレメンツ村がある。これらの村の中心部分以外はほぼネット圏外だ。

スキディゲートを出発し、海岸沿いを心地よく走る。スペア・タイヤを履いている以上、いつも通りの速度で走るわけにはいかないが、それでも二時間ほどあればマセットまでは帰り着くことができるだろう。たまには景色を楽しみながらゆっくりドライブするのも悪くない。後ろから飛ばしてやってくるピックアップ・トラックたちに道を譲りつつ、北を目指す。

ポート・クレメンツまであと20キロほどという地点に差し掛かった時、車の下から突然大きな衝撃音が聞こえた。それと同時に車全体がノック音とともに横揺れを始める。

何が起こった?鹿をはねたわけでも、岩を踏んだわけでもないのに。危険を感じ、すぐさま路肩に駐車する。タイヤとエンジンルームを確認してみるが、特に悪そうな部分は見当たらない。エンジンもブレーキも問題なさそうだ。再度走行を試みる。走りはじめはスムーズに進むものの、数分走ったところでまたノック音が聞こえ始める。

僕の車に一体何が起こっているんだろう。調べたくても、助けを呼びたくても携帯は圏外。どうにかしてポート・クレメンツまでたどり着けないものか。ノック音が聞こえ始めるまで走り、一時停止してまた走る、というのを繰り返して進んでみる。芋虫のようなスピードで丁寧に走ってみても、ノック音が聞こえ始める感覚がどんどん短くなってゆくだけである。流石に進むのも怖くなり、ポート・クレメンツまであと15キロほどのところで立ち往生してしまう。

購入時の「死ぬまで18歳」号。

「これは終わったかもしれない…」
頭によぎる修理費。タイヤ全交換にエンジンやサスペンションの修理、そしてレッカー費も含めれば、1000ドルは下回らないだろう。しかも、ここはカナダの辺境地。部品の取り寄せに何週間もかかると聞いたことがある。仕事・遊び・取材のライフラインである車が長期間使えないとなると、ぼくはどうしたらいいのだろう。いや、そもそも修理しうる不具合なのだろうか。二十年落ちの車両、走行距離はゆうに30万キロを超えている。ひょっとして、廃車になってしまうことも考えられる。

考えられる最悪のシナリオを想定しつづける。ケータイは圏外で使い物にならない。時刻は15時過ぎ、日の入りまでは一時間強しかない。どうしたものかと途方にくれていると、青色のセダン車が停まった。女性がこちらに手招きしている。

「あんた、そんなところで何してんの?」
「車から変なノック音がして、どうすればいいか分からずでして…」
「おばちゃんな、マセットのいい整備士知ってんねん。ほら、連れてったるから、早よ乗り!」
関西弁に聞こえるドイツ語訛りの英語でまくし立てるおばちゃん。流石にマセットまで乗せてもらうのは遠すぎて躊躇したものの、自分一人ではどうすることもできないのでお言葉に甘えさせてもらうことにする。車に書き置きを残し、一路マセットへ。整備士に事情を説明して、レッカー車を出してもらおう。お金はかかるだろうが、背に腹は変えられない。

ドリスと名乗るおばちゃんもドイツからカナダに移民してきたひとり。十五年前、単身でカナダにやってきた彼女は内陸での仕事を転々とし、四年前にハイダグワイを観光で訪れてそのままポート・クレメンツに居着いてしまったのだという。外国からハイダグワイに引き寄せられてしまった者同士ということで話も弾む。
「なんで今日、僕のために停まってくれたんですか?」
「おばちゃんな、『カルマ』信じてんねん。誰かにいいことすれば、自分が必要な時にきっと返ってくるやろ、ってな」

45分ほど乗せてもらい、マセットの修理工場に着く。おばちゃんが整備士のキルクを紹介してくれる。スペア・タイヤを自分たちで装着したこと、しばらくは問題なかったのに突然衝撃音が鳴り始めたこと、ポート・クレメンツの手前で立ち往生してしまったこと。ことの全容を伝えると、彼は極まり悪そうに言う。
「すまないね、うちのレッカー車も故障中なんだ」
そんな偶然、ある?おばちゃんも愕然としている。「悪いけど、ここまで車を持ってきてもらうしかないよ。今日は6時までいる。ファイト!」

レッカーはできない。ハイウェイに長時間車を停めておくのも違法だ。結局のところ、ゆっくりでも車を動かし続けるしかないという結論に達する。しかし、どうやって?マセットまでは残り70キロ。街灯なんてないハイウェイはもうすぐ真っ暗になる。一人で帰り着ける自信はない。

そういえば、タモたちは南島に行った後にスキディゲートからマセットに戻ってくる予定だと言っていた。タイミングが合えば、彼らが帰ってくる道のりで助けを借りられるかもしれない。メッセージすると、即返信が来た。「もちろん。今ちょうどスキディゲートを出たところ。今どこ?」
お前ってやつは…!

再度おばちゃんにお願いして、車まで送り返してもらう。入れ違いにならなかったことを祈って待っていると、見覚えのあるスバルのSUVが走ってきた。タモたちだ。手を振るとウィンカーを出して車は停まり、運転席から彼が出てくる。永遠に思えたこの一日で、七時間ぶりに見た友人の顔に安堵を覚える。思わず強くハグする。

一緒に来てくれたのはタモの幼馴染のジェイ、そして彼のガールフレンドのマサ。ほんわかとした優しい笑顔がチャーミングなふたり。緊張がほぐれる。おばちゃんに熱いお礼を伝え、再会を約束してお別れをする。

タモにハンドルを握ってもらい、僕は助手席へ。マセットを目指して北上を始める。車はまたノック音を奏で出すが、さすがはカナダ人。車の振動音なんかでは動じない。タモとジェイは何度か車の下に潜り込み、音の鳴りそうな箇所をロープやガムテープで補強してくれる。

それでもノック音は鳴り続け、車は横揺れを続ける。数キロ進んでは10分クールダウン、また数キロ進んではクールダウン、という形でじわじわ進み続ける。こんな真っ暗な道にすでに友人たちを三時間も拘束している。その申し訳なさ、そして来たる修理費などが頭の中を渦巻いて、気分は沈み続ける。

「僕もこれまで何回も車を故障させてきたよ。廃車になったことも数知れない。大丈夫、この状態なら直るさ」あからさまに落ち込んでいる自分に、三人が心強い言葉をかけてくれる。がんばれ、「死ぬまで18歳」号…!

謎のノック音と格闘し続けて五時間。じわじわと進んでは止まりを繰り返し、ついにマセットの街の明かりが見えた時には喝采が起こる。修理工場に到着した時には、時計はすでに22時を指していた。スキディゲートを出て12時間。ようやくマセットに帰ってきた。体感的にも精神的にも、いままでで一番長いドライブだった。
「こんなにマセットの村が美しく見えたことはないよ」タモが言う。

三人に心から感謝を伝える。彼らがいなかったら僕の心はどこかで折れていただろう。パブでお疲れ様ビールをご馳走させてもらう。ジョッキで出てきたIPAは、安堵と不安が入り混じったほろ苦い味がした。

11/20(月)

朝から大嵐。窓には大粒の雨が打ち付けられ、ドアは軋み、屋根は吹き飛ばさるのではないかと危惧するような唸りをあげている。昨日車を村まで持っていけて良かった。

整備士のキルクに電話し、昨晩車を工場の手前まで持って行ったことを伝える。とりあえずタイヤの修理をし、それからノック音と振動についてチャックしてくれるとのこと。車はプロに任せ、僕は軽症であることを祈るのみである。

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