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聖徳をまとう_四/いもこさん(2)

  ◇

 小野妹子は聖徳太子と同じ飛鳥時代を生きた官人である。推古天皇の時代、大使に選ばれ、当時、中国大陸にあった大国「隋」に派遣された人物として後世に知られる。また、妹子は華道家元である池坊の元祖としても仰がれている。妹子が聖徳太子の守り本尊の如意輪観音の守護を託され、坊を建て、朝夕に仏前に花を供えたのが流派の起こりになったとされている。

 その小野妹子の墓と古くから伝わる小さな塚がある。大阪府太子町は南東部の小高い丘の上――緑に囲まれたその地は春になれば桜の名所でもある。地元では親しみを込めて「いもこさん」と呼び習わされている。

 ――いもこさんに花見に行こか

 春になるとまだ幼かった私にいつもそう言っていた父は五年前に他界した。母は東京に住む兄のマンションの近くで施設に入っている。いくつになっても親に心配はかけたくない。そう思っていたが、母の痴呆がますます進んでいると聞いて、もう良いだろうと私は名古屋での仕事を辞めることに踏み切った。これといって理由は無い。天王寺の居酒屋で田辺雄平に問われたときも適当に答えたように思う。強いて言うなら繰り返しの毎日に飽きてきたことか。しばらくは自由に過ごしたかった。場所はどこでも良かったが、気がつくと地元を選んでいた。人間も動物である。帰巣本能がそうさせたのかもしれない。

 六月二十九日。土曜日。十二時半。

 繁茂する雑木の陰で私は百二十一段の石段を見上げている。石段の両脇には生育した雑草が蔓延るが、空梅雨にあえぐ紫陽花が所々でくすんだ色彩を添えている。石段を登り切った先には丘陵を背に東西十五メートル、南北十メートル余の塚が千年の時を超え、なお鎮座している。

「百二十一段なんですか。どうしてそんな地元民でも知らないような豆知識」

 隣接する科長神社の手水舎で手を洗いながら肇がつぶやくように言う。手水舎は石段の登り口の脇にあった。

  ◇

 貴志駅からここまでの車中、三十分ばかりの時間を費やして私は自身の恥部とも言える体験を肇に明かした。ユミ、すなわち八城澄子との出会いとその顛末に触れずして現在私の置かれた状況はとうてい説明が出来ない。苦渋の決断とまでは言わない。なかばどうでもよくなってきたというのが本音だった。

「うーん。想像してたことの何倍かはひど――いや、何と言うべきか、かなりダメだと思いました。マジでもう本当にやめたほうがいいですよ。ストーカーは」

 とは、語り終えた私を呆れ顔で見つめながら肇の放った第一声。奇しくも姉の感想をなぞるかのようだった。

「秀太さんの行為はけっして笑い話では済まされないですが、ただ、八城だって秀太さんに対して誠実とは思えません。後ろめたい気持ちに苦しんでいる相手を追い詰めるようなこと。人間を損得でしか見ない――ヤツの人柄が出てますよ」

 ハンドルを握る肇の横顔はどこまでも真っ直ぐで懇篤だ。年下に慰められて私は苦笑いするしかなかった。

  ◇

 手水舎の前の肇が水盤をまたぐ竹に柄杓を置くとカツンと小気味よい音が鳴った。

「石段の数なんて、まさか昇りながら数えたんですか?」

「いや。昔、観光案内か何かで読んだ。実際に数えたわけじゃないよ」

 石段の頂きを見上げる私は汗ばんだ鼻の頭をかいた。足元には木漏れ日がまばらに差している。

「もう警察はいないんやね」

 あたりを見回してもそれらしき車両や人の姿は目に付かない。むろん声も聞こえない。夏を待ち侘びた蝉の声がわんわんと降り注いでいるだけだ。

「こういう場所ですし、ずっと規制線を張り続けるというわけにもいきませんよね。ただ、時々見廻りは来ているようです」

 小野妹子墓は華道家元である池坊が管理している。いつまでも物々しいままでも置けないだろう。

「香苗はどこで見つかったのかな。もう少し詳しく聞いてもいい?」

「この上です。昇りましょうか」

 そう言う肇は既に石段に足をかけている。これは良い運動になりそうだ。肇の横に並んだ私はせっせと足を運び始めた。

「ところでさ――」

 全体の三分の一ほどを昇った頃。弾む息を抑えて私は口を開いた。

「香苗は、八城宗光とどういう関係やったわけ?」

 肇は足を止めると、おもむろに私に向き直った。

「姉ちゃん、芸大出てるんやけど、今そのスキルで食えてるわけやないから、どこかアーティストという人種に憧れみたいなのがあるんやと思います」

 まなじりをぴくりと震わせて捨て鉢な調子で続ける。

「何年か前、八城のCG画集のサイン会が大阪であったとき、それに参加して出会って以来距離が近くなったみたいです。八城はアーティストだとか若手実業家だとか世間的な意味での肩書きは色々あるみたいですが、僕に言わせたらそれらに惹かれて近づいてきた女性を自分のいいようにしている下衆な男です。せめて誠実な付き合いをするならいいですが、ヤツは違います」

「そんなふうにして女性は離れていかないのかな」

「あれも人心掌握術というのかもしれません。自分を大きく見せる雰囲気作りや演出が上手いんですよ。まわりはヤツの掌の上で転がされていることに気がつかない。姉ちゃんもそうでした」

 横谷香苗が八城から何を搾取されていたのか、あえて具体的なことは聞かなかった。私の想像どおりだとして、巷によくある男女の関係といえばそれまでだ。肇から見て八城が下衆な男でありながらも周囲を惹きつけてやまないのだとすれば、それもまた彼の才覚のひとつと言えるのだろう。あるいは虚実かどうかを第三者として評価することも深掘りすることにも関心は無い。しかし――

「もう僕は無関係じゃないんやろうな。だとしたら何をすべきなんやろう」

「どういう意味ですか?」

「いや。肇くんと一緒にここに来ている時点で自分ももう当事者のひとりなんやろうなと思って。香苗さんとしっかり向き合う前にこんなことになってごめんな」

 あの夜は私が一方的に自分の話を彼女に聞いてもらうだけで、その後、再会することはなく、彼女は逝ってしまった。いや、その前に思い出話に花を咲かせた時間が多少はあったか。ノスタルジーは無条件に人に優しい。ささやかでも彼女にとって癒やしの時間になっていたなら良かったのだが。

「えっと――ありがとうございます」

 肇は面映ゆそうに私から顔をそむけた。

「――行きましょう」

  ◇

 石段を昇りきると開けた空間に出た。正面には石製の瑞垣に囲まれ古色を帯びた塚。土盛りされた墳墓のため高さがある。瑞垣の内では鬱蒼と立ち上る木々が古人の安眠を守護していた。

「塚と石段のあいだ――ちょうどこのあたりで仰向けに倒れていたそうです。胸にハンティングナイフが突き立っていて、それが死因だって。ナイフに指紋は無かったそうです」

 肇の言葉に耳を傾けながら足元を見下ろす。靴を地面に擦り付けると乾いた土がざらざらと音を立てた。

「香苗に危害を加えた人物がいたとしても、これじゃ足跡は残らないか。しばらく晴れ続きやしね」

 丘陵の頂きにある広場は楕円形の塚の周囲を巡れるように整地されている。拝所は石段正面の裏側にあるためだ。ここからは見えないが広場の端には休憩スペースとしての四阿も設置されていたはずだ。私たちは石段正面の瑞垣を左手に見ながら右に歩を進めた。広場の南西側の縁には転落防止の石製の柵が張り巡らされており、その向こうの斜面には無数の木々が生い茂っている。

 視線を上げた。積雲――わた雲がぽかぽかと浮かぶ青空の下、河内飛鳥の街並みが広がる。景勝の地と言えるだろう。ここは王陵の谷を見下ろす丘――。

「でも、どうしてこんな場所で。しかも夜やったよね」

「死亡推定時刻は六時から九時だそうです。いくら日が長くなっていると言ってもこの場所にひとりで来るのに適当な時間とは思えません」

「誰かと会っていたと考えたとしても不思議は無い」

「だけど八城にはアリバイがあります」

 肇には八城への執着が相変わらずうかがえた。

「僕が彼のアリバイを証明しているからね。間違いないよ。香苗の死亡推定時刻、八城は大阪市内にいた」

 私は指先を北西に向ける。さすがに距離がありすぎて肉眼であべのハルカスは見えなかった。

「男女関係のもつれは動機の定番ではあるけど、逆に言うとアリバイが証明されているからには、それ以上のものがないと警察が本腰を入れることはないやろう。実際、まるでほかのところに真犯人がいるのかもしれないわけやし」

 私の感想に、肇は苦虫を噛み潰したような表情を隠さない。そして釈然としない声で言い募った。

「わからないと言えばもうひとつあります。姉ちゃんの遺体のことです」

「なんやろう。香苗さんの遺体に何があったの?」

「いえ、逆です。無かったんです。歯が」

 背筋がぞくりとした。また、歯なのか。私は暫し放心して言葉を返せなかった。

「香苗の歯が、無い」

「前歯――門歯と言って良いのかよくわかりませんが、上の中切歯、つまり真ん中の歯が二本とも無かったって。遺体のまわりからは見つかっていないんです。歯は生前に折られていたようですが、もしかしたら何者かに持ち去られたのじゃないかとも言われてるそうです」

 ――鎌倉時代に東大寺の僧が叡福寺の墓破りをして、聖徳太子の遺骸から歯を盗んだって

 ――何でそんなことをって思うやんか

「何でそんなことをって思いませんか?」

「――っ」

 記憶の中の香苗の声と目の前の肇のそれが重なって聞こえた。全身が総毛立つ。心臓が喉元までせり上がって打つような心地だった。

「驚きますよね。僕もそうでした」

「それはそうなんやけど。いや、それ以上に――」

 雑木の間を縫って涼風が渡ってきた。救われた気分になった私は額の汗を拭う。

「三人で飲んだあの日の昼に、僕は学園前交差点のコンビニでたまたま香苗と出会った。十年以上ぶりの再会やった」

「らしいですね。姉ちゃんから聞きました」 
 
 あの日。コンビニの駐車場で、私は街灯柱のそばにいる見知らぬ女性が無性に気になって、近付こうと一歩を踏み出したとき。地面に落ちていた歯のような何かを踏んだ気がして。

「本当に歯だったんですか?」

「どうだろう。小石を見間違えただけかもしれない」

 そのことを直後再会した香苗に伝えたら、聖徳太子の話を――その遺骸から歯が盗まれたという伝承を聞かされた。鎌倉時代、東大寺の僧による陵墓の盗掘。百練抄なる歴史書に遺された記録。

「姉ちゃんが秀太さんにそんなことを話してたんですか?」

「うん。肇くんは聞いたことは?」

「いえ、はっきりとは。ただ、そう言われると、昔、ばあちゃんからそんな話を聞いたことがあるような気はしてきました。でも――たぶん警察に伝えるようなことではないですよね。聖徳太子の伝承とか事件に関係しているとはとても思えませんし、何より秀太さんの話も抽象的すぎます。あ、気を悪くしないでくださいね」

 肇は気遣わしげに私の顔色をうかがってくる。

「いや。肇くんの言うとおりやと思う。だとしたら尚更か」

「尚更ってどういうことですか」

「この事件――やっぱり僕なりの関わりかたがありそうな気がする」

「えっ――」

 蝉の声が耳を聾して響いていた。


――続(五/女王の墓(1)へ)


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