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キラキラな幼少期の想い出と、やらかし人生のはじまり

私の幼少期の記憶は、キラキラしている。

物心つくかつかないか、くらいのころの記憶。
それを振り返るといつも、なんだかとってもあたたかくて、愛おしい気持ちになる。

「物心がつく」って、一般的には何歳くらいのことを言うんだろう。
私の場合だと、2歳から3歳のころかな。

私には、そのころの記憶が鮮明に残っている。
もちろん、断片的ではあるのだが。

だけど果たしてこれが本当に正しい記憶と言い切れるのかどうかと問われると、正直言ってそこまでの自信はない。
もしかしたら、大人になって塗り替えられた「思い込みの記憶」かもしれない。
後に母に聞いた話ともしっかり一致しているから、間違いではないと思うんだけれど。

写真に映る、幼少期の私は本当にしあわせそうだ。
まんまるとしたほっぺを、りんごのように真っ赤っかにして、幼い私は無邪気に笑っている。
人生を歩み始めたばかりで、苦労も何もまだ知らない、純真無垢なその笑顔が、キラキラとまぶしい。

その姿は、紛うことなき私の原型だ。

私の幼少期の記憶がやたらとキラキラしているのは、写真で見る幼少期の私が、とってもキラキラしていてしあわせそうだからなのかもしれない。


乳幼児検診ではこれといった異常は見られず、私はすくすくと育った。
母子手帳を見る限り、発達について指摘された形跡もない。

言葉の発達は、とても早かったらしい。
2歳くらいになると、ベラベラとよくしゃべってうるさいくらいだったと聞いている。

このころの話は、親戚からもよく聞かされた。
口癖は「これカナタのー!」。
目についたものをなんでも自分のものにしたがって、一度手にしたものはなかなか離さなかったという。それでかなりまわりを困らせたみたいだ。

しゃべることだけではなく、文字の読み書きに関してもすごかった。

私があまりに文字に強い興味を示すので母が面白がって、ひらがなとカタカナのカードを作ってくれた。
厚紙をトランプくらいの大きさに切って、そこにひらがなとカタカナを書いただけのカード。
私はそれで遊ぶのが大好きだった。

「あ」と書かれたカードを母が指差し、「これはなに?」と聞かれたら、私は「あ!」と答える。

「『か』はどれかな?」と母が文字を指定したら、私は「『か』はこれ!」と、かるたのようにカードを取っていく。

他にも、カードを何枚か組み合わせて言葉をつくってみたりなど、そんなふうにして遊びながら、私は自然と文字を習得した。

「本を読む」ということも、私にとってはごくごく自然な行為だった。
絵本や児童書など、幼いころからたくさんの本に囲まれていたから。

母に読んでもらうのも好きだったけれど、もちろん自分で読むのも大好き。
母の読むペースがゆっくりすぎて、やきもきしてしまうことがあって、母から本を奪って途中から自分で読み始めたり。
このころから、自分のペースというものを大切にしていたのかもしれない。

「読む」だけではない。私の「書く」スキルは、このころから身についたものだった。
生まれて初めてペンを持ったのは、いつだったのだろう。それはちゃんと憶えていないな。

「ハローキティ」「キキとララ(リトルツインスターズ)」「マイメロディ」といったサンリオのキャラクターが入ったかわいいノートを買ってもらって、せっせと自分の名前を漢字で書く練習をしたものだ。

そういえば、キティちゃんもキキララもマイメロも、みんな私と同級生なんだよね。
いまでも現役で、多くの人に愛されているキャラクターが自分と同い年だなんて、なんかうれしい。

らくがきちょうにお絵描きするのも好きだったけど、文字を書くことのほうがずっと好きだったな。毎日毎日、いっぱい書いた。書いて書いて、書きまくった。

そんな環境で育ったので、4歳くらいまでには、ひらがなやカタカナはもちろん、簡単な漢字なら普通に読み書きできるようになった。

私の名は、名字は小学校低学年で、名前のほうは高学年で習う画数多めの字。
それを幼稚園にあがる前に、しっかりと書けるようになっていた。
ノートでは書き足らずに、部屋の襖にまで書いていたほどだ。

こうして私は、息をするように自然と読み書きを習得していった。
とにかく文字に対する興味が強い。それは、物心ついたころからいまでもずっと変わらない。

私の後に4人の妹が生まれたが、妹たちと比べても、私が文字を覚えるのは異常なくらいに早かった。
母は、私にしたのと同じように妹たちにも文字で遊ばせようとしたらしいが、妹たちはまったく食いつかなかったという。私が特別だったのだ。

私の「言葉」や「文字」への、強すぎる興味とこだわり。
このころから、アスペルガーとしての片鱗を早くも見せていたというわけだ。

幼児期からこれだけできれば、親はやっぱり将来を期待してしまうだろう。
その期待は相当、大きかったんだろうなと思う。


そして、私が強い興味を示したものが、もうひとつ。

それは、音楽。
2歳くらいから、自分でレコードをかけて歌うのが大好きだった。

当時、家には高級なオーディオ機器があった。
コロムビア製の、ラジオが付いたレコードプレーヤーで、スピーカーは分離できるタイプ。これはかなり高価だったろうな。

そのオーディオは私の手が届くところに置かれていた。
私は椅子に乗って、レコードプレーヤーのふたを開け、レコードを取り出してターンテーブルに乗せ、アームに手を伸ばす。

レコード針をうまくレコードの端に乗せられなくて「ガリガリッ」と嫌な音がしたり。
うっかり真ん中あたりに針を落としてしまって、いきなり大きな音が鳴ってびっくりしたり。

そんな失敗を繰り返しながらも、いろいろ遊んだなぁ。

33回転と45回転をわざと入れ替えて、高速再生や低速再生を楽しんだり。
ドーナツ盤(中心の穴が大きいEPレコードのこと)用のアダプターを、わざと外して回転させてみたり。こんなことやっても何の意味もないんだけど。
昭和世代なら「あるある」かもしれないね。

レコードが波のように揺れているのをじっと見ていると、すごく気持ちが落ち着いた。
レコードクリーナーの匂いも大好き。これもやっぱり落ち着くんだよね。

しょっちゅういじって遊んでいたから、すぐにレコード針をダメにしてしまって、母によく怒られたっけ。レコード針だけでも高価だったしね。

そのうちプレーヤーが壊れてしまって、レコードが聴けなくなってしまうまで、私は毎日のようにレコードを聴いてた。

『およげ!たいやきくん』『山口さんちのツトム君』『ビューティフル・サンデー』などなど、別に私が欲しがったわけでもないのに、レコードはたくさん買ってくれた。
父も母も音楽が好きだったからかな。

なかでも私のいちばんのお気に入りは、『ぐずの唄』!
これ、知ってる人いるかなぁ?

RKB毎日放送でやってた『ぼくらの広場』の主題歌ということはわかったんだけど、そんな番組、まったく憶えてない!
福岡ローカルだったから全国的には知られていないと思うんだけれど、福岡生まれの同年代の人だったら知ってるかなぁ?

起きるとき ぐずぐず 歯みがき ぐずぐず
ごはんも ぐずぐず 行ってきます ぐずぐず
ぐずぐずグズラは だーれだ

お返事も ぐずぐず おかたづけ ぐずぐず
おやすみも ぐずぐず わかっていても ぐずぐず
ぐずぐずグズラは だーれだ

ぐずぐずグズラは いなくなれ
すぐすぐスグラに ヘンシンだ

『ぐずの唄』より(作詞:山川啓介/作曲:小谷充)

私は、幼いころから「ぐず」であった。
父と母に「この歌、カナタみたいやね」と言われながらも、私はこの歌が大好きだった。

自分でレコードをかけて、「ぐず、ぐず♪」と手を叩きながら機嫌よく歌っている私がいて、そんな私をそばで見守っている母がいる。

それが私の記憶に強く残る、幼少期の最も印象的な思い出のシーンだ。

音楽を聴いて、歌をうたう。

レコードからカセットテープへ、その後にCDやMDになり、そして現代のMP3やハイレゾへと媒体は変わっていっても、私がやっていることはそのころと何も変わらない。

文字の読み書きと、歌をうたうこと。
幼少期からずっと変わらず、私をかたち作り、支えてくれているものだ。


幼少期のキラキラした思い出といえば、忘れられない出来事がもうひとつある。

ある日、玄関に向かってよちよちと歩いていた私は、床の上に何やらキラキラしたものを見つけた。
目に入ったそのキラキラがとても綺麗で、幼い私は興味を惹かれ、吸い寄せられるように近づいていく。

ちいさなかわいい足で、そのキラキラの上を歩いてみた。
キラキラが足に触れたそのとき、たしかに私は一瞬、フリーズした。
いったい何が起こったのか、幼かった私にはまったくわからなかった。

次の瞬間、

「うぎゃあぁーーー!!!」

それまでに味わったことのない感覚をおぼえ、私は幼児にして早くも「断末魔の叫び」のような悲鳴をあげた。
その声に驚いた母がものすごい形相をして、私のもとに飛んできた。

慌てて状況を確認する母。
私をだっこしてその場から少し離れたところに移動させ、私の足を裏返して見る。

そこには、無数のキラキラがめり込んでいた。
なんと私は、ガラスの破片を思いっきり踏んづけていたのだ。

なぜそこに、ガラスの破片が散らばっていたのか、私にはよくわからない。
母が父にどえらい怒られていたのは、うっすらと記憶している。

もちろんすぐに病院に連れて行かれて、事なきを得た。
私の足の裏にめり込んだガラスの破片を、医師がピンセットでひとつずつ取っていく光景を、ハッキリと憶えている。
そのときも痛くて痛くて、病院じゅうに響き渡るような大きな声で、私は泣き喚いた。

思いっきり踏んづけたとはいえ、ちいさな子どもの軽い力だったので、それほど深くはめり込まず、幸いかすり傷程度で済んだ。
傷口にガーゼを当てられ、包帯を巻かれたけれど、それもすぐに取れた。思えばこれが、私の人生初の包帯だった。

傷跡も一切残っていない。
残っているのは、キラキラした私の記憶だけだ。


自分の鼻の穴に指をつっこんで遊んでいたら、指が抜けなくなってしまって、病院に連れて行かれたこともある。

鼻の穴に指をつっこむのが好きだったことは憶えているが、そんな騒ぎを起こしてしまったことまでは私の記憶には残っていない。
おぼろげに記憶しているような気もしないでもないんだけど……でもやっぱりよく憶えていない。

もしかして、両親の作り話なんじゃないのって疑ったりもしたけれど、それにしてはリアル過ぎる。ということは、やっぱりこれは事実なんだろうな。私ならやりかねない。

幼子とはいえ、自分の鼻の穴に自分の指をつっこんだまま、病院に連れて行かれる私っていったい……。

特に病気もケガもなく、平穏無事な幼少期を過ごした(と思っている)私であったが、やっぱりこのころからしっかりと「やらかし人生」を歩み始めていたのであった。

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