アラブ料理

私の夫は、シリアの首都ダマスカスの出身で、生粋のアラブ人だ。ダマスカスが中東の古都であるからか、言葉も料理も、自分たちのものが、アラブの中で、もっとも正統であると信じているらしい。夫はアラブ的なものを誇りにし、アラブ料理も、もちろん好んでいる。
そんなわけで私はたまに、簡単なアラブ料理や、普通にヨーロッパにある食べ物を、ちょっとアラブ風にアレンジする形で、食事を作る。

米よりは、薄いピタパンが夫の好みだ。オリーブは皿に山盛りにする。ひよこ豆や麦、ラム肉といった、私が日本では使った事のない食材で料理をする。ガーリックやスパイス、オリーブオイルやレモンをふんだんに使い、しっかりと味を付ける。日本ではほんの一握りくらいしか使わないパセリやソラマメやオクラは、アラブ料理を作ろうと思ったら、両手に山ほど必要だ。出来上がりは皿に山盛り。なんでもたっぷりある感じに仕上げる。

アラブ風の料理を作る時、いつも私は、そんな料理を私に教えてくれた人たちを思い出す。火にかけられたなべに向かって隣り合わせに立った時や、テーブルの上の大きな皿を囲んで、何人もで一緒にサラダの材料を切った時や、石で作られた冷たい床にペタンと座って、一緒に下ごしらえの作業をした時など、そっくりそのまま思い出す。

義母は、中心をくりぬいたズッキーニや、ブドウの葉に、米とラム肉の詰め物をする時、ぎゅっぎゅっと、完璧なまでの指の動きで、完璧なまでの力かげんで詰め、きれいに仕上げていた。指が、最高の加減を、記憶しているようだった。
野菜を切る時は、小さなナイフを手の中に包みこみ、野菜をクルクル回すようにしていた。切れ味の悪いナイフを使っているはずなのに、その両の手の間からぽろぽろと落ちていく野菜は、不思議な程きれいに、均等に切られていた。
皿に残ったオリーブオイルを丁寧に指でぬぐい、その指に着いたオイルをさらに反対の手でぬぐう動きも、私の目に焼き付いている。オリーブオイルは、一滴も無駄にはされないようだった。
義母独特の美容法なのか、オリーブオイルで汚れた手で流しに立つと、まずそのオイルを両手全体にしっかりとのばし、それから洗い流していた。色白でふわっとふくよかな義母の手は、シワもシミも、乾燥も汚れもなく、いつもスポットレスな、きれいな手だった。

言葉も違い、住む場所が違っても、訪ね合った短い時間に、至近距離でそんな手を見られたことは、私には幸運な事だった。そばで見つめた、働く手の動きは、具体的に私の記憶に、臨場感を持って残っている。義母だけではない。一緒にアラブ料理を作りながら、親しみをつちかった何人もの人たちに、その手に、今でもとても感謝している。
食べるだけの人たちが見ることのないものを、私は一緒に作る中で、見てきた。料理を作る人の手にしみついた力強さや、家族をおいしいもので養う誇りや責任感、新鮮で季節感あるものを使う喜び、何人もで一緒に料理をする楽しさを見た。
いやいやながら料理をしている手を、私はシリアで、一度も見なかった。

夫にとっては、子供の頃に慣れ親しんだ味であるアラブ料理。私にとっては、一緒に料理をした人たちとの短い時間を、そっくりそのまま思い出させる、やっぱり思い出の味だ。
おいしいかどうか、何が入っているか、どうやって作るか、どこのものか、体にいいとか悪いとか、そういう食べ物について書かれる全てを超えて、一緒に料理をした時の記憶が、かけがえなく私に残っている。

楽しく優しく声を掛け合いながら、大切な人たちと一緒に料理をする、ちょっとした時間を、積極的に持ちたい。高級で上等なレストランでの食事に、実はまったく劣らない、心の中のアルバムに残る一枚が、できるかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?