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熊谷守一の残した言葉から考察する『陽の死んだ日』




『陽の死んだ日』 1928年


熊谷守一の残した言葉に関する個人的な考察

 『陽の死んだ日』↑熊谷守一くまがいもりかず(以下、守一)の次男「よう(4歳)」が、自宅の布団で息を引き取った直後の姿を描いたものであるという。
 そして守一は以下のような発言を残している。

 「次男の陽が四歳で死んだときは、陽がこの世に残すものが何もないことを思って、陽の死顔を描きはじめましたが、描いているうちに“絵”を描いている自分に気がつき、嫌になって止めました」

熊谷守一 談

 これは、守一は当初「我が子の最後の姿を残す」ために「我が子」そのものを描こうとして描き始めたものの、夢中に描いているうちに自分でも気づかぬままに「絵(すなわち自らの世界や考えを反映した作品)」を描いてしまっている自分に気が付き、嫌になって描くのを止めてしまった。
 
ということであろうと思う。
 それなら、守一が思わず描いてしまい嫌になった「絵(息子の死を出汁だしに描いてしまった作品)」とはどのような内容の「絵」であるのか。

 
 『陽の死んだ日』には、左下に大きく「蝋燭ろうそく」が描かれているが、蝋燭に火を灯しているということは、部屋は暗かったはずである。にもかかわらず、この画にはほぼ陰影の存在を感じない。というか、蝋燭の灯りの周辺が、画の中で最も暗く描かれているように見え、対して、本来であれば蠟燭の灯により照らされているはずの陽のデスマスクは、むしろ蝋燭を含めた周囲を照らしているようにさえ見える。
 
 「陽」という漢字には様々な意味があるけれど、まず「陽」と聞けば人は「太陽」の「陽」を思い浮かべるのではなかろうか。
 守一は晩年、「日輪」をモチーフにした作品を複数描いているが、そのことを考慮するなら、守一が「陽」という息子の名前に「太陽」の「」の「光」という意味を込めたと考えるのは、あながち的外れではないであろう。

朝の日輪 1955年

 であるならば、この死を描いた画に満ちる明るさは、蝋燭の灯りによるものではなく、「陽」のデスマスクから発せられる消えゆく命の発する最後の光の明るさによるものであるとは考えられないだろうか。
 
 では次に画の中の「色」の持つ意味について考察してゆこうと思う。

 「陽」のデスマスクの周囲(着物?)の赤は「炎」
 「太陽の炎」「命の炎(【命】=【体】は熱を発する)」「荼毘に付され遺体が包まれる炎

 赤の上に描かれている(掛布団?の)白は「生と死の境界線」「骨」「遺灰」「雲」「自然へと還った陽が姿を変えて存在し続けるであろう世界との境目」
 
 ここまで読んで「コイツは一体何を言っているんだ?」と思われた方は、白の上に描かれている色の種類をご確認いただきたい。
 白の上に描かれている色は青、緑、茶である。
 
 青は「水」
 緑は「植物」「空気 (もしくは風)」
 茶は「土」

 このような状況から、この画には四元素を示す色が明確に(というか意図的に)含まれ、考えられた上で配置されているように観える。
 
 「いやいや、緑が意図するのは【植物】は良いとして、【空気 (もしくは風)】ってなにさ、緑と全然関係ないでしょう」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんけれども、視覚を用いて「空気 (もしくは風)」を表現する場合、植物等の揺れにその存在を託すのは、最も容易たやすい方法であるからして、緑という色に「空気 (もしくは風)」の存在を感じるのは全然可笑しなことではないのである。
 また日本には古くから「死んだら人は土に還る」という言葉もあり、植物が、土と水と太陽光と空気を養分として育つ生命体であることを考えると、『陽の死んだ日』という作品の上部のスペースが、青、緑、茶、という三色により構成されていることに、画家による意図の存在を感じることは「ただの妄想であり間違いである」とは簡単には言切れないように思う。

 ゆえに『陽の死んだ日』という「絵」は、「生と死」そして「自然の(生命を構成する物質の)循環の摂理」に託した、守一なりの「陽」への弔いの気持ちを描いた作品であるように思われるのである。
 そしてもしそうであるならば、「陽」のデスマスク( =「陽」そのもの)を描こうとしていたはずの守一が、その過程において意識せぬままに自分の思いや考えをテーマとして描いてしまっていたことに気付き、

 「次男の陽が四歳で死んだときは、陽がこの世に残すものが何もないことを思って、陽の死顔を描きはじめましたが、描いているうちに“絵”を描いている自分に気がつき、嫌になって止めました」

熊谷守一 談

と表現したその発言や気持ちは、誰もが「理解できる」ものとなるように思う。
 ※繊細な感性の持ち主である守一が、実力はあるにもかかわらずかなりの期間、画によって生計を立てることが出来なかったという事実もまた、上記の守一の発言からうかがい知れるような気がするのであるが、如何であろう


 初期の作品に、守一が実際に目撃した妊婦の轢死れきし体をモチーフとして描いた『轢死』があり、そのモチーフに(「死」を描くことに)画家は強い執着を示したそうである。
 また後期にはそれとは逆に、「命と命をもたらすもの」を描くことに守一は強い執着を持ちながら、制作に挑み続けた。
 それらのエピソードは何れも「自然物」を描くという点において共通しており、熊谷守一という画家が「命というものの本質に深く分け入り、それを理解しようと試みていた」ことを、端的に示しているように思う。


※本文中の漢字「絵」と「画」は、意図的に使い分けています


追記(2024/04/06)
 「蝋燭」が灯っているのは、「陽」が(「陽」を構成する物質が)、今後も生き続けるということメタファーかもしれないと思った。
 そう考えるならば、本作の陰影を描かないという設定はより活きてくるし、蝋燭を大きく描いた意図も、わかる気がしてくる。

 また「太陽」とはエジプトでもインカでも、そして日本でも・・・否、世界中にて古来から・・・(以下略)

 というわけで本作は、実はかなり壮大な「絵」なのかもしれない。
 もしそうではないにしても、観る者の妄想や想像を掻き立てる本作は、やはり素晴らしい作品に違いない。


熊谷守一 中期~後期 油彩画 記事へのリンク


余談

 陽の上に大きな「トノサマバッタ」が乗っているように見えるのは、きっと私の目の錯です

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