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障碍を持って産まれる子を心から喜べますか

自分の子どもが障碍を持っている事が出産前に分かって、産む事も中絶も選べる世界ならどうしますか?


そんな質問をどこかで見た事がある


子どもがてきるなんて嬉しいしありがたいから、産みたいなと考えていた。


何か別のことをしている時にふいに障碍を持って産まれてくる子を心から喜べるなと思った

急にそんな考えが湧いてきて、自分でもびっくりした


産まれてくる子の障碍ばかりに目を向けて、未来を悲観すると思うが、(いじめられないか、産まれてきて不幸になるのではないか)

その分、より強い個性を持つのではと感じるのです


視覚がない人の聴覚が研ぎ澄まされ、音楽の能力が開花する人や

学校の勉強には興味がないが、昆虫や電車など自分の興味がある事ついて探求できる人


仕事だからって昆虫や電車の名前や特徴をほとんど言えるように自分はなれません。


そんな才能を持っていても社会の役に立つの?

と思うかもしれないが、

その子の可能性を信じて子育てをする、子どもの周囲の環境が成長を妨げるなら環境を変える(日本にないなら海外でも)

このような環境で育てば、どんな成長をするのだろう

暗いどころかむしろ、どんな未来が待っているのか楽しみでしかたがない

(みんながぶち当たらない壁にぶつかる時の対応など大変なことは多いかもしれないが)



この文を書き終える頃に出てきた疑問として

なぜ自分はなぜこのような思考に至ったのかが気になり始め考えてみると

大きく2つ理由があると思う


①「障害はその子にとって害なのだろうか」という問

②障碍を持った人と多く関わってきた


1つ目の理由は大学の先生の子どもが障碍を持っており、その先生が私たちに投げかけた問である

ハッとさせられるような感覚だったのを覚えている

障害は害だろうと当たり前に思っていた事を崩されたからだ

答えが見つからず、モヤモヤしたまま頭の片隅にこの問は無意識に常にあったと思う


そして2つ目の障碍を持った人と多く関わったのは日本の病院や施設、スーダンの障碍者施設

障碍を持った人たちが楽しそうに毛布や財布など質の高いものを作ったり、

十分に教育を受けられていない聴覚障碍者が一生懸命、そしてこちらも目を輝かせながら毎日ステージ発表に向けて手話の練習をする姿勢


この子たちは何もできない。助けを受けずには生きていけない。

このような考えにしてるのは私たちの問題だと気づけた

むしろ可能性に満ちているのではないかと感じた彼らを信じていきたいと思う

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