幸せというフィクション、喜びというノンフィクション
私は幸せな人生を送るためにどうすれば良いかよく考える
人間は幸せになるために生まれてきた
幸せって誰も見たことないけど、なんとなく笑顔で溢れてる家族とか共通のイメージを持ってる
やからわたしもこうなれたらいいな〜と
自分は幸せについて考えているのに
人が「幸せやなー」と口にした時、なにか違和感を感じる
ほんまに幸せなんかな?と
振り返ってみると生活していて「幸せだなー」と口にしないし、思いもしない
だけど、過去を振り返った時にあの時幸せやったなーと思うことはある
「みんな幸せを探してる」みたいな風潮に自分が流されているような気がする
そうか私も幸せが何か探さないと
と考え始めると、みんなでキャンプ行った時とか、美味しいもん食べたあの時とか幸せやったなー
でも現在形であんまり幸せやな〜とは思わへん
「嬉しい」とか「おいしい」とか「おもろい」とかは現在形で感じる
幸せな生活を送るために必要なこととか、幸せが足りないあなたが今すぐにできること、とか言うけど幸せって具体的になんなんやろ
私も気づいた時にはその言葉を当たり前のように使っていた
ものが簡単に手に入るようになったこの世界で次は幸せの見つけ方を探さなければならない
私もそうだと思っていた。だから自分にとっての幸せってなんだろうと何度も自問自答した
しかしその幸せという言葉が具体的に何を指しているのかは結局分からなかった
私はサピエンス全史の内容から幸せという言葉はフィクションであると感じた
フィクション : 想像によって架空の筋や事柄をつくること。仮構。虚構。
そうか、現在形では幸せだと思わないが、過去の出来事を思い出し時に幸せだったなと思うのは
幸せになりたいがために嬉しいとかおいしい、おもろかった事を頭の中で幸せな記憶にすり替えていたのか。
幸せという正体があやふやなものを追い続けるから、
みんな掴めそうで掴めない。
「あ、やっぱり私って幸せをつかめないんや」と幸せになれていない自分を認識する
そういった幸せになれてないと感じる人たちが、心を満たすために物を買ったり、旅行したり、色んな行動を取る事で世界の経済を回させられているのではないかとすら思えてくる
よし、
幸せという言葉を使わない
私は感じることのできる嬉しい、おいしい、おもろいを記録しながら生活を始めてみる
最後まで読んでもらえて嬉しいです