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梶井基次郎の小説「檸檬」を解説します【彗星読書夜話】

【彗星読書夜話ダイジェスト】

彗星読書夜話は、古今東西の、真に価値ある文学作品を解説する音声プログラムです。
ここでは、そのダイジェストをまとめて文章にしてあります。
本来40分ほどの音声版の内容を、10分ほどで読むことができます。

取り上げる作品を読んだことがない人、「名前だけは聞いたことあるなあ」という人でも、お楽しみいただけるようになっています。


彗星読書夜話とは?

これまで、文学作品を扱うネットのコンテンツは、それを作った人の「解釈」を語るだけのものがほとんどでした。

彗星読書夜話は、「解釈」ではなく、その代わりに、その文章から学び取れる、いくつもの「方法」をお伝えします。
思考の方法、認識の方法、作文の方法、シナリオ作りの方法。
そして、作者のコントロールを超えて、なおかつ論理的に、そして創造的に深読みする方法。
さらに、作品を通して、歴史・芸術・哲学といった人文科学の領域の様々なキーワードを学ぶこともできます。

文学や批評や芸術の理論を学んだ私だから作れる、今までにないコンテンツです。

概要

今回取り上げるのは、小説家・梶井基次郎の短編小説「檸檬」。
青空文庫へのリンクはこちら
高校生の頃、教科書で読んだ人も多いかもしれません。
また、名前だけは知っている、という人もいるのでは。

今回、この作品から学び取るポイントは、次の3つです。

・クオリアを語る文章モデルとしての「檸檬」
人には誰でも、その人の好きなものがあります。それを人に説明するのは、意外と難しいものです。梶井基次郎は、自分が好きなものを文章で書く方法を熟知していました。
「クオリア」という言葉をキーワードに、
実例を見ながら、彼の表現方法を学び取ってみましょう。

・象徴(symbol)について世界一わかりやすく説明する
この小説は、不安・憂鬱・美しさ、そして様々なイメージを、「檸檬」という一単語に凝縮させる、ひとつの装置とも言えます。
一見、レモンが何かの「象徴」のようにも思える。
では、「象徴」とは何かを学んだ上で、あらためて考えてみましょう。
レモンは、果たして何かの象徴なのでしょうか?

・空間を幻想的に描く作文方法を知る
「檸檬」では、現実世界が、語り手の主観的で鮮やかなイメージを通して描写されます。
これこそ、この作品にファンの多い理由なのですが、それを可能にしている文章の書き方を解明します。
実は、各段落の1行目に、秘密があるのです。

あらすじ

「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。」
語り手は、美しいと自分が感じたものを記憶の中から取り出しながら、京都の路をぶらついている。病気もあるし、借金もあるし、持ち金は残り少ない。

外見の美しい、お気に入りの果物屋に、普段は置いていないレモンを見つけ、1つだけ買うことにした。それを握りながら歩くと、「不吉な塊」はゆるんだ気がした。

ふと通りかかった書店・丸善に入り、画集を引き出しては積み重ねてゆく。
憂鬱と疲れが再び満ちて来るなか、思いつきで、本の山の上にレモンを置く。
不意にある空想が浮かび丸善を出る。あのレモンが爆弾だったら。画集の棚の前で爆発したら。
「私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう」」
語り手は、街の奥へ歩き去っていく。

梶井の生没年は1901~1932年
本作は1925年に発表されました。
また、梶井は肺結核を患っており、本作の語り手にも肺結核の初期症状が出ていることから、語り手は作者の実像を強く反映されているのですが、今回は、作者と語り手をハッキリと分けて話を進めます。


・クオリアを語る文章モデルとしての「檸檬」

自分が好きなもの、魅力的だと感じるものについて、誰かに話したい時。
そして、そんな話題から、相手との会話を始めたいとき。
雑談やアイスブレイクに使える技術を、この小説の文章技術から学べます。

脳の中で生まれる「質感」を、クオリアと言います。
これは、聞き慣れない言葉ですが、実は私たちがいつも感じているもので、理解するのは簡単です。

今、手元に、ステンレスのカップがあるとします。
冷蔵庫でキンキンに冷やしたコーラを注ぎます。
取っ手を持つと、マグカップのツルツル感とは違う、金属っぽいツルツル感がある。
側面を持つと、ステンレスだから、もうびっくりするほど冷たい。
飲む瞬間、フチが歯に当たると、カチンという金属ならではの音がする。
脳の中で、容易に想像できたでしょう。
この、触り心地、温度、音、そのどれもが、「クオリア」なのです。

「檸檬」は、クオリアの小説。ちょっと飾って言えば「クオリア文学」です。
語り手が魅力的に思ったクオリアを、あれこれと並べています。
よーく観察すると、語り手が好きなものを説明する時、かなり「聞かせる」方法を使っていることがわかります。
今から、3ヶ所を引用してみます。最初の部分に注目してみてください。

 何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった。

なんだか、廃墟趣味や、今で言うレトロ趣味ののようなところがあります。

 それからまた、びいどろという色硝子で鯛や花を打ち出してあるおはじきが好きになったし、南京玉が好きになった。またそれを嘗めてみるのが私にとってなんともいえない享楽だったのだ。あのびいどろの味ほど幽かな涼しい味があるものか。(…)その幼時のあまい記憶が大きくなって落ち魄れた私に蘇えってくる故(せい)だろうか、まったくあの味には幽(かす)かな爽やかななんとなく詩美と言ったような味覚が漂って来る。

また、

 生活がまだ蝕(むしば)まれていなかった以前私の好きであった所は、たとえば丸善であった。赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水壜。煙管、小刀、石鹸、煙草。私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあった。

私たちは、好きなものや、魅力を感じるものを他人に説明する時、暴走しがちです。
聞く立場に立ってみると、「で、要するに、どこが良いわけ?」と思われても仕方のないくらい、伝わらない細部を最初から熱く語ってしまいがちなのです。

この語り手はどうでしょうか。
最初の部分、他人に話す際の「ツカミ」として、かなり優れていますね。
要するに、単に「〇〇が好きだった」ということだけをまず語る。
そのあとに、細部を説明し、本当に語り倒したい部分を教える。

これ、たとえ目の前の相手と、好みや嗜好が全然重ならなくても、相手に自分を伝えるためのテクニックとして効果的です。

梶井基次郎は、この小説で、情報のパッケージングの技術を披露しているのです。

そして作中、語り手が最も心惹かれるクオリアが、レモンのクオリアです。

 その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。その頃私は肺尖を悪くしていていつも身体に熱が出た。事実友達の誰彼に私の熱を見せびらかすために手の握り合いなどをしてみるのだが、私の掌が誰のよりも熱かった。その熱い故だったのだろう、握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった。
 私は何度も何度もその果実を鼻に持っていっては嗅いでみた。(…)そしてふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸い込めば、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった私の身体や顔には温い血のほとぼりが昇って来てなんだか身内に元気が目覚めて来たのだった。……

レモンなんてしばらく手にしたことのない私でも、感触、色彩が、ありありと想像できます。
ここにも、先ほどと同じテクニックが使われています。
おそらく梶井は、クオリアなんて単語を知らないままに、それを理解し、それを書き残すためにこの技法を体得し、小説を書いていたのだと思います。

さてこの読み方、のちほど、応用してみましょう。

・象徴(Symbol)について世界一わかりやすく説明する

象徴(シンボル)という、よく聞くけれど、どこか難しそうに感じる考え方を、わかりやすく解説します。

この小説は、「異化」と「象徴」を学ぶ絶好の素材です。
この、ただのフルーツでしかないレモンに、特別な意味を与える、というこの操作は、芸術理論では「異化」と言います。
普段見慣れたものを、まるで新しいものであるかのように思わせること――それが異化です。

「檸檬」は、日本文学における異化の最大の成功例のひとつでしょう。
ただ、異化については別の作品で取り上げたいので、ほかの機会にゆっくりお話しするとして、
今回は、「象徴」とは何かをお話しします。

「AはBの象徴だよね」という言い方は、その根拠が確認されず、独り歩きすることの多い言い回しです。
思考を妨げている、ともいえるでしょう。
では。本作において、レモンは何かの象徴なのでしょうか?
それとも、あまりそう考えない方がいいのでしょうか?

象徴、シンボル、という言葉は、文化を語る上でほんとうによく使われますよね。
しかし、国語辞典には、明快な説明が載っていないことが多いのです。
記号論という見方で、ハッキリさせていきましょう。

象徴は、記号の一種です。
記号とは何か、を、まず確認します。
Aというものが、今ここにはないBというものを指し示しているとき、このAが、記号です。

「そうだ、コーヒー切れてたよね、新しいの買って来るよ」と誰かに言うときの「コーヒー」と言う言葉がA、買いたいコーヒーそのものがBに当たります。
(本当は、言葉は全部記号です。)

記号を説明する方法は、大きく分けて2つあります。

1:表現(私たちがまず受け取るもの。例えば「犬」という漢字)
2:対象(表現が指し示すもの=本体。例えば犬という動物そのもの)
3:解釈項(人が思い描く、対象のイメージ。例えば犬のイメージ)
と3つの要素に分ける方法。

もう1つは、
1:表現(または記号表現。元の言葉は「シニフィアン」)
2:対象(または記号内容。元の言葉は「シニフィエ」)
の2つに分ける方法です。
今回は、話をわかりやすくすりため、2つの要素に分ける方法で、この先を読み進めてください。

「記号論」という学問では、記号の種類を
・icon(訳語:類像)
・index(訳語:指標)
・symbol(訳語:象徴)

の3つに分けています。

iconは、表現と対象に、見るからにわかる関連性があるもの。
例えば写真。当たり前ですよね、Aさんの顔写真は、Aさんを指し示しています。肖像画もiconです。

indexは、客観的に関係があると言えるもの。
風見鶏は、風の吹く方向を示しますから、indexですね。グラフもindexです。

symbolは、表現と対象のあいだに、客観的な関連性がない記号のこと。
リンゴは「禁断の果実」? でもそれは聖書の「創世記」のエピソードが由来となっているにすぎません。
本は「知恵」の象徴? でも、バカな本、アホな本はいくらでもあります。

象徴とは、恣意的なものです。
ある文化圏の中でしか、通用しません。

でも、1つの小説の中で、「AはBの象徴だ!」と主張されていたら、小説の中にその文化圏が成立します。
その小説が多くの人に知れ渡ったら? AはBの象徴として、誰もが認めるものになるかもしれません。

では、なぜ人は、象徴なんてものを作るのでしょうか?
理由はいろいろありますが、象徴の機能の1つに、「その象徴を見ると、特定の感情を引き起こす」、があります。
4は不吉な数字。13は不吉な数字。
7はラッキーナンバー。
数字の意味合いで感情が揺れる人、意外と多いです。

起源はあっても、こんなものに根拠なんかありません。しかし、それを見る人の脳に、瞬間的に感情という名前の化学反応を起こさせます。それほど、象徴とは、強い機能なのです。
これを、意図的に用いるなら。
多数の人の心理を操作することもできそうじゃありませんか?

本作において、空想の中で爆発するレモンは、何かの象徴なのでしょうか?
たとえば、「不安や憂鬱を解消するもの」のような?
その通り。少なくとも、読者に対して、象徴として機能しています。
たった小説ひとつで、強力な象徴を作ることに成功しています。


でも、梶井は、読者がレモンにいろいろなものを代入できるように書いています。熱を吸い取ってくれるもの。美しいもの。限定がかなりゆるい。
ある程度方向性は揃っているけれど、具体的には読者が自由に捉えていい象徴。これにより、多くの読者を巻き込む。
だから、読者に強い作用をもたらすのです。

・空間を幻想的に描く作文方法

梶井基次郎の文章技術を、お教えします。

この小説の最大の魅力は、語り手が、モノや記憶や街を描写する、その語り口です。
想像力豊かなこの語り手は、目の前にないものまで引き合いに出しながら、描写し続けます。

では、本作とその他の小説の違いは、どこにあるのでしょうか?
この秘密を知る事ができれば、誰でも本作の文章をマネできそうです。
「クオリアを語るモデルとしての「檸檬」」の内容を、別角度から見てみます。

秘密は、ひとつひとつの段落にあります。
ここでも、第1文に注目してみましょう。
例えばこの段落。

 時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。(…)――錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。

1文目に語り手の空想が書かれていますね。その次に、補足説明がある。その後ようやく、現実世界に言及する。
これまでに出した引用文も、この共通点を持っています。

なぜここに着目するのが重要なのか?
いよいよ応用編です。

これ、小説に限った話ではなく、文章を書く時の大半に当てはまる事なのですが、
段落の1文目が、その段落の印象を決定するのです。

いや、印象というより、その段落の方向性を決めるのです。
言わば、その段落の「枠」が、1文目なのです。
これが、客観的な文章から始まると、様変わりします。

 僕は或知り人の結婚披露式につらなる為に鞄を一つ下げたまま、東海道の或停車場へその奥の避暑地から自動車を飛ばした。自動車の走る道の両がはは大抵松ばかり茂つてゐた。上り列車に間に合ふかどうかは可也(かなり)怪しいのに違ひなかつた。

評論や新聞記事ではなく、あえて同じ小説である、芥川龍之介「歯車」の冒頭から引いてきました。
現実に起こった事の報告があり、それの補足説明があり、それに対して思った事が書かれます。
ここには、空想や幻想は入りにくい。

一方、梶井の書き方は、段落の「枠」を主観にして、見える世界も自分色に染めている。
まさしくそんなことに言及している部分がありましたね。

錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。

単に空想で色を染めたのではなく、文章レベルでも、ちゃんとそうなっているのです!

もちろん、本作には、事実から始まる段落もあります。一貫しているわけではありません。
この、段落のミックスのさせ方が、本作の幻想的イメージを支えているのです。


終わりに

「檸檬」は、短い小説なのに、語れることの多い小説です。
だから、他の人と一緒に語るほど面白い。いつまででも語れる。
私の読書会でも、何度も取り上げています。
今回は、そんな稀有な作品の魅力を支えている論理的な土台を解説しました。

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