見出し画像

夕陽が太平洋に沈む時 【第9話】

 夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】

 10年前に自分がコニーに向かって唐突に切り出したその一言が、その朝、一晩を一緒に過ごしただけの男の口から発せられていた。

 麻衣は、コニーに求婚した時、彼に関しては何の知識も無かった。しかし、あの時は彼が運命の男だと信じ込んでいた。彼しか目に入らなかったのだ。自制が効かないほど彼に触れたかった。

 今の剛史の心境は、あの時の私と同じなのだろうか。

 剛史は冷静沈着を維持したまま麻衣を見つめていた。麻衣の返事を不安そうに待っている、という様子は窺えなかった。
 
 麻衣は、コニーが失踪したあと、何人かの男となりゆきで寝たが、自分からそれを欲したことは無かった。大抵の場合は、「ここで断ったら気まずくなる、怒らせてしまう、断るのも気が重い」、という類の社交的な理由による同衾であった。すでに失うものなど何もないと感じていたため、深慮することもなく、後悔もなかった。いずれの関係も、麻衣の方からは連絡しなかったため長くは続かなかった。

 目の前に座っている引き締まった体躯を持つ男、整った顔立ちに爽やかな笑顔、35歳にて外資系大企業の部長、多少融通が利かないところもありそうだが、麻衣の身体の隅々を把握できる男。

 結婚相手の条件としても申し分はなかった。しかし、麻衣は一度結婚していた、結果がどうであったにせよ。麻衣はその事実を告げるべきであると考えた。

「あの」
 
「何だい?」

 剛史は穏やかに応対した。

 麻衣を優しく包み込む表情、思わず寄りかかりたくなるような引き締まった胸。失いたくはない存在であった。

 コニーのことなど今さら持ち出してどうするつもり?彼の記録は、戸籍にもどこにも残っていないはずだわ。

「シャワーを浴びさせてもらっていいかしら?」

「ああ、いいよ」

 剛史は、麻衣の返答を強要する代わりに、白い厚手のタオルを持ってきてベッドの上に置いた。

「あいにく女性向きのものは置いていないが、バスルームのものは何でも使ってもいいよ」

「あいにく、ではなくて、幸い、じゃないの?」

 剛史は、麻衣のブラックユーモアに苦笑いで応対した。

 この人の生活には、本当に女性の影が無いのね。
 
 麻衣はタオルを身体に巻いてバスルームに入った。剛史の説明した通り、そこにはヘッド・アンド・ショルダーというブランドのシャンプー以外には何も見つからなかった。

 麻衣は自身のマンションのバスルームと比較してみた。そこにはラベンダーの液体ソープ、エスカーダ・ブランドのシャンプーとバルサム、その他にも色とりどりの液体が数本常備されている。

 隣の部署の部長のマンションで、クリスマスの朝にヘッド・アンド・ショルダーシャンプーを使ってシャワーを浴びている。昨日の朝には、こんな展開はまったく想定外だったわ。
 
 麻衣は、鏡に映った自身の身体を確認した。剛史に愛撫された跡、触れられた跡、吸い取られた跡がところどころに残っていた。

 あれほど私を感じさせられる男は今までにいなかったわ。

 麻衣と触れ合うのは初めてだったに拘らず、剛史は麻衣の身体を隅々まで把握していた。その理由は、麻衣の表情をよく観察して、麻衣を悦ばせさせようと努力しようとしたからなのではないか。

 麻衣が今まで身を重ねて来た男達は、自身の快楽に浸ることで手一杯であった。麻衣を悦ばせようとした男もいたが、それは一重に自身のテクニックを披露しようとしたものであり、そこに愛は存在しなかった。

 すなわち、今まで麻衣に近づいて来た男達は、剛史の言葉を借りると「本物」ではなかったのだ。

「剛史は違う」

 剛史に対しては、コニーの時のような強烈な熱情は生まれて来なかった。

 でも10年前の私は未だ若かった。情熱という感情を信じていた時代だった。あの燃える火のようなハワイアンダンス、マウイの温かい秋、燃え尽きて南国の空に昇華してしまったすべて。

 束の間の夢であった。
 
 あれから10年、クリスマス。

 寒いだろう、と布団を掛けてくれる男、10年間で初めて自分から一緒に過ごしたいと思った男。剛史と一緒に人生を過ごしたら、剛史にこの身体を包まれながら、温かく誠実な瞳に見守られながら、毎日安らかに眠れたらどんなに充足した朝が迎えられるのであろうか。

 麻衣は、前の晩のことを回想した。
  
 剛史も麻衣も交わりながら何度も何度も昇り果てた。麻衣は、剛史の指が触れたあらゆる部位に電気が走ったような刺激を覚え、何度も失神しそうな感覚を受けていたのだ。


 麻衣はバスルームから出て、剛史に借りた青色のワイシャツを着ると、口紅を薄く引いてリビングルームへ戻った。

 指輪の箱は、ベッドのサイドテーブルに開いたまま置かれていた。

「目玉焼きとスクランブルとどっちがいい?」

 剛史がキッチンから訊ねた。

「スクランブルエッグがいいわ、ありがとう」

 麻衣は指輪を薬指にそっと填めて、キッチンに入った。

 剛史は、白と青のストライプ模様のエプロンを掛け、スクランブルエッグを焼いていた。

 麻衣はエプロン姿の剛史が愛おしくなり、後ろから抱きしめた。

「こんな女で本当にいいの?」

 剛史は振り向いて、指輪の填まった麻衣の指を見つめた。 

「君が返答をしないでシャワーを浴びに行った時は、断られたのだと思ったよ」

「断ったらこの指輪どうするつもりだったの?」

「さあ、テディベアのぬいぐるみでも買って、そいつのネックレスにでもしようかな」

「テディベアの首よりも、私の指の方が似合っていると思わない?サイズがピッタリなのよ」

 麻衣は、自身の細い指を華麗に着飾る指輪を見つめた。

「君の指のサイズは、呆れられそうだが、工場で使用しているケーブルの型番と比較させてもらった。一番頻繁に使用するサイズのものだから間違いはないと思った」

 剛史は、冗談とも本気とも付かぬ声調でそのように解明した。

「君、本当にこの技術馬鹿でいいのかい?女性を愉しませる芸当なんて本当に知らないんだぜ」

 剛史の声が頭上から聞こえてきた。

「この型番のケーブルで本当にいいんですね」、と社内会議で確認を取っている剛史の口調そのものであった。

「昨晩、私、何度も失神しそうになったわ」

「あのくらいの事で君が愉しんでくれるなら何度も出来るよ」

 剛史は卵を焼いていた火を止めて麻衣を抱き上げた。


 麻衣は、その後に起きた一連の出来事を明瞭に記憶している。

 全ての行事が光陰の如く過ぎ去った。

 剛史は、大掛かりな婚約披露パーティーを開いて麻衣を関係者に紹介した。半日だけだったとは言っても既婚者である彼女は、罪悪感に苛まれることも多々あった。

 誰にも知られることのなかった初回の結婚に対して、今回のものは正真正銘の結婚になるのだな、と麻衣は感慨に耽る時もあった。

 剛史は、式に関しては、いつでも麻衣の希望を優先してくれようとした。既婚者である彼女には、それほど強い希望があったわけではなかったので、結局、彼に全面的に任せるようなかたちとなった。

 法律家である麻衣の母は、彼女がモデルになった時点から、地味で堅実な人生は送らないのではないか、と危惧していたようである。そのため、麻衣が会社員と結婚することを知り、ひとまずは安心したようである。母と父は7年前に離婚しており、4年前からはお互い連絡も絶っていた。

 剛史の父は一銀行の重役であり、尊大という訳ではないが、堂々とした話し方をする人である。母の方は華道の師範であり、剛史に似て鼻筋の通った長身の女性である。彼女は、口数が少なく愛想笑いをするようなタイプではなかった。

「剛史はね、お金には全く興味は無いと言うんですよ。それで、銀行家ではなく機械工の道を進みましてね。まあ自分の好きな仕事をすることが一番幸福なのでしょうがね」

 麻衣が剛史の両親と初対面を行った時、剛史の父は冗談交じりにこのように語った。

「機械工じゃなくてIT技術者だよ、父さん。この二つは少しニュアンスが違うんだ」、と剛史が反論する。二人は大概仲の良い親子のように感じられた。

 麻衣との結婚に関して、剛史の両親がどのような印象を持ったかは分りかねるが、剛史に依れば、どちらにも反対はされなかったということである。

 剛史は一生独身を貫くのではないか、と両親は半ばあきらめの境地にも入っていたため、むしろ歓喜していたそうである。

 昨日、目黒のホテルにて、結婚式は無事に終わった。

 
 それが今に至る。

 そして、今回も新婚初夜に夫は消えた。

「今回の結婚は新婚旅行の夜までは持ったのだから、前回の時よりは数時間進歩したわよね」、などと自嘲的に呟いてみる。むしろ自嘲的にでもならないとやりきれない。

 ホテルの部屋というものは、一人で宿泊する時には静寂さがより顕著になる。パンパン、と手を叩いてみると部屋全体にその音が響く。

 ベッドの脇に座って部屋の壁を凝視していると、自嘲的なフレーズが、次から次へと麻衣の脳裏に浮かんで来る。

 そう言えば最近、結婚できない男、なんてドラマがあったわね、それなら、結婚できない女などというタイトルのドラマがあっても不思議はないわね。そしてそのドラマの主人公は笠島麻衣。

 籍は新婚旅行から帰ったあとに入れる予定であった。

 自嘲的フレーズは一時も麻衣を開放しない。

 もはや、迷う余地も無かった。麻衣は孤独の部屋を脱出することにした。ホテルの部屋で一人で悶々としているよりは夜風に当たるほうが、精神衛生上良いはずである。

 麻衣は、夜の波の音が聞きたかった。人の気配を感じたかった。彼女は、エレベータで地上階まで降りて、浜辺まで歩いてゆく。

 時刻は午後11時頃であっただろうか。部屋を飛び出して来たようなものなので、携帯電話をホテルの部屋に置いて来てしまった。

 リゾート地では、時計の必要性はあまり感じない。東京にて働いているときとは大違いである。

 プーケットの海岸、遅い時刻であっても、海岸をゆらゆらと歩くカップルがちらほらと視界に入って来る。

 麻衣の視線が一組のカップルに張り付く。白人男性と現地人女性のカップルであり、肩を組みながら緩慢にホテルの方角へ歩いて来る。二人の間には会話は無い。

 二人が無言であるのは、言葉が通じないから、という理由ではなさそうである。現地人女性の方は、水商売に携わっているというよりはビジネスウーマンであるような理知的な雰囲気を、全身から醸し出している。

 白人男性の方も30代後半であろうか、身なりも良く、どことなく気品もある。

 ひとときの恋、常夏の国の情熱、麻衣は二人の関係を推察してみる。

 彼はきっと本国に帰ると奥さんも居て、可愛い子供も居る。たとえ、彼の本当に愛する女性がこの女性だとしても、その愛を貫いたら傷つく人が多すぎる。そんなところかしら。

 そのようなことを思索しながら歩いていたら、すれ違いざまに女性の方が麻衣を一瞥した。

この記事が参加している募集

恋愛小説が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?