見出し画像

地方銘菓で糖分を(5)「休日午後の告訴状」 うなぎパイ編

友部理子(26)はカフェや喫茶店が大好き。スウィーツ大好き。地方銘菓が
大好き!そしてお茶の時間を愛している。
そんな彼女がアシスタントを務める、世田谷の小さなデザイン事務所「羊進円」。
社長の伊藤(45)、デザイナーの中野(36)、八木(32)、桜井(28)
の男四人と無愛想な経理の女性、石井(34)。
皆独身で、皆変人。決して、仲がいいわけでもない。ただ、唯一の共通点は皆、
甘いものが大好き。
そんな「羊進円」に毎回、地方銘菓がやってくる。
甘味を巡って、事務所内で蠢く人間模様。理子の恋愛が始まる?
そんでもって理想のお仕事とは?
甘いものを巡る、甘くない恋愛&お仕事小説。

(前回の話はこちら↓)


最近、友部理子の頭の中は飽和寸前であった。
上京し、世田谷にある小さなデザイン事務所「羊進円」でアシスタントとして働き初めて五ヶ月がたとうとしていた。
仕事に慣れるどころか、理子は日増しに気持ちがいっぱいいっぱいになっていた。それは仕事の内容よりも、仕事場での人間関係での悩みだった。
とにかく「羊進円」のメンバー達は皆、変わっている。

社長の伊藤さんはジキルとハイド。いつもニコニコと穏やかなのだが、火がついた途端に『アウトレイジ』に出演していそうな反社に変貌する。その変化の激しさは山の天気のようである。

事務所内で一番の売れっ子、中野さんは既にアラフォーだというのに五歳児のように幼稚だ。いつも子供じみたイタズラや、理子に対しては下品なセクハラ発言をして困らせる。当然独身だ。

いつも淡々としている八木さんは常に無表情で何を考えているか分からない。僧侶のような落ち着きをみせている。つまり俗なところがない。

理子の三つ上の桜井さんは優しくて気遣いができる人なのだが、ナレコプシーという突然寝てしまう持病を持っている。これがいつどこでその持病を発動するか分からない為、締め切りを破ってしまい事務所内はそのフォローでパニックになる。
経理の石井さんは、この事務所において理子以外で唯一の女性。三十四歳独身。

「羊進円」の創業メンバーであり、石井さんの機嫌次第で経費が落ちなかったりするの為、社内のパワーバランスとしては社長の次に偉い。
ジーンズにシャツ姿で化粧っ気がなく、いわゆる女子力は低い。おまけに愛想もない。またこの羊進円にいた社員と付き合っていて、お金で問題を起こしたというまことしやかな噂が…。
理子はこの石井さんにどうやら嫌われたらしく、この数ヶ月、ほぼ無視されており、とても仕事がやり辛く困っている。立派なパワハラだと理子は思う。
でも、こんな小さな事務所で訴える部署もない。

中野さんのセクハラや石井さんのパワハラで日々、心がすり減る中、桜井さんと 八木さんから告白じみたことをされ、謎のモテ期を迎えている。
でもこの羊進円は社内恋愛が禁止で、付き合ったらクビと社長から言われている。あのアウトレイジ砲を浴びると思うと、そんな気には到底ならない。それでもなんとなく、桜井さんと八木さんの事を意識してしまう。
 その上で次々にこなさなければならない仕事の雑務の数々。
理子は、心の中の何かが溢れ出しそうなものを抑えつけ、目の前の作業をなんとかこなしていた。

『ポップアップストアの看板や商品展示のデザインを考えて頂けませんか?』
ある日、そんなDMが「羊進円」のインスタに届いた。
 二年間担当し、二十七人しかフォロワーを増やせなかった八木とは違い、理子がSNS担当になってからフォロワーの数は順調に伸び始め、一ヶ月過ぎて二千五百人を超えていた。フォロワーをチェックすると、コーヒーやカフェ、雑貨や食器好きが多いようだった。
 
理子は毎日「羊進円カフェ」というタグを作り、丁寧に淹れたコーヒーの紹介や、差し入れられたお菓子、羊進円の過去の仕事などをアップしていた。その効果が現れていたようだった。
 インスタで仕事の依頼をしてきたのはスパイスの卸問屋だった。
手軽に飲めるマサラチャイ『スパイスマサラ』という商品を自社で開発し、その認知の為にポップアップストアを開きたいという。
 ネットで調べてみると、ホームページはなくブログとインスタのみで宣伝して
いる。インスタのフォロワーは三百人ほどだった。
 理子がアップする写真の食器や、お菓子のレイアウトが前から気になっていたので是非考えて頂きたいという。
「すごい、理子ちゃんが獲得したクライアントじゃない」
 桜井さんが拍手を贈る。
「てかさ、一ヶ月でこれだけフォロワーを増やせるって事はそっちの方が才能あるんじゃないの?クリエイティブというより、広報とかマーケティングやった方がいいんじゃない?」
珍しく中野さんが熱を込めて言うが、理子の嬉しい内容ではない。
「たまたまです。それに私がやりたいのは広報ではなくデザインなんです!」
 理子は力を込めて言った。
今、自分は会社の中で何をしているのか分からない状態だ。このまま流されて言われた事をこなす日々から卒業したかった。
 理子は会議室から出てきた社長にインスタにDMで依頼があった事を報告する。
「へー。昔は仕事を頼む時は紹介とか、知り合いのつてをたどって電話かメールってのが普通だと思ったけど時代だねえ。昭和世代の僕には不躾に思っちゃうけど」
どうやら今日はジキルで機嫌が良かった。
「今はこういう形で依頼が来る事がスタンダードなんですよ」
 桜井さんがフォローしてくれる。

「ふーん。じゃあ、うちもホームページとか、もっと充実させないとね。それにしても、高い食器買わされたけど、あれのおかげで仕事が来たって事でしょ?投資した甲斐あったよね」
理子は思わず、デスクに座る石井さんを見る。ずっとパソコンを眺めている。
さっきから一言も発していなかった。嫌味を言われるより、
その沈黙が恐ろしかった。
「じゃ、それ理子ちゃんが担当してよ」
「え?」
「もう、アシスタントは卒業でいいでしょ。どんどん働いてそのコーヒーセットの何倍も、稼いでよ」
 おお。ついに独り立ちデビュー。
「良かったじゃない、理子ちゃん」
「ほんとほんと」
「おめでとうございます、友部さん」
 桜井さんと中野さんと八木さんが、理子に拍手を贈った。
「あ、ありがとうございます」 
胸が熱くなり込み上げてくるものを飲み込む。この五ヶ月、自分がやっていた事はコーヒーを入れる事、インスタの画像を撮ってアップする事、買い出しなどの使い走り、指示された通りのデザイン処理であった。やりながら「いつまでこんな事続くのかな」と思ってので「ようやく」という言葉が理子の喉元をつきあげる。
頑張らなければ。理子は気合いを入れる。
「あ、一応、フォローとして中野がついて」
 社長が中野さんに言った。
「え!?」
 つい理子は鋭い声を出してしまった。だって、依頼してきた卸問屋は多分若い
女性をターゲットにしたいから声をかけてきたのではないか。理子が管理するインスタに反応するという事は。であったら、女子供をいつも馬鹿にしている中野さんが関わるのは真逆なのではないか。

「なんだよ、文句あんのかよ」
 中野さんが拗ねたように言う。
「今、中野が一番仕事に余裕があるからね。だてに場数踏んでないから。それに交渉の時、おっさんがいるのも威嚇になるでしょ?そんじゃ、よろちくびー」
 社長はどうしようもない昭和の下ネタを言って会議室に戻っていった。
「ち。おっさんって、なんだよ。ありゃハラスメントだな」
 普段、口から出てくる言葉の七割がセクハラの中野さんが社長に舌打ちする。
どの口がそんな事を言うのかと理子は呆れた。既に波乱の予感がする。

「近くに来たので」と『スパイスマサラ』のスタッフが事務所を訪ねてきたのは、インスタにDMを送ってきた三日後だった。
理子よりはちょっと年上とお見受けする女性スタッフの永井さんと小倉さん。
二人と理子と中野さんは羊進円の会議室で恭しく名刺交換をした。
永井さんと小倉さんはスーツを着用しているのに対し、中野さんはジーンズに
Tシャツという部屋着のような格好である。
明日、先方が打ち合わせに来て下さいますと伝えておいたのに。
わざわざかっちりしたシャツを着てきた理子は、中野さんが二日続けて同じ服だった事に心の中で舌打ちする。
「なんか思っていたデザイン事務所と違う」なんて印象を持たれたら、どうしてくれるのか。
「突然の訪問、失礼します」と丁寧な挨拶と共に永井さんと小倉さんは
『スパイスマサラ』のサンプルをテーブルの上に並べた。
ターバンを巻いたインド人のポップなイラストのパッケージが可愛いらしい。
独自に調合されたスパイスがティーパックの中に入っていて、牛乳と共にカップに入れてレンジで二分温めるとマサラチャイが完成、という商品である。
「へーお手軽ですね!」
 お茶が大好きな理子は食いついた。理子は自分でマサラチャイを作った事がある。鍋でスパイスと牛乳を一緒に煮立たせる際、目を離した隙に沸騰して牛乳がこぼれてしまった事があったのだ。
「あるあるですねー」
 永井さんと小倉さんが笑った。
「マサラチャイって自分で作るとなると、ちょっとハードル高いんで」
「アンケートだと、牛乳を温めた鍋を洗うのが面倒とかって意見も多くて、だからレンジで一杯分だけ作れるように開発したんです」
おお。自分はこんな商品が欲しかった!理子はちょっと興奮してしまう。
「俺はこういうの、インドカレー屋で一回飲んだっきりかなあ。甘ったるくてちょっと苦手」
中野さんが衝撃発言をするので理子は凍りつく。思わず、会議テーブルの下で中野さんの脚をこずいてしまう。
「ん?何だよ?」
 中野さんは失言した事を分かっていないようだった。
 永井さんと小倉さんはそんな二人の様子を見て笑った。
「分かります。うちの会社の上司達がそんな感じだから」
「男の人はインド料理が好きな人以外は、あまり馴染みがないみたいで…」
 そう言って、社内でスパイスマサラの企画を通す時の苦労を理子と中野さんに話してくれた。
スパイスには医薬同源効果がある。だからカジュアルな漢方のように売れば、
エスニック料理の調味料としての認識しかない層や、若い世代に認知を広げられるのでは?と開発したのだという。
「スパイスの従来のイメージを覆して、若い女性にアピールするようなポップアップストアにしたいんです。それでご相談なんですが…」
 永井さんは微笑みながら理子の目を見て言った。

 二人が帰った後、理子は拍子抜けしていた。なんとこのポップアップイベントのデザインはコンペで決めるというのだ。
 羊進円を含め、五つのデザイン事務所に声をかけていてその中から選びたいという。そんなの、今までアシスタントだった理子には荷が重すぎる。
「まあ、そんなにうまい話はないって訳よね」
 ずっと黙っていた石井さんがここぞとばかりに言った。背中にちくっと刺さる
言葉だったが理子は何も言い返せない。
「そんな大きくない会社なのに、コンペとは随分と偉そうですねえ」
 八木さんが言った。多分、理子を慰めてくれているのだろう。
「何言ってんだよ。そんなの普通だろ?あっちだって社運がかかってんだから」
 中野さんが強い口調で言った。理子は驚いて振り返り中野さんを見た。珍しくシリアスな顔をしている。
「でも、友部は今までアシスタントだったし、いきなりそんな大きい仕事、大丈夫な」
「関係ねえよ。誰だって最初はやった事ねえし」
 石井さんの小言を中野さんが塞いだ。
「お前さあ、頑張って勝ち取ってこいよ、ポッポアップをよお」
え?何この熱いキャラ。中野さんてこんな人なの?理子は驚いた。そしてポッポアップじゃなくてポップアップなのだけど。そこは指摘しないでおいた。

二週間後のコンペに向けて理子は猛然と頑張った。
二十六年間生きてきて、理子がこれほどまでに集中したのは大学受験以来であった。
他の食品メーカーのポップアップストアのリサーチ、スパイスやスパイス料理の研究、競合他社の研究。休日はポップアップストアが開かれる予定のショッピングモールまで脚を運んだ。一日中行ったり来たりして客層のチェックをした。
それを踏まえて店内のレイアウトやデザインを何パターンも考えた。理子は思いつく限り、出来る限りの事をやりたかった。
驚く事に、コンペに集中していると他の悩みが気にならなくなった。石井さんの嫌味や、桜井さんや八木さんの事も。
 一方、あれだけ熱い言葉を言ってきた中野さんは理子のやる事にノータッチだった。相談しても「俺、あんまりあの商品、興味ないんだよなあ」と言って逃げる。単に面倒臭いのだろう。
この仕事に関係のない桜井さんと八木さんの方が、悩む理子にアドバイスをくれた。二人の意見は一致している。
「クライアントは理子ちゃんのインスタを見て発注してきた訳だからさ。
それって理子ちゃんのセンスを見込んでって事だから、
自分のセンスを爆発した方がいいんじゃない?」
 確かに永井さんと、小倉さんは若い客層にアプローチしたくてスパイスマサラ
を開発したと言っていた。という事は、下手なマーケティングでデザインする
より、私が「好き」というものを爆発させちゃえばいいのではないか、
という結論に理子は至った。
そこで思いきって、ちょっと北欧テイストを入れた店内のデザインを考えてみる。
鮮やかなレモンイエローの壁紙にブルーの棚を設置。
そこにスパイスマサラを並べる。
中央部に置くショーケースは薄い木目の板でカバーして、試飲用の紙コップは白ではなく、壁紙と同じレモンイエローにする。
お客さんに商品を説明する永井さんと小倉さんはエプロンではなく、レモンイエローのシャツにデニムを着用、そしてデニム素材のキャップをかぶる。
 
うん、これ良くない?理子はノリノリで店内をデザインする。
よし、追い込みだと休日に事務所に来てまで作業していた。
自分の部屋にいると誘惑が多いのだ。
「なんだ、来てたのかよ」
 黒いスーツ姿の中野さんが作業フロアにやってきた。
「どうしたんですか?中野さん。スーツなんて着ちゃって」
「法事の帰り。ああ、あっつー」
 中野さんは背広を脱いで、ネクタイを緩めながらドカッと椅子に座る。
デスクの上にあるファイルで扇いで首元に風を送る。横目でちらりと理子のパソコン画面をのぞく。
「休日までご熱心ですねえ。手当が出るわけでもないのに」
ふざけた調子で中野さんが言った。
「勝ち取れって言ったのは中野さんじゃないですか」
「そんな事、俺言ったっけ?」
 中野さんはシャツを脱いでTシャツ一枚になり、尚もファイルで扇いでいる。 更にパンツのファスナーを下ろし始めた。
「ちょっと!何してるんですか!」
「何だよ、暑くて蒸れるからここで着替えて帰ろうと思ったんだよ」
 なんて無神経な男なのか。でも中野さんはこの行為がハラスメントである事なんて分からないし、指摘したところで理解できないのであろう。
「あっちで着替えてきて下さい!」
「そんな照れる事ないって。見たら惚れるよ?」
「私の前で下着姿になったら訴えますよ」
「何だよ、怖いなあ」
 中野さんは着替えを持って奥の会議室に向かっていった。
 全くもう。せっかく集中して作業していたのに。手伝うどころか邪魔してくれてどうしてくれるのだ。
ため息をつきながらパソコン画面を睨む理子の背後から「南仏っぽいな」と中野さんが声をかける。
「え?南仏?これ、北欧テイストなんですけど」
「また北欧かよ。好きだねえ、北欧が…」
 先ほどのスーツ姿とはうって変わってTシャツ、短パン姿になった中野さんはカバンからうなぎパイを取り出した。
「やる」
 うなぎパイを一つ理子に渡し、自分もむしるようにうなぎパイのビニール   の包装を開ける。
「うわ!うなぎパイ、久しぶりです。どうしたんですか?」
「実家からパクッて来た」
「え、中野さんの実家って浜松なんですか?」
「沼津だけど。普通にいつも家にあんのよ、静岡県民の家には。」
 中野さんはバリバリとうなぎパイをかじっている。
口元からパイのかけらがボロボロとこぼれて膝の上、膝の上からカーペットの上に落ちる。んもう、掃除機をかけるのは私なのに。
「ちょっと、中野さん、ティッシュ敷いて下さい、ティッシュ」
 理子はティッシュぺーパーを二枚引き出して中野の膝の上に敷いた。 
「ぐへへ。?夜のお菓子だからティッシュを使えってか?」
「はあ?」
 理子は中野さんのセクハラ発言に凍りついた。
 春華堂の『うなぎパイ』ほど誤解の多い地方銘菓はないと理子は思う。
なんと言ってもキャッチコピーが『夜のお菓子』なのだ。
加えて「精がつく」象徴の「うなぎ」の形状をしているし。
でも、中野さんがくれたうなぎパイは袋の中で三等分に折れていた。
理子は袋を開けて折れたパイを一つ取り出す。
「ごめんね、中で折れてて」
中野さんがニヤついた顔で理子に言う。またかよと理子は鋭いため息をついた。
「死んで下さい」
「ヘッヘ」
 理子はかけたパイをこぼれないようい口の中に運ぶ。甘さの中にどこかピリッとした引き締まった刺激を感じる。これはガーリックだ。ガーリックのタレを表面に塗っているところに、他のパイ菓子との明確な違いがある。
 
 それにしても「うなぎ」「ガーリック」ときて「夜のお菓子」それはそれは誤解される訳だと理子はパイを噛みしめる。口の中でグラニュー糖のざらつきを感じる。
 このグラニュー糖を噛んだ時のプツンとした硬さが口の中でホロホロと崩れるパイ生地に食感のアクセントを加えて楽しい気分にさせてくれる。
 
  ああ、これはコーヒーが飲みたくなる。
 理子はキッチンに行き、午前中にコーヒーメーカーにセットしてそのままにしていた残りをカップに入れる。
立ったまま一口、口にする。煮詰まっているが、その煮詰まっているコーヒーの味も理子は嫌いではない。疲れている時や眠い時には淹れたてのコーヒーより煮詰まっているコーヒーの方がなぜか体に滲みるのだ。
 
 中野さんの近くに行きたくないので、立ったままキッチンでうなぎパイとコーヒーを味わう。袋の中に残ったうなぎパイのかけらを手にすると、砕けたハートに見えなくもない。
コンペに向けて自分のテンションは高いと思っていたが、忙しさと慣れない仕事に複雑な人間関係にハラスメント。そして今回のこのコンペで勝てるかどうか、そのプレッシャー。理子の心は砕ける寸前だった。
「おーい、理子ちゃん、俺にもコーヒー」
 理子は中野さんの言葉を無視してコーヒーをすすりながらパイをかじる。
沢山のパイ生地の層で出来上がったうなぎパイを理子は見つめる。層の数は数千層もあるのだ。それはなんと機械ではなく手で伸ばして作られる。
このパイ生地を作れる職人は春華堂でも限られた人しかいない。十年もの鍛錬を必要とする師範制度があるのだ。
そんな職人技の結晶であるうなぎパイが、中野さんのような低俗な人達の下ネタに使われるのはなんて悲しいのだろう。自分がここでの仕事がうまくいかなかったら、うなぎパイ職人に弟子入りしようかな。
きっとこんな雑念から無縁の尊い仕事であろう。毎日、バターの焦げる匂いやパイが焼ける甘い香ばしい匂いに包まれる仕事。それも素敵だ。理子はうなぎパイを味わう事に集中する。 
「こちゃん!」
「へ?」
 理子は振り返ると中野が真横に立っている。
「だからコーヒー!」
「もう、自分で淹れてください。今日は休日なので私は雑用はしません」
「なんだよ。仕事しにわざわざ事務所まで来てるのに。仕事を選ぶんですねー!
生意気ですことー」
 理子は中野さんを無視して自分のデスクに戻った。
「なんだよ、生理?」
「なっ」
 理子の顔がカッと熱くなった。 
 歪んだ理子の表情にプッと吹き出した中野さんが更にニヤケ顔で続ける。
「それとも仕事ばっかりして欲求不満?あ、俺のうなぎパイ食べて興奮しちゃった?」
「い…」
 理子は全身が怒りで震えだした。今まで生きてきて怒りで体が震えた事はなかった。
「いい加減にして下さい!!!」
 理子は叫んだ。喉の奥が熱い。

「もう、うんざりなんですよ!中野さんの下ネタとセクハラ!毎日、毎日!地獄なんですよ!」
中野さんは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして理子を見つめている。
「小さいデザイン事務所なことをいいことに言いたい放題で。中野さんが私に言ってきた事、やってきた事は普通の会社だったら処分させられますよ!」
「んもう、カリカリすんなよ、生理だからって」
「だから違いますってば!今度セクハラ発言したら、告訴します!法的手段に出ま
す!」
 理子は絶叫する。そんな理子を中野さんは腕組みをしながら観察するように見て真顔で言った。
「あれだな。うなぎパイ食べて、精力があり余っちゃったんだな。さすがはマムシパワーだな」
中野さんは理子の魂からの怒りを全く理解できていないようだった。
「んもおおおお!」
 理子の血管はぶちギレそうになった。「頭から湯気が出る」という慣用句を今、体感していた。
と、頭が水蒸気爆発をおこしたようなその瞬間、スッと頭部が冷たいもので撫でられた感覚に陥る。
「あ」
理子は急いでパソコン画面に向かった。そして北欧テイストの店内デザインを全て削除する。
「あー」
 中野さんが理子のその行為に驚いた。
「なんだよ、頭おかしくなっちゃった?」
「中野さん、お手柄です!」
「あ?」
「中野さんのクソどうしようもないセクハラが役に立ちました!」
 さっきまで怒り心頭だった理子は笑顔でパソコン画面に向かった。

(↓他にこんなものを書いてます)


この記事が参加している募集

ご当地グルメ

私のコーヒー時間

うまい棒とファミチキ買います