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帰郷。

砂利を踏みしめて楓の並木道を行くと、
その先に私の生まれた家はあった。
黒い板塀の日本家屋。
ずっしりとした入母屋屋根の灰色瓦が迫る。
 しんとした赤御影の玄関を入るとすぐに、
二十畳ほどの居間があった。
欅の一枚板の座卓の上に、
無造作に花梨の花が放ってある。
誰かが庭から手折ってきたのだろうか。
花びらは生気を失っていない。
どうやら摘んできたばかりらしい。
花梨を手に取り眺めながら、
居間から続く廊下を歩く。
大きな掃き出し窓の向こうには、緑溢れる庭。
躑躅の蕾が紅色に膨らんでいる様が、
室内からも見てとれた。
躑躅の植え込みの脇には、
几帳面なほどにまっすぐな柱。
鯉のぼりが高く高く泳いでいる。
鯉のぼりは、その大きな丸い口の中に風を通し、
はためいていた。
時折、ずばん、と尾ひれを打ち鳴らす音がする。
興味深げな燕たちが遠巻きに飛び交う。
それにしてもどうして誰もいないのだろう。
午後二時をまわったあたり。
いつもなら誰かしらいるはずの時間なのだが。


 この廊下が秘密の裏部屋に通じているということを知ったのは、偶然だった。
自分の家の中にこんな隠し部屋があったことに
たいそう驚いた。
家族も皆、知っていたのだろうか。
黴臭く湿った隠し部屋は、埃だらけだった。
蜘蛛の巣が幾重にも張っている。
ドアを入ってすぐの右手に木目の学習机がある。
部屋の奥の窓の前には
大きなお茶箱が二段、積んである。
中には何が入っているのやら、見当もつかない。
いや、待てよ。
ここは本当に私の家なのだろうか。
よく考えたら、手にしていた花梨にも覚えがない。
ここにいる私は何者なのだろう。
唐突に私は自分が自分である確信が持てなくなり、
掌を何度も裏返してみた。
再び廊下へ出て、窓硝子に自分の顔を映してみる。
目も鼻も見覚えがある。
いつもの自分だ。
耳はどうだ。頭の上の左右に
三角形の白い毛むくじゃらの耳がピンと立ち、
外の世界の音を敏感に聞こうとしている。
頬を撫でると、横に突き出した長い髭が
ここで起きている事を掴み取ろうとして
小刻みに揺れていた。

「ゆきちゃんなの?」
後ろを振り向くと、紅い花柄のエプロンをした母が立っていた。
「ゆきちゃん、帰ってきてくれたのね。
どこに行っていたの。お母さん心配したのよ。
もうどこへも行かないで。
お母さんのそばにずっといてちょうだい。」
母は私を片手で抱きあげると頬ずりをした。
化粧と薄荷飴の匂い。
私は思い出した。
この埃だらけの部屋は、かつて私の部屋だった。
あのお茶箱の中には、私が着ていた服や大切にしていた絵本、玩具、落書きをしたスケッチブックなどが収められている筈だ。家族で出掛ける時によく身につけていたハンチングは私のお気に入りで、父から誕生日に贈られたものだった。型崩れしないようにと、まこと屋のクッキーの缶に入れておいたのだ。その缶もおそらくあのお茶箱の中で眠っているに違いない。
机の脇に掛けられた手提げが視界に入る。
今の私には文字はよく読めないが、見たことのある
名札がついていた。
「ゆきちゃん、もうこの部屋には入らないでね。
お母さん、悲しくなるから。
さあ、おやつにしましょうね。」
母は赤ん坊を抱くように、私をやんわりと包み込んだ。廊下に落としたままの花梨の花びらが、干からびて散っている。母の右の手のひらが私の背中の毛並みを整えると、喉がころころと自然に鳴ってしまう。
ゆき。
私は父と母にそう呼ばれていた。
最初に通ってきた居間の片隅に、
白檀の位牌と男の子の古い写真が飾られていた。
あの写真は私だったのだ。
皺の刻まれた母の手はどこまでも優しく、どんなに年月が経とうとも、私はこの手の感触を忘れてはいなかった。
母に抱かれたまま、だだっ広い居間に戻った。
「お父さんにもご挨拶しましょうね。
ただいまって言うのよ。いい?ゆきちゃん。」
私の子供時代の写真の横には、年老いた父の写真が並んで置かれていた。
私はひと声、
みゃあ。と小さく鳴いた。
私の前脚に母の涙が一粒、ぽたりと落ちた。
庭で風になびく鯉のぼりの影が、ちらちらと、
午後の居間の畳の上で踊っていた。
あれから五十年が経っていた。

fin.

*****

今年の深緑の季節に書いたきり、
下書きに眠らせていたものです。
今の季節感がなくて、申し訳ありません。
でも、今年中に出すことが出来て、
なんだかほっとしています。

この物語に出てくる日本家屋は、
何度も夢に出てきたものです。
夢の中で、たしかに自分の家だということはわかっているのですが、今まで存在を知らなかった奥の部屋や廊下があり、
『なんだ、こんなにいい部屋があるのじゃないか』と、うきうきと家の中を歩き回っていたのでした。
(夢の中で)
実際の自分の家や生家とは違っているのですが、
夢で見るたびに懐かしい気持ちになります。

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文章を書いて生きていきたい。 ✳︎ 紙媒体の本を創りたい。という目標があります。