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Re: 【小説】火の鳥に願いを

 その夜は火の鳥の群れがよく見えた。
 街灯やマンションの廊下、窓だとかの明かりに負けない強い光を放って飛んでいた。
 不安や孤独、疲労や倦怠、諦観、焦燥と言った名前の蟲が覆いつくして黒くなった空に月が穴を開けている。
 その蟲たちの隙間からどうにか星がこちらを伺っている。
 その間を縫うように飛ぶ火の鳥たち。
 さようなら、お元気で。
 星に願いを。
 それは償いか?それとも自身の安寧か?
 おれが願いと言うものに嫌悪感を持つようになってからどれくらい経っただろう。
 叶うとも叶わないとも知れないそれを考える事にも疲れた。願いだとか祈りだとかは余裕のある人間の行動だ。
 おれにその代償は払えない。
 金で買うそれは願いでも祈りでもない。単なる現実だ。
 火の鳥が落とす影を踏みながら歩道の端を歩く。
 すれ違う顔もまた疲弊している。
 お互いの影は長く伸びきっている。

「おかえり」
 久しぶりに顔を見た母親はやはり以前より老け込んでいた。
 祖母に似てきていると思う。
 革靴を脱いでリビングに向かうと父親がソファに座ったまま顔をこちらに向けて「おかえり」と言った。
 父親もやはり老けていたし、少し痩せていた。
「これ、お土産。少し早い誕生日と父の日のプレゼント。一緒にして悪いけど」
 タータンチェックの袋を突き出すと父親は手が伸ばした。
 老けた父親が伸ばしきった手を見たとき、手渡す事に一瞬の不安を覚えた。

 だが父親は思ったよりしっかりした手つきで受け取って袋を覗き込んだ。
 中身はいつも父親が飲んでいるものより少し高級なブランデーだ。
「うん、ありがとう」
 嬉しそうに笑う父親を見て、この程度の親孝行しかできなくて申し訳ない気持ちになったが、顔には出さなかった。
「あんまり飲み過ぎんなよ、たまには休刊日作らないと」
「でも眠れないんだ」
 父親が肩をすくめる。
「飲むから夜中に起きるんだよ」
「うん、考えておく」
 それでも嬉しそうに少し笑った父親は箱を袋から出して足元に置いた。
「飲まないの」
「うん、誕生日までとっておく」
 またひとつ歳を取る。
 それでも生きてるだけマシか。
「そっか」
「これはどういうやつなの」
 父親が再び袋を覗いた。
「前にあげたのは癖が強いって言ってたから、今回は普通のにした」
「そうか。あれも良かったけど、やっぱ癖が無いのがいいな」

 俺が立ったまま話しているのを見かねたのか母親は「とりあえず座れば」などと促す。
 エプロンで手を拭っている姿は見覚えがある。老けても変わらないものもある。
 きっと料理の味も変わらないのだろう。
 あと何回食えるのだろうか。
 老けていく両親を見たくない気持ちと、自分が末代であることの申し訳なさ、大した親孝行もできない情けなさなんかがぐるぐると渦を巻いた。



「まだ禁煙は続いているのか」
 雑談の得意ではない父親が質問を重ねる。
「ん、あぁ。まぁね」
「えらいな」
「うん」
 何年か前に禁煙するよと言ってから、こうして顔を出す度に小さな嘘を重ねるようになった。
 傷つけるつもりは無いし、騙している訳でも無いが少しだけ罪悪感を持つ。
「格闘技は続けてるのか」
「うん。でも減量がキツいから、もう試合とかはやらないけど」
「そうか。まぁ、いいんじゃないか。あれは痩せすぎだったからな」
 父親はいつもの安いブランデーをグラスに注いだ。製氷皿で作った四角い氷が派手な音を立ててひび割れていくのが見えた。
「柔道にしとけばよかったかな」
「そうしたら教えてやってたよ」
 父親が少し嬉しそうに笑った。
「肺がひとつしかないんだから無理しねぇでくれよな」
「お前も、格闘技やったりバイクに乗ったり、色々するのもいいけど気をつけてな」

 それは、と言いかけてやめた。
 外で買ってきた缶コーヒーを開けるて飲むと、薄い苦味が喉を下っていった。
 父親は買い置きの安いウイスキーをグラスに注いで舐める様に飲んでいる。
 昔の恨みつらみを老体にぶつけたところで解決する事は何もない。
 あの頃に自由が無かったとは言わない。
 それはおれにそれだけの力が無かっただけだ。単に今は誰かに縛られる事が無いから好きにしているだけだ。
 あの頃は派手な反抗期が無かった。
 その分、いまだにうっすらとした反抗期が続いているように思うし実際にそうなのだろう。
 数年前、父親に私服にケチをつけられてからはスーツしか着て行かなくなった。
 本当は煙草も辞めていない。
 枚挙に暇がない、実に小さく些細な反抗。
 成人してしばらく経つ人間が反抗と言うのも馬鹿馬鹿しい事だった。

 犯罪者にもならず、虚業にもつかず、それなりに労働に勤しんで過ごす。
 それだけで十分だろう、と思っていた。
 メディアを騒がせるような人物にもなっていない。
 だが両親に仕送りをして良い暮らしをさせられるほど稼いでもいない。
 時代も悪かったしヤル気も無かった。
 それでもどうにか就職して働いた。
 就職して家を出た時、父親が嬉々として俺に色々と家財を買い与えたのは、きっと大学生になる子どもにそうしたかったんだろうなと思う。
 俺は海外の大学に行った。
 頭が悪かった。
 とても国内の大学には通えない。だから英語だけを勉強して海外の大学に通わせて貰った。
 受けた恩の数分の一も返せていないだろうが、俺にできるのは精々がそれくらいだろうと思った。
 どうせ末代だ。
 せめて二人よりは長生きしてやる。

 だが俺は特に何も返せていないし返せる見込みもない。
 初任給で何か買った記憶も無いしそれで喜ぶとも思えない。
 いつか温泉旅行でもあげようか、と思って数年が経っている。
 夫婦間の具合も落ち着いてきたしそろそろだろうか。
 俺も一緒に行ってやるべきか。
 共に過ごす時間を少しでも持つ方が良いのかも知れない。

 母親の中で、俺の胃袋は相変わらず高校生の時のままで止まっていた。
 机の上には食べきれないほどの量の食事が載っていた。足りないと言わせたくない気持ちもわかる。
 もう食えないと言う気持ちもわかって欲しいが、頑張ってどうにか食べきると母親は嬉しそうな顔をして足りたかと訊いた。
「十分足りたよ」
「デザートもあるんだけど」
「少し、休ませて」
 そういうと母親は笑って食器を洗い始めた。

 金の入った封筒を渡すと男は中身を確認して頷き、それをポケットに捻じ込んだ。
「じゃあ、よろしくお願いします」
 俺は軽く頭を下げた。
「あとはお任せください」
 やや慇懃な態度で男も頭を下げた。
 俺は男が乗ってきたバンに両親を乗せた。

 二人はなにも分かっていないし、きっとこの瞬間の事も憶えていないだろう。
「ねえあんた、これは息子のところに行く車であってるのかい」
 バンの椅子に座った母親が慇懃な男にシートベルトをされながら俺に訊く。
「あぁ、そうだよ」
 俺は煙草を吸いながら答えた。
「そうかい。親切だねぇ、ありがとうねぇ」
「うん」
 母親の隣に座った父親が俺を睨む様に見ている。
 もしかしたら、いまは頭がはっきりしているのかも知れない。

 俺は男にいつになるか訊いた。
「そうですね、打ち上げは二日後の午後11時頃になると思います」
「ありがとうございます。では、重ね重ね、よろしくお願いいたします」
 スーツ姿以外の俺をもう覚えていないだろう両親がバンに乗って遠ざかっていった。
 バンのテールライトは弱々しく光っている。
 今夜も火の鳥が良く見える。
 あれは誰の親だろうか。
 呆けないで生きて欲しいと言う願いが、光の尾を引いて蟲が埋め尽くす空に消えていった。

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