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Re:【短編小説】桜

 暗闇でふたつの目がこちらを見ていた。
「眠れないんですか」
 おれは動揺を隠しながら訊いた。
「目を開けて夢を見ているんだよ」
 先輩のそれは本当にそう言ったのか寝言なのか分からなかった。

 夜中だ。
 発育不良の夜がバッカルコーンを開いて眠りを捕食する。
 真夜中育ちの民がそれを見ている。
 夜の金網を潜り抜けておれたちの柔らかい夢が千切られていく。
 福笑いのようにバラバラな街。
 または達磨落としで打ち抜かれた生活。
 置かれた場所で咲けない花が並んだ花屋の店先。
 公園のブランコを揺らす他人事の風。
 真夜中の街は別の顔をしている。
 

 スマホで時間を確かめる。
 ついでに覗いたインターネットで煌めく世界がおれたちを拒む。
 そう、おれたちは目を開けたままインターネットを見る。
 マンデルブロー集合を宇宙だと言う年代はとうに過ぎ去った。
 そこかしこにリタリンで笑えるトウが立った新人が立ち並ぶ。
 周回遅れのおれたち。
 デビュー前。つまり夜明け。
 一番美しい瞬間。
 おれたちは暖気運転をしたままその瞬間を逃した。
 先輩は優しいので笑う。
 おれはその胸で窒息したいと願う。

 おれたちが目を開けて見る夢は大抵が悪い夢だ。
「君には才能が無い。だからちょっと退いてくれないか。捨て駒になってくれないか。あの天才の代わりにトラックを運転して俺たちの生活を支えてくれないか。それだって立派な仕事だから。でもあの人がやるべき仕事じゃないと思うんだ」
 顔のない誰かが言ったんだ。
 それは鏡に写ったおれかも知れない。
 そうでなければ、社会だとかお前だとか、またはインターネット。
 いずれにせよ鏡だ。
 存在しないおれ自身がおれ自身に言う。


「それは本人がそう言ったんですか」
 おれはおれに訊いて確かめる。
「いや、でも適材適所と言うものがあるだろう」
 おれはおれを嗤う。
 おれは顔を背ける。
 顔を背けた先は闇だ。
 先輩は目を閉じて夢を見ている。
 おれはその夢を見ることができない。

 人生はワイヤレス紙風船だった。
 または後出しのフルーツバスケット。
 誰も何も言わない。
 赤紙、白羽の矢、獄長の髭。
 選ばれたやつから死ぬだけだ。
 
「何で私が東大に?」
「それはあなたが勉強をしたからだよ」
「何で私に招待状が?」
「それは君が政府と仕事をしたからだよ」
「何で私がトラック運転手に?」
「それはみんなの希望だよ」
 悪夢はまるっきり意味がない癖に足を引っ張る。
 粗悪なタンパク質のジャンクフードや読む価値のない小説に似ている。
 だがジェットコースターよりはマシだろう。目が醒めれば人生は少しだけ進んでいる。

 白んでいく空に浮かぶ残月が銀色に光る。
 その遥か上空にある群青の中で黒い星が流れていくけれど暗い宇宙では見えないから誰も気にしない。
 おれは先輩の隣で眠れずにいる。
 頭痛がする。
 先輩は眠っている。
 おれはそっと手を伸ばして胸を触る。
 窒息したい。
 だが現実は眠らない。
 おれは眠れない。
 おれの頭蓋でバッカルコーンが開く。銀色の玉が入って行く。リールが回る。悪趣味な走馬灯が回る。おれは歯ぎしりをしながら耐える。

 先輩。先輩。先輩。
 厭な記憶を上書きしていく。
 会話。キス。セックス。
 悪趣味な走馬灯を上書きしていく。
 または塗り潰すマークシート。
 再び始まる悪趣味な記憶の有馬記念。
 パドック。幼稚園。
 返し。保育園。
 子宮内。ゲートイン。

パァン!!
「いま各精子が一斉にスタートしました!
 各精子、綺麗なスタートです!
 1番白い精子は先頭に立ちました。7番白い精子は中段につけています。14番白い精子は後方待機、18番白い精子は外から徐々に順位を押し上げています。
 最初のコーナーを曲がって縦長の状態。
 長いストレート動きはありません。お互いに様子を見合っているのでしょうか。
 ここで順位の経過をお知らせします。
 先頭から順に1番白い精子、外に並んで7番白い精子、その後ろに9番白い精子、3精子離れて2番白い精子と10番白い精子、やや後方に4番白い精子とすぐ後ろに9番白い精子、そのうちに入ってきた18番、すぐ外側に13番と12番、3番5番6番、最後方は7番の白い精子が追っています。
 さぁそのまま第三コーナーを曲がって最後の直線に入りました。
 飛び出して逃げる1番白い精子!逃げ切れるか!この膣の坂は長いぞ!大外から飛んできた4番白い精子!1番白い精子逃げ切れるか!4番差せるか!伸びる!伸びる!いま並んでゴールイン!」
 勝ち精子投票券が宙を舞う。
 先輩の臍で溺れる精子たち。
 おれたちは繁殖しない。
 大した親じゃない人間たちの遺伝子を持って生まれたおれたちは大した親じゃない存在になって繁殖をしながら金網を掴んでサラブレッドを眺めている。

 違う、そうじゃない。
 おれたちは目を開けたままインターネットを見ては週末のフードコートにいるサラブレッドたちを恐れている。
 おれたちはサラブレッドに夢を見る。
 サラブレッドの夢を見る訳じゃない。
 目を開けたまま金網のこちらで夢を見ている。

 目を開けた先輩が言う。
「あの才能を持つ人が子どもを作らないなんて」
 勝って手を振る天才ジョッキー。
 大した親じゃない遺伝子のアンファンテリブル。
 おれたちの夢まで背負って走るサラブレッドの約束された斤量。
「きみ、何を言ってるの」
 先輩が形を変える前におれは目を閉じる。

 おれは逃げるように眠る。
 少なくとも死ぬよりは簡単だからだ。

 
 おれは何者にもなれずに生きることを受け入れた上で繁殖をしない反社会な動物だ
 大した親じゃない人間たちの遺伝子で構成されたおれたちは金網の中から豊かな緑を走るサラブレッドたちを眺めている。
 おれたちにとっての缶コーヒー1本分ほどの体重変化がオッズに多大な影響を与える。
「次の精子はどれが来るかな」
「デビュー戦なんてワカんねぇよ」
「それもそうだ」
 各精子のゲートイン。
 走れ!走れサラブレッド!
 月金の労働!土日にフードコートでハンバーガーを齧るのだ!
 走れサラブレッド!
 チノパンを履いてポロシャツを着て安いスニーカーで軽自動車を運転するんだ!
 貯金から逆算して使う食費。
 幸福!幸福!幸福!
 変化に富んだ日々の状態は良好!
 いや第三コーナーの先は稍重と出ている。
 金網のこちらで見ていた景色が目の前に広がる。

 光だ!光がそこにある!
 目を開けろ。目をあけろ!

 先輩の目が開く。
 朝。
 おれはその胸で窒息するように眠る。

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