Re: 【短編小説】虚無の祭壇
「喰わないのか」
タリビットが訊ねる。
たるんだ頬はシームレスに顎へと繋がり、その膨らみはかつて首と呼ばれた部位を通過して胸部へと接続されている。
「好きにしろよ」
オレはやっとの事で答えた。
タリビットは馬鹿にしたように鼻で笑うと、わざとらしく音を立ててハンバーガーを齧り炭酸飲料を吸い込んだ。
その音を聞きながらオレは机の上に並んだ虚無を見つめている。
今から金を払って食卓に並べられた虚無を食べる。
金を、払って、虚無を。
ゼロカロリー。
糖質オフ。
虚無。
かつては金を払ってでも得たかった栄養やカロリーを拒絶して机の上に並べている。
まるで虚無の祭壇だ。
「そいつは神に対する裏切りだな」
人体を作りたもうた神に対する、タリビットは口の端にマヨネーズとケチャップをつけたまま言う。
「緩慢な自殺よりはマシだろ」
飽食!なんて悪魔的な行為だ。
だが虚無は動物としての矛盾を孕んでいる。
健康への渇望や食欲との闘争をゼロカロリーの黒い砂糖水で流し込む。
いや、砂糖すら偽物だ。
「惨めだな」
タリビットは嗤う。
オレは蒟蒻を噛む。
負け犬の味だ。
かつてこの食卓にはカロリーが並んでいた。
炊き立ての白米は湯気を立てていた。
焼き立ての子持ちししゃもは肥っていて、出汁のきいた味噌汁や漬物、だし巻き卵があり、大根おろしにはしらすが添えられていた。
納豆には削りたての枯節と薬味が乗っていて、それは豪華な食卓だった。
だがその季節は過ぎ去っていった。
かつお節は枯節からパックになり、大根おろしからはしらすが消え、だし巻き卵や漬物は買った惣菜になり、味噌汁の出汁は顆粒になった。
子持ちししゃもは目刺しになり、白米は安くものになり炊けば割れてデンプン質の飛び出る粗悪なものになった。
物足りなさを安売りのツナ缶で補う日々が始まった。
ツナ缶に安くて味の薄いマヨネーズを開けて混ぜた。
七味で刺激を足した。
飲み込む様に油分の多い食事を食べた。
そして太った。
だから食卓から様々なものが消えた。
生きる上で必要なカロリーを制限しろと言われた。
「医者なんてのは悪魔と同じだぜ」
タリビットは嗤う。
口の端についたマヨネーズとケチャップをポテトで拭っている。
「白い服を着ているからか?」
オレは蒟蒻を噛む。
砂。灰。屈辱。
太ってからはは修行の様な日々が始まった。
他所の家の前を横切る時に換気扇から漂う匂いは涅槃だった。
だがそのカレーは、その唐揚げは、その炒め物は、その煮つけは、その全ては他の誰かの為に作られた匂いであってオレの為ではなかった。
オレの為に存在するカロリーなど無かった。
胃袋が激しい孤独を訴えた。
内容物と言う強敵を失った胃袋は泣いた。
肥満ゆえにヒトは悲しまねばならぬ。
肥満ゆえにヒトは苦しまねばならぬ。
こんなに悲しいのなら、こんなに苦しいのなら健康などいらぬ!
「そうだろ?馬鹿馬鹿しい。食えよ」
タリビットはピザをすすめる。
オレは首を振る。
無理なものは無理なのだ。
保険の為の健康診断。
それをクリアしなければならない。
体重。
体脂肪率。
BMI。
「どうせ死ぬのに保険なんか掛けてどうすんだ?」
「死ねれば問題無いからな」
タリビットはオレを気狂いのような目で見る。
馬鹿はどちらだろうな。
よりよい支払いの為によりよい生活を犠牲にしてゼロカロリーの液体を飲み、ゼロカロリーの固形物を食む。
悲しさと苦しさがこみあげる。
オレは机に並んだ虚無をタリビットの口に押し込んでから全ての皿が割れるまでタリビットを殴った。
「食いたいに決まってるだろう」
胃袋の慟哭に耐えきれなくなり黄色い看板の店を訪れた。
巨大などんぶりに盛られた野菜が鎮座している。
白米も子持ちししゃもも味噌汁も漬物もだし巻き卵も大根おろしも納豆もいらない。カラメと野菜、そして背油。
その下の麺などもはやどうでもいい。
そう、それこそが胃袋の強敵だった。
カウンターの上に置かれた空の器を伏せて、明日からの虚無を想像した。
そして少しだけ泣いた。
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