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「※あくまで個人の感想です」

予防線として書くのですが、私が書いている鬱病や不安障害、ASD特性持ちとしての生活は、あくまで私自身の体験に基づいた私自身の今現在での考え方・経験・事実であり、同じような疾患、特性をお持ちの方々の総意だと思って書いているわけではありません。

当たり前ですね。
各記事内でもほぼ毎回のように言っていますが。


誰かが悪いとか誰かを責めたいといかそういう意図で書いた記事もありません。
何かに対してレッテル貼りをしたいわけでもありません。
ステレオタイプを作ろうだなんて微塵も思っていません。

一定の悲哀や怒りといった感情は混ざっていますが、それは「私個人の考え方・経験・事実」を書くことで私の内側から感情が出てきた結果であり、他意はありません。

感情を全く入れない記事となると、それは専門的な説明や解説の記事なりますし、当然私は専門家ではないので専門的なことは書けないですし、というかインターネットで素人の持論記事を読むくらいなら専門家の話を沢山聞いたり読んだりして情報収集するのが良いと思っているので今後も書く気はないです。誰もそんなこと望んでないでしょうし。私自身含め。


でもインターネットで発信された記事を見て(インターネットに限りませんが)、一方的な視点に立って、ステレオタイプで考えて、レッテルを貼って、勝手に物事を受け止めたり感情的になったりあまつさえそれを大々的に発表するユーザーも沢山います。

発信者側もそれがウケると認識し、○○は××だと決めつけたような内容で記事を書いたり、過激なタイトルやサムネの動画を投稿したりする人も一定数います。


だから今更ですが予防線を張りました。
今後も恐らくずっとそんなスタンスです。よろしくお願いします。




以下、ちょっと話ずれます。
よくある話とそれに対する考え。おまけ程度に見て頂けると幸いです。

例えば、殺人事件のニュースを見て最初の報道で一方的に過激に被疑者を叩いたりとか。
「もしかしたらこの人が犯人なんじゃないか?」と妄想してそれが間違いないかのように見せかけて広めたりとか。
それを見た人が鵜呑みにして個人的正義を振りかざして口汚く罵ったりとか。
実際に被疑者がとんでもない自分勝手な殺人犯で極刑に処されるべき人間だったとしても、それを当事者や弁護士、警察関係者でもない外野が色々語るのって何かズレているよなと思ったり。

当事者以外がやんややんや話題にする意義ってなんだろう。

※勿論未解決事件の風化を防ぐために定期的に報道したり発信したり考えたりすること等は必要だと思うのでそういった類のものとは話が別です。


この世の中大小様々な出来事が起きているので、色々と例外はあるでしょうが、大まかには上記のように考えてしまいます。

殺人事件は大げさにしても、人間が噂話をし始めると外野が憶測で騒いだり叩いたりすることってよく起きるよな。
SNSのプチ炎上レベルでも起きるているもんな。というか騒がなければそもそも炎上なんてしていないか。

なんかそれって、こう、もやっとするんですよね。
うまく言語化できないけれど、なんか腑に落ちないというか。それって正解なの? という疑問がわくというか。正義は暴力の言い訳じゃねえぞというか。


ずっと自分の中で大切にしている考え方があります。
大学に入学した際、とある先生に一番最初に言われた言葉です。
それは「どんな情報もまず疑え」ということ。

他人の話は最初から信じるな。大学の先生の話も、教科書さえ鵜呑みにするな。一人だけの話を聞いて鵜呑みにしたり一冊だけの本を読んで鵜呑みにしたりするな。
まずは疑ってみろ、自分で情報収集して実験して真実を追求して、自分なりの結論を構築する努力を怠るな。自分で考えるということをし続けろ。

似たようなことを言われた人、結構世の中にいると思うのでそう珍しい言葉でもないと思うんですけど、本当にこれは大切にしないといけないぞと思っています。凄く納得したし。

勿論先生はあくまで「学問に対する姿勢」としてこのような話をしたのですが、このインターネット社会で情報収集したり発信している身としては、ずっと頭に入れておきたい考えです。



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