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物語の中で

「新潟の空気はヨーロッパの空気で、ル・レクチェはヨーロッパの味」

今月の7日~9日までの三日間、所用で新潟に居た。本当は帰って来てから一両日中には書き留めたかったのだが、とにかく、色々とあった。旅行記ではない。

長旅は一年に1,2回の頻度でしているが、今まででの長旅が可愛く感じる程に疲れた。猛暑も相まって色々と死にかけたような気がする。一番は帰る道中で衝突事故を起こしてバンパーが破損した事と、諸々の処理が終わった後、走りだそうとしたらタイヤがパンクした事かな。死人も怪我人も出ていないのが何よりだ。

相手方と自分との車両修理費など、合わせて80万ほどだった。幸い全額保健で降りる。運転をしていた母の恋人はちょうど今年本厄だったので、前日に交通安全祈願の御守りを買っておいたのだが。あったからこの程度で済んだのだと思っておこう。


引っ越しの予定は、11月の中頃になった。隣県ではないので住民票ごと移そうかなと思っている。なにかない限り、もうこっちに住む事はないだろうし。まあ元が単身世帯ではないので、ガスや電気はそのままでいいし、掃除もしなくていい。新聞は取ってないし、固定電話も契約してないからね、そんなに大変ではないと思う。むしろ向こうに着いてからの方が忙しいんじゃないかなあ。

母には勿論この事を伝えていたが、母の恋人にはすぐ伝えていなかった。ちょうど新潟に居た時、ホテルで母が伝えると事前に聞いていたので、何となくドキドキしていた。帰って来て、母の恋人と二人きりになった時「寂しくなるなあ」と言われた。なりますか? そうですか。

私の家庭環境は、傍から見れば全員家族に見えるだろうし、関係を知っている極々僅かの人達から見れば事実婚のような物に見えるだろうし、私から見れば彼は「父親の代理」でもあるし「母の気苦労の一番の原因」でもあるし「不倶戴天の敵」でもあるし「生計を支えていただいている人」でもある。

大らかで優しかった父と比べて彼は気難しい人で、口喧嘩ならごまんとしたが、直接肯定的な言葉を掛けられた事は、片手で数えるほどしかない。今でもそうで、否定されることは少なくなったが、おしゃべりする機会が増えた訳ではなくて、ただ何も言わなくなっただけだ。それでも、その片手で数えるほどしかない褒められた記憶が、とても嬉しかった覚えがある。

昔、何かの拍子に1度だけ「君は優しいから大丈夫」と言われた。どんな会話だったかは思い出せない。ただ、「父親に認められる」とはこういう感覚なのかなあと感じていた。彼との関係は、今が一番良い。ここでの呼び方を「不倫相手」から「恋人」に変えたのも、それなりに私の心境に変化があったからだ。

大きな喧嘩なんてもう何年もしてないし、お小言や嫌味も出ることは出るが、昔に比べたらかわいいもので… まあ、イラっとはくるけどね。兎に角、何らかの形で感謝を伝えたいなと思っている。


母の方は、私が家を離れると言ってから、よく話をしてくれる機会が増えた。不安なんだろうな。そうだよね、17年ずっと一緒に居て、いきなり三か月後に離れると聞かされたら、そうなるよね。

母に「大丈夫?」と聴くと「大丈夫だよ。大丈夫にならなきゃいけない」と言われた。そうだね、私もそう思う。恒常状態だった家の中が、一気に変わることになる。良いことだと思う。色々とあったけれど、今の母とは苦楽を共にした親友のような関係で、言葉で語らずとも分かり合えることがたくさんある。

この間、母が酔った際に、普段あまり聴く機会が無かったのでこの際ならと、私の出生の事について聴いてみると、案外すんなり教えてくれた。なんでも、まだ私を身ごもる前、父が余命を告げられた時に、もともと母は、一緒に死ぬ予定だったそうだ。それを父が断固として拒否し「俺の分身を残しておく」と言って作ったのが私だと言う。あら、そうなの。つまり、どうやら私は、母が死なないよう、母の為に父が残した分身らしい。確かに、母は1人だったら今頃この世に居ないかもしれない。しかしまあ死ぬ間際までぶれない人だな。

父は亡くなる前に「母のことを頼んだ」と言い遺して亡くなった。父との最後の記憶は、病室で言われたこの言葉だ。私はそれからずっと「母を支える」という物語の中で生きてきた。どうしようもない人達の前で、それを投げ出す事も出来たはずで、でもそれをしなかったのは、私の事を強く信じてくれた父に応えたかったのかもしれない。この物語なしには生きている自分が想像できないなあ。

本当に、ありがたい経験をさせて頂いたと思う。そのお陰で今の自分があると言えるし、精根尽き果てる事はあっても、人生の無意味さや退屈さで首をくくることは無かった。何より、私の中に幾ばくかの博愛的な精神を育んでくれたのは、他でもない父かもしれない。父の本当の狙いはこれだったのかな。いや、買い被りすぎか。いずれにしても、父の願った通りになった訳だ。

時々、この一連の境遇を「可哀想だね」と言われることがある。かなりナンセンスだと思う。親の身勝手で産まれてこさせられて可哀想だね、なのか、そんな親の元に産まれてきて可哀想だね、なのか、なんなのかは知らないが、子どもが不幸かどうかは、親が決めるべき事では無いし、決められる事ではない。もちろん、幸福かどうかも同様に。博徒と浮浪者と、何だかよく分からない人に育てられたが、結果として幸せな17年間だったと思う。

そう言えば、母が何か悲しい事があった時以外で泣いているところを見たことがない。私が旅立つ日、母は泣くのかなあ。その時は嬉しいのか悲しいのか、どっちなんでしょうね。前者だといいなと思っている。

まん丸で大きいでしょう? 3840gですって。この頃の元気は何処やら。今のように心が穢れていない時だ。