たいじん

【非僧非俗の空想坊主】 空想家、宗教家、自由業、世捨人、逃げ組、下等遊民、厨煮病、奇人…

たいじん

【非僧非俗の空想坊主】 空想家、宗教家、自由業、世捨人、逃げ組、下等遊民、厨煮病、奇人、変人、元クライマー、自転車愛好家、掃除好き、ミニマリスト、シンプリスト、チーパー、A(C)、負けず嫌いの平和主義、孤独を好む寂しん坊、破戒僧、乞食僧、愛煙家、酒呑み、 …的なヒト科のなにか

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  • 続々 しあわせます。

    私なりの『しあわせ』について、更に綴ってみました。 【幸福論】 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E8%AB%96

  • 続 しあわせます。

    私なりの『しあわせ』について、重ねて綴ってみました。 【幸福論】 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E8%AB%96

  • しあわせます。

    私なりの『しあわせ』について、綴ってみました。 【幸福論】 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E8%AB%96

  • うまくいかない

    人生が『うまくいかない』ことについて、自分なりの気づきや思うところを纏めてみました。

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いきづらさらぼ

人生の自由研究として『生きづらさ』をテーマに、日々想うところを散文的に綴っていくだけの、雑記のような書き物やなんやかんやにしてみようと思い、 それなりに書き溜ま…

たいじん
1年前
36

不孝の手紙

「孝」の字形は、老人の「老」の下に「子」を配したもので、子が老いた親を支えて孝養を尽くすことを表している。  親を大切にし、言いつけをよく守り、子としての道を尽…

たいじん
3時間前
2

末寺の末事 126

 つまり、門徒とは名ばかりの檀家制度です。  歴史的背景や文化的影響も鑑みて、過去にこの「家」を軸にしたシステムが上手く機能して運用されてきたことは事実ですが、…

たいじん
1日前
2

末寺の末事 125

 時代が変わっても人間は変わらない。って、本当にそうでしょうか?見方にもよると思うけど、時代が変わって人間も変わってるから、変わってないような気になってるだけじ…

たいじん
2日前
5

末寺の末事 124

 宗教やその信仰心に基づく生き方には、本来後ろめたさなどない。はず、きっと、たぶん、知らんけど。本当は後ろめたさしかないのかもしらん。そんなことどっちでもよくな…

たいじん
3日前
3

末寺の末事 123

 言うのはタダだから、思いつくままに有ったら良いなを挙げてみたが、先立つものはない。夢は夢。  それに、そもそも僕自身は、これからの信仰にハコモノは無用だと思っ…

たいじん
4日前
3

末寺の末事 122

 唐突に話題を変えるが、一大法要も終わって、決算も一応は大黒字。慰労会がまだだけど、それは適当にこなすとして。これからの寺の運営を考えて、欲しい物を列挙してみる…

たいじん
5日前
4

末寺の末事 121

 モヤモヤしたまま、そのまま生きていて、時々どうしようもなく、何とかしたくもなるけれど、やっぱり何ともならない自分が、そのままの自分で生きている。  奇妙で不思…

たいじん
6日前
2

末寺の末事 120

 勝ち組じゃなければ、生きている価値が無い世の中で、圧倒的に負け続けたりしたら、死ぬしかないよ、そりゃ。  勝つか負けるか二択の世界で生きるのはしんどい、という…

たいじん
7日前
4

末寺の末事 119

 死ぬ。そりゃ死ぬ。空しい。何も無い事には気付いてる、とっくの昔に。そこに自ら信じるものに由って満ち足りる世界がなければ、至極納得がいく。自ら死を選択しても何ら…

たいじん
8日前
3

末寺の末事 118

 逃避は解決策のひとつではある。かなり利己的ではあるが、場合によっては有効な手段と言える。しかし、重要なのは目的や意味だ。プロセスや目先の負荷・負担じゃない。 …

たいじん
9日前
5

末寺の末事 117

 煩わしいのに。何故に「つるむ」のか?  大人だからだ。とでも言いたいだろうか?  人間はひとりでは生きられないからか?  事情は各々色々あるのだろう。が、実際の…

たいじん
10日前
2

末寺の末事 116

 ジェンダーレスとか聞こえは良いが、問題に正面から対峙するのと、蓋をして見えなくするのとでは、意味がまるで違ってくる。  男女間だけではない。老若の世代間もそう…

たいじん
11日前
2

末寺の末事 115

 慰労会をどのようにするか、論点は、昔ながらの所謂「一杯飲み」形式の打ち上げではなく、世相に合わせて報告会程度の形で済ますのかどうかという事だったが、それよりも…

たいじん
12日前
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末寺の末事 114

 4月中には片付くのだろうか。およそ3年がかりで準備してきた法要行事だったので、終わって皆が帰ったら、台風一過の晴れ晴れとした心持ち…というような具合にもいかず、…

たいじん
13日前
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末寺の末事 113

 投稿はほぼ毎日続けてるけど、大仕事も終わって後片付けに翻弄され、日常ペースに戻った実感も乏しく、書くことが行き詰まっていた。  一世一代の大きな法要行事に忙殺…

たいじん
2週間前
3
固定された記事

いきづらさらぼ

人生の自由研究として『生きづらさ』をテーマに、日々想うところを散文的に綴っていくだけの、雑記のような書き物やなんやかんやにしてみようと思い、 それなりに書き溜まったなら、それとなく整理して分類するつもりなので、結果的に、いつか誰かの『生きづらさ』が、少しでもフッと楽になる為に、適当な読み物やなんやかんやなんかに、なってしまえば本望オーライ…、 と、いうのは詭弁で、要するに、自分用の思考整理と覚え書き的な意味の方が多分にあって、自己満足の萌えカスの掃き溜めやなんやかんやに、

不孝の手紙

「孝」の字形は、老人の「老」の下に「子」を配したもので、子が老いた親を支えて孝養を尽くすことを表している。  親を大切にし、言いつけをよく守り、子としての道を尽くすこと、親の追善供養や喪に服すことも意味する。   中国儒教において「孝悌忠信」の四つの徳目は、真心を尽くし、誠意をもって、父母や兄など、年長者に敬意を表し、従順に仕えること、兄弟や長幼の間の情誼がこまやかであること等を説く道徳的概念として重視された。  中国には「不孝有三、無後為大」という言葉があり、親の意向に

末寺の末事 126

 つまり、門徒とは名ばかりの檀家制度です。  歴史的背景や文化的影響も鑑みて、過去にこの「家」を軸にしたシステムが上手く機能して運用されてきたことは事実ですが、それがまた一方では、僧俗ともに意識的な鈍化に繋がった原因でもあるのではないか、とも思ったりもします。  「家」というのは、現代における「家庭・家族」ではなく、「家父長制」のことです。  時代は容赦なく変わりました。今の日本では「家」は機能していません。なのに仕組みだけはそのまま続けるって無理があります。  盛り

末寺の末事 125

 時代が変わっても人間は変わらない。って、本当にそうでしょうか?見方にもよると思うけど、時代が変わって人間も変わってるから、変わってないような気になってるだけじゃないでしょうか?  日本の多くの寺院や宗教団体が、その信者に支えられ護持されて運営しているわけですが、浄土真宗に於いては、その信者を信心の行者、同門の信心の宗徒、門(信)徒「もんと」と位置付け、建前的にではあるけれど、理論上は僧俗の垣根が最も低い宗教団体なんだと思います。  が、これはあくまで捉え方で、実質的に現代

末寺の末事 124

 宗教やその信仰心に基づく生き方には、本来後ろめたさなどない。はず、きっと、たぶん、知らんけど。本当は後ろめたさしかないのかもしらん。そんなことどっちでもよくなるのかもしらん。  まあ何れにせよ、僕は信仰のうえで夢を語らねばならない立場、末寺の住職。たとえ滅び行く過疎集落の何の取り柄もないちっぽけな末端寺院であったとしても、何もしないで廃寺を待つしかありません、とは門徒さんの前で口が裂けても言えません。だいたい口が裂けたら痛くて喋れません。それに門徒さんの前で坊さんの口が裂け

末寺の末事 123

 言うのはタダだから、思いつくままに有ったら良いなを挙げてみたが、先立つものはない。夢は夢。  それに、そもそも僕自身は、これからの信仰にハコモノは無用だと思っている。寺や境内、仏具その他諸々の備品による信仰教化効果を、否定する気はサラサラない。特に過去に於いては効果的であったと思う。問題視するのは、あくまでもこれから。  護寺維持能力は老化の一途を辿る。衰退、廃退は必至必定。これからとは末事のことだ。どのように始末を付けるのか。  どうせ失くなるなら、何もしない。という

末寺の末事 122

 唐突に話題を変えるが、一大法要も終わって、決算も一応は大黒字。慰労会がまだだけど、それは適当にこなすとして。これからの寺の運営を考えて、欲しい物を列挙してみる。  先ずは今回の法要でも悩みの種だったのが、駐車場とトイレの少なさ。大勢の参拝に対応できない。普段お参りが少ないから放置してきたけど、何かあると対応できない。駐車場は寺の周辺が空き地になる(過疎化)のを待つしかないが、トイレは洋式個室が3つくらいは欲しい。  それと門徒さんの高齢化に合わせて、本堂への動線の段差解

末寺の末事 121

 モヤモヤしたまま、そのまま生きていて、時々どうしようもなく、何とかしたくもなるけれど、やっぱり何ともならない自分が、そのままの自分で生きている。  奇妙で不思議な感覚だけど、これ以上の幸福が存在し得ないのだと納得してしまう。だから何だと言われても困ってしまうんですが、不安がそのまま安心に転じている感覚がある。やっぱりそうだろ、予定調和。  進むべき方向にしか進まない。流れは誰にも止められない。むしろ動きは感じない。いつもと同じ。どこか納得して安心しきってない?  最近

末寺の末事 120

 勝ち組じゃなければ、生きている価値が無い世の中で、圧倒的に負け続けたりしたら、死ぬしかないよ、そりゃ。  勝つか負けるか二択の世界で生きるのはしんどい、というか無理がある。勝ち続けてる人もやがては負けるんだから。勝ち続けるなんてのは、壮絶な負けっぷりの前フリでしかない一瞬の快楽。  よく死の選択を、現実逃避的に捉えられる事があるけど、あれはちょっと違う気がする。  現実に生きている(勝っている、価値がある)人が死を選択したのなら、現実から逃げたのだろうけど、現実で死んで

末寺の末事 119

 死ぬ。そりゃ死ぬ。空しい。何も無い事には気付いてる、とっくの昔に。そこに自ら信じるものに由って満ち足りる世界がなければ、至極納得がいく。自ら死を選択しても何ら不思議は無い。  家族はある。けど、本質的には他人であって家族ではない。同じ家屋に住んで生活を共にしたら家族というのは、もはや使い古した文化。単なる同居人であり、ひとつ屋根の下で暮らしても、生活も重ならない。無論、心もまた重ならない。  寺参りをされる方ではなかった。仏法聴聞が圧倒的に不足している。種は蒔かれていた

末寺の末事 118

 逃避は解決策のひとつではある。かなり利己的ではあるが、場合によっては有効な手段と言える。しかし、重要なのは目的や意味だ。プロセスや目先の負荷・負担じゃない。  少なくとも、守りたいものがあったり、その大切な誰かや何かに、伝えたい、遺したいものがあるなら、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ…。  でも、だいたい逃げてきた結果が歴史には遺されている。命には限りがあることを知って、現実に全力で磨耗していく人は意外と少ない。「今を生きる」とかをテーマ

末寺の末事 117

 煩わしいのに。何故に「つるむ」のか?  大人だからだ。とでも言いたいだろうか?  人間はひとりでは生きられないからか?  事情は各々色々あるのだろう。が、実際のところは何となく程度の理由しかないのかもしれない。親がそうしてたから、とか、田舎だから、とか、寂しいから、とかとか、浅い意味で何かしらの畏敬の念みたいなものに動かされていて、それは別に善いとか悪いということではないけれど、深い思慮からの自発的行動による「つるむ」ではないことは明白だ。  ここにも既に主義化した共同体

末寺の末事 116

 ジェンダーレスとか聞こえは良いが、問題に正面から対峙するのと、蓋をして見えなくするのとでは、意味がまるで違ってくる。  男女間だけではない。老若の世代間もそう。生活、職業、知識量や肉体的な差異などもまた ギャップは必然。そこをどう埋めるべきかとなった時に、往々にして蓋をしてきた。田舎は特に封建的権威を振りかざしてきた。  しかし、モラルという武器を手に入れた民主的主義的主義なんかが、今、そのウヤムヤにしてきたツケを請求している。当事者ではない我々に。  問題は、やっぱ

末寺の末事 115

 慰労会をどのようにするか、論点は、昔ながらの所謂「一杯飲み」形式の打ち上げではなく、世相に合わせて報告会程度の形で済ますのかどうかという事だったが、それよりも心に引っ掛かったのは、役員や世話役全員参加にするより、婦人会と分けた方が良いという意見があったことだった。  解る。現代の田舎「ならでは」の感覚だろう。女性の社会性が高まり、男性の封建的権力の著しく衰退した結果。昔ながらの「しきたり」や「風習」は形が合わない。でも、それ以外の形も思い付かない。  要するに、男性側の

末寺の末事 114

 4月中には片付くのだろうか。およそ3年がかりで準備してきた法要行事だったので、終わって皆が帰ったら、台風一過の晴れ晴れとした心持ち…というような具合にもいかず、竜巻が通り過ぎた後の残骸処理に翻弄されている。  早く新しいことに取り掛かりたい焦りも手伝って、何なら体力的には事前よりも疲弊している感じがする。  落ち着け、自分。今は自由だ。自らの信じるところに由って満ち足りている。あとは為すべきことを為すべきだ。  ゴチャゴチャしたアイディアをひとつひとつ形にしていきたいが

末寺の末事 113

 投稿はほぼ毎日続けてるけど、大仕事も終わって後片付けに翻弄され、日常ペースに戻った実感も乏しく、書くことが行き詰まっていた。  一世一代の大きな法要行事に忙殺され、煩悶としている間に書き溜めたモノを、ただ規則的に吐き出しているだけの作業になっていて、noteで他人様の記事を読む行為すら、心のうえを滑ってゆく流し読みみたいになってしまっていて、勿体無い。  インプットとアウトプットのバランスも体調も生活リズムも、グサグサに乱されて、なかなか戻れないのだが、進みたい方向が見え