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文化の資本(前)

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4.5 文化の資本

「星を所有することはできるのでしょうか?」
「それは誰のものだね?」と、ビジネスマンは憤慨して言い返した。
「わからない。誰のものでもありません。」
「それなら私のものです。そうしようと思ったのは私が最初だからね。」
                  —『星の王子さま』

文化資本とは、言語、芸術、物語、音楽、アイデアなど、人間の心の産物が蓄積されたものを指します。それらが所有権の有効な対象とみなされるようになったのは最近のことであり、専門家によって大衆の消費のために生産されるようになったのも最近のことです。

狩猟採集時代には、芸術や音楽の分野で卓越した才能を持つ人もいたでしょうが、「芸術家」や「音楽家」という独立したカテゴリーが存在しなかったのは、誰もがその両方を兼ね備えていたからです。歌うこと、楽器を演奏すること、踊ること、絵を描くこと、環境にある素材から美しい物を作ることは、歩くこと、話すこと、遊ぶことと同じくらい、人間として自然なことなのです。このような能力の萎縮は、新石器時代に分業の到来とともに始まり、産業革命によって分業が進むにつれて加速し、それとともに大量生産の代用品で置き換える手段も生み出しました。

音楽の例を見てみましょう。蓄音機が発明される以前は、どんな社交の場でも楽器を演奏したり歌を歌ったりしていました。人々はいつも歌っていました。「歌えない」人は(おそらくひどい音痴の人を除いて)誰もいませんでした。ペンシルベニア州中部に現存するビクトリア様式の大邸宅で、もしも1880年に晩餐会に出席したなら、夕食後は皆でピアノ・パーラーに席を移し、歌をうたったことでしょう。その時代の人々は働くときも遊ぶときも歌い、仲間が集まればキャンプファイヤーを囲んで歌い、独りのときも集まりのときも歌い、祖国の伝統的な歌をうたい、北米のフォークソングを歌いました。しかし、蓄音機が登場し、ラジオが登場し、そしてついに電子機器が爆発的に普及し、今では録音された音楽がどこにでもあるようになると、一般人の歌う能力は長い間にわたって徐々に衰退し始めました。なぜって? もう必要ないからです。録音された音楽を買うとき、本質的には誰かにお金を払って歌ってもらうのであり、かつては人間であることの一部でしかなかった営みにお金を払っているのです。人々が自分のためにすることを見つけ、その代わりにお金を払うように丸め込むという、永久不滅の商売のアイデアを覚えているでしょうか? まさにそれが、録音された音楽で起きたことだったのです。人々を魅了したのは、その目新しさと、国中で最も優れた歌手やミュージシャンの演奏を聴くことができるという事実でした。以前なら、家族や町で最高の歌い手というところで満足するしかなかったのですから。録音に比べれば、自分たちの声があまり良いとは聞こえなくなり、自分たちは劣っていると確信するようになりました。

とはいえ、歌の衰退には非常に長い時間がかかりました。比較的最近の1940年代のことですが、セントルイス郊外に住んでいた私の父は、夏になると近所の人たちと毎週集まってピクニックをし、古い歌をうたったのを覚えています。地域社会の崩壊が一般化した今では、このような近所の集まりは珍しくなっていて、そのような集まりが開かれる場合でさえ、歌うことはほとんどありません。半世紀前の大学では、学生たちはパーティやフットボールの試合で大学の校歌を歌ったり、誰かがキャンパスの芝生にギターを持ってきて、みんなで集まって歌ったりしていました。いま学生たちは録音された音楽を聴きます(それも大音量で、音の壁の向こうの世界から自分を遮断して)[7]。1970年代になると、まだ歌っているのは子供たちだけでした。子供たちは歌が日常生活の一部となっている唯一の人々でした。小学校のスクールバスの中で、乗っていた全員が、学校へ行く間ずっと歌っていたことがあったのを覚えています。しかし、高校になるとそのような行動はなくなり、私たちは歌うことから卒業しました。私たちは(演奏としてではなく)ただ楽しむために歌うことから卒業したのです。なんと悲しいことでしょう。今ではバスの中で歌うのはおそらく規則違反です。

生まれ持った音楽性の名残は今も残っていて、音楽好きの仲間が集まってジャムセッションをしたりします。このような活動は、私たちの文化的、社会的、そして魂の資本を力強く再生するものです。しかし、概して言えば、音楽は有料の活動、つまり商品になってしまいました。

物語を話すことでも非常によく似たことが起きています。テレビは伝統的な物語だけでなく、家族の物語や地域の物語にも取って代わりました。良い話を紡ぎ出すことのできる昔ながらの語り部は、最近では珍しくなり、語り部の話が聞けるような場所や機会もまた稀なものになりました。その代わりに、テレビや映画の消費を通じて、私たちは遠くにいる専門家たちにお金を払い、私たちのための物語を制作してもらっているのです。重要なのは、今ではこのような物語の制作者が所有権を持つようになったことで、前代未聞の展開です。人類史の大部分で、物語を我がものにできるなどとは誰も想像していませんでした。物語は、単に所有の対象とは考えられないものだっただけでなく、それぞれの文化において莫大な共有財産を成していました。現在、ディズニーのような企業はその共有財産を採掘し、その一部を自分のために囲い込み、お金に換えています。

文化資本が蝕まれることと関係しているのが、休日の習慣や宗教的伝統が空洞化し商品化されることです。クリスマスを皮切りに、私たちの休日は一つまた一つと物を買うことに落とし込まれ、それぞれが利益の源泉となっています。バレンタインデーにはチョコレートと花を買い、イースターにはキャンディーを買い、7月4日[アメリカ独立記念日]には爆竹を買い、ハロウィーンには衣装を買います(昨年、手作りの衣装を持っていたのはうちの子供たちだけでした)。クリスマスには、ありとあらゆる種類のプレゼントに加え、リースや飾り、クッキーを買います。そしてどんな祝日にもグリーティングカードを買います。レストラン・ビジネスの新たなトレンドは、美しく飾り付けられた感謝祭のディナーです。レストランのシェフに頼んだ方がずっと効率的なのに、なぜわざわざ家で作るのでしょう? 典型的な商売のアイデアをもう一度思い出してください。人々がまだ自分でやっていることを見つけ、代わりにそれを売り付けるのです。

文化資本の商品化が最近注目を集めるようになったのは、知的財産やサイバースペースにおけるコモンズの保護をめぐる論争が続いているためです。このような目に見えない所有の対象について議論する前に、財産とは実際に何を意味するのか検証してみましょう。機能の上では、財産とは、ある主体(個人または法人)がある物をある方法で使用する一定の排他的権利を有するという社会的合意にすぎません。このような権利は、その対象やそれが依って立つ社会によって異なります。たとえば、アメリカでは土地を所有すれば不法侵入を禁止する権利を与えられますが、スカンジナビアだとそうではありません[8]。商標権は、特定の商業目的で言葉を使用する独占的権利を与えます。例えば、ウォルマートは「いつも(Always)」という言葉を所有していると言えますが、それでも私はこの本でその言葉を使うことができます。ウォルマートの独占的権利は、特定の商業的文脈でそれを使用することにあります。

私はペンシルベニア州立大学の授業で、インターネットから著作権で保護された素材をダウンロードする生徒が何人いるか尋ねたことがあります。全員が手を挙げました。私は学生たちにこう言いました。「法律上の定義によれば、君たちは全員泥棒です。しかし、盗みには法的な要素だけでなく道徳的な要素もあります。では、法的な定義を別にすれば、泥棒をしたように感じる人、CDを万引きしたように感じる人は、何人いるでしょう?[9]」 こんどは一人の手も挙がりませんでした。

私はこう続けました。「では誰も泥棒のようには感じないのですね。レコード業界の言い分では、君たちが泥棒だと感じないのは道徳的あるいは倫理的に欠陥があるからだということになります。もしかしたら無知なのかもしれないし、単に悪人なのかもしれません。」

でもおそらく別の説明があるはずです。それは、MP3ファイルをダウンロードする大多数の若者の道徳的本能の方を信頼した説明です。私の学生たちが泥棒だと感じなかったのは、倫理観が欠けているからではなく、知的財産という概念そのものに問題があるからなのかもしれません。

著作権や特許の目的は、芸術家、音楽家、発明家といった創作者の利益を保護することだと、私たちは理解しています。しかし興味深いことに、合衆国憲法を起草した人々は、連邦議会に著作権や特許を制定する権限を与えた根拠として、むしろ別の理由を挙げています。その理由は、「科学と有用な芸術の進歩を促進するため、著作者と発明者に、それぞれの著作物と発見に対する排他的権利を限られた期間確保するため」というものでした。つまり、創作者が自分の作品から利益を得られることが社会的に有益だと考えたのです。でも彼らはアイデアを思いついた人がそれを「所有」すべきだと考えたのでしょうか? トーマス・ジェファーソンの言葉を引用しましょう。

「もし自然が、他の全てのものより独占的な所有権を持ちにくいものを作ったとしたら、それはアイデアと呼ばれる思考力の作用であって、それを個人が胸に秘めている限りは独占的に所有できるが、それが漏れるや否や、万人の所有物となることを余儀なくされ、受け取った者はそれを放棄することができない。その特異な特徴は、誰も他人より少なく所有することはないということでもあり、それは他の全ての者たちがその全体を所有しているからだ。私からアイデアを受け取る者は、私のアイデアを減らすことなく自ら教えを受けるのであり、自分のロウソクに火を灯す者が、私を暗くすることなく光を受けるのと同じである。人間の道徳的、相互的な指導と、人間の状態の改善のために、アイデアが地球上の人から人へと自由に広まるという性質は、自然が慈悲深く特別に設計したものだと思われ、自然がそれを作ったとき、火のように、どの点においても密度を下げることなく、空間の全てに広がるようにしたのであり、空気のように、私たちが呼吸し、その中を移動し、その中に肉体的存在を置いて、閉じ込めることも排他的に占有することもできないようにしたのである。したがって発明は本来、所有の対象にはなり得ない。」[10]

アイデアを所有することに対する建国者たちの懸念を反映して、合衆国憲法は特許と著作権を一定期間のみ有効と規定しています。初期の法律では確かに限定的な期間しか制定されていませんでした。著作権は14年間しか存続せず、その後14年だけ延長できました。現在、著作権は作者の全生涯に加えてさらに70年、企業著作権の場合はさらに95年間も存続します![11]

芸術家や発明家は、自分のアイデアを所有するのではなく、そのアイデアから利益を得るための独占的な、しかし非常に限定された権利を享受しているに過ぎないと考えられていました。この区別が貸出し図書館という制度に正当性を与えます。しかし現在この区別は崩れ去りました。映画のコピーを販売することが違法なだけではなく、コピーすること自体が違法なのです。かつての時代なら、学生たちの行為は違法でも倫理に反するものでもなかったでしょう。もし現在のような法制度の時代に本が発明されていたら、貸出し図書館は存在しなかったに違いありません。

特許や著作権に期限を設ける理由は、実用的なものであるとともに道徳的なものでもあります。実用的な面では、誰かが創作物に対してあまりにも長い間独占的な権利を持つと、その効果はイノベーションを促進するのではなく、阻害することになります。それは、芸術も音楽も技術も、それ自体の上に積み重なって作られるからです。その歴史は、絶え間ない借用と自己参照から成り立っています。芸術や音楽は、それらを取り巻く文化的環境から引き出されるものですが、その環境自体が一部は既に流布るふしている芸術や音楽で構成されています。今日、知的財産法のせいで、多くの種類の芸術表現は基本的に違法となります。例えば、デジタル時代で可能になったのは、音楽や映画を再編集したり、新しい素材を織り込んだり、数え切れないほどの方法で操作すること、つまりそれ自体を連綿と続く創造の素材として使うことです。パソコンの所有者であれば誰でも技術的には可能ですが、莫大な資本がなければ権利を購入することは法的に不可能です。

より一般的には、文化が私有財産である場合、文化を利用した芸術的創造は、権利侵害をするか、さもなければ厳しく制限されねばなりません。文化空間の所有権化、つまり文化的コモンズの囲い込みが完全になれば、許可を得ずに芸術を創作することは一切不可能になります。ローレンス・レッシグが著書『コモンズ』で説明しているように、映画産業ではすでにこのようなことが起こっています[12]。

おっと! 極めて皮肉な展開ですが、レッシグの言葉を引用しようとした矢先、「この抜粋のいかなる部分も、出版社からの書面による許可なく複製または転載することを禁じます」という注意書きを目にしました。そのような許可を得る手間を省きたいので、代わりに言い換えてみます。レッシグは映画監督デイビス・グッゲンハイムの言葉を引用し、映画を製作する際にはその映画に含まれるすべての映像の権利を取得する必要があると述べます。背景に映ったポスター、Coke™の缶、家具(デザイナーが作ったため)、建物(そのイメージは建築家の所有かも)など、すべて著作権の許諾が必要かもしれません。やがて、映像の所有権化が全体に向かって進むにつれ、許可を得たもの以外、撮影できるものは何も残らなくなるでしょう[13]。グッゲンハイムによれば、映画の内容を決めるのに弁護士の発言権がますます大きくなるといいます。このような問題は、実際に裁判を引き起こしています。レッシグはいくつかの例を挙げます。映画『12モンキーズ』では、登場する椅子が自分のデザインした家具に似ていると作家が主張したため、公開が中断されました。『バットマン・フォーエバー』では、バットモービルが通り抜ける中庭の映像の代金を建築家が要求したことで公開が危ぶまれました。『ディアボロス/悪魔の扉』では、背景に現れたいくつかの彫刻を巡って訴訟が起きました。

ほらね、この書き方なら法律を犯すこともなく、レッシグ氏が今所有している一連の言葉に対する財産権を侵害することもないと思います。でも簡単ではありませんでした。最も的確な表現はレッシグ氏自身が採用したものだったからです。同じように、映画製作者はパブリックドメインの映像だけを使うようにすることもできますが、現代の生活は所有権で守られた領域で営まれているので、ある種の感情を表現するのは難しくなります。例えば、マクドナルドは強力な文化的シンボルであり、それに代わるものはありません。映画制作者は限られた映像素材で妥協しなければならず、私がローレンス・レッシグの言い換えをする際に語句の素材を減らすことで妥協しなければならなかったのと同じことです。

後半につづく


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注:
[7] エール大学には昔の面影がいくらか残っており、学生たちは今でも大学付属のプライベートクラブ、モーリーズに集まり、そこで古い歌をうたう。しかし、そのような行動は例外的である。
[8] 例えば、スウェーデンでは、自然享受権(Allemansrätt、アッレマンスレット)という権利により、個人が私有地(ただし、住居の近くではない)を散歩したり、花を摘んだり、1~2日キャンプしたり、泳いだり、スキーをしたりすることが認められている。
[9] 最近、この質問をクラスでしたところ、万引きにも罪悪感を全く感じない生徒が意外に多いことに困惑した。この点に留意しながら知的財産に関する議論を読んでほしい。はたして彼らは無意識のレベルで「所有は窃盗である」と認識しているのだろうか?
[10] ***. これは広く引用されている。
[11] これは1998年に可決され、2003年に最高裁が支持した著作権保護期間延長法の条項である。折しも、ミッキーマウスなどの象徴的なキャラクターがパブリックドメインになろうとしていた。
[12] ローレンス・レッシグ [Lawrence Lessig,] The Future of Ideas, Random House, 2001(邦訳『コモンズ ―ネット上の所有権強化は技術革新を殺す』山形浩生訳 翔泳社、2002年), 抜粋はhttp://cyberlaw.stanford.edu/future/excerpts/.
[13] 商業施設の店先やニューヨークのスカイラインのようなイメージも独占所有物だと読んだことがある。人間の世界では、それが風景全体を覆っている。自然の景観がますます農作物や家畜など独占所有品種に傾いていくにつれ、都市部以外の景観にも権利の許諾が必要になるかもしれないと私は想像している。


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-4-05/

2008 Charles Eisenstein


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