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1年ぐらい休職したおっさんの現在地

めっちゃ長いので、お付き合いいただける方はお手柔らかにお願いします!



休職への序章


そもそも僕は陰キャです。

基本、人とは距離を置くタイプです。そして石橋は叩いて渡るタイプです。優秀ではありません。客観的に見ても頭は図抜けて悪い方です。地方Fラン卒の学歴コンプの塊で、物覚えが悪いおっさんです。唯一の自慢は人よりタイピングが早いぐらいです(笑)

上記からご想像いただける通り、僕は初対面の人に対しては凄く警戒します。それでもよく喋ります。これは相手に悪いイメージを持たれたくないから、無理に喋ってます。だから喋ること自体は得意になりました。表面だけ僕を見知ってる人は勘違いする人もいます。これが自分なりの世渡り術だと思ってました(アダルトチルドレンじゃないかとも感じます)。

そんなことが通用しなくなったのが転職した去年の話。

新たな職場で、いろいろ聞かれたことにさも知ってるかのようにペラペラと喋ってたら上司や同僚から「アレを任せよう」「これもお願いします」と次々と渡されていきました。

仕事の束が目の前にドンと置かれ、僕は真っ青になりました。大量のドキュメントを渡されて、伴走なく自ら走りながら仕事をこなすスタイルは僕にとっては初めての出来事でした。むろん、僕の年齢を考えても新卒じゃあるまいしということで、至極当然の仕事の渡され方だと思います。僕自身、甘えてたんです。

これじゃいけないと奮起したわけですが、破滅は予見されていたかのように、2か月後。早くも首が回らなくなりました。渡された仕事が全然こなせません。

それまで周りに話しかけて、自分の渡された仕事はもちろんのこと、相手が何をやっているのか色々聞いて回りました。ところが何が何だか全然わからない。ドキュメントを読んでみても、何が書いてあるかちんぷんかんぷん。仕事全体のイメージが全くつかない。周りに聞きすぎて、さすがに周りも「さすがにyazuはおかしい」と思われてたでしょう。

僕史上最大数に聞いて回ってました。これが本当辛かった。聞いてる相手にも申し訳なかったし、何より自分の不甲斐なさも。

たまらず上司には何度か「もう少し地に足をつけて仕事をしたい」と相談していました。定型業務を通じて全体を把握し、そこから徐々に自分のエリアを広げていこうという自分なりのアプローチでした。

しかし、残念ながら僕に対する周りの期待値は(少なくとも僕が感じる上では)大きくて、大型プロジェクトに参画させられたり、障害時はいの一番の対応を任されたりと、未知のイベントが僕に降って沸いては何も対応できずにグルグルとドツボに入っていきました。

この部署は個人商店で仕事をするスタイルなんだな、と分かった時、自分に自信がない僕にとっては非常に苦しくなりました。

僕はなんて無力で出来ないヤツなんだと思うようになっていきました。何も理解できない自分に心底失望しました。



すがりたくてかけた電話

会社に行くまで電車でずっと寝て、気づいたら最寄り駅についていて、会社についたら必死に仕事をしようとし(何もできないんだけど)、昼休みになったら全ての緊張を吐き出して外のベンチで寝て、気づいたら昼休み終了でまたこなせない仕事に手を付ける。帰宅時もずっと電車で寝ている状態。気づいたら晩御飯も食べずに就寝。

「僕はダメなんだ、駄目なやつなんだ」とグルグル頭の中で自分を罵倒しつづけてました。

ある日、たまらず親戚に連絡しました。誰かに止めてほしかったんです。「もう休んでいいんだよ」という言質が欲しいがためだけに電話しました。

しかし親戚からは予想外の「辞めるな。耐えろ」

親戚は僕のキャリアのことを思って言ってくれたんだと思います。でも当時の僕は本当辛かった。自分が決断できず、誰か他人に縋りたくて、勝手に期待して連絡した結果がこれだったのは僕にとって絵にかいた餅が全て雨に流された瞬間だったとも言えます。

親戚が悪いわけじゃなくて、自分のことを自分で決断できなかった、完全に自業自得の話でした。

何も頼れるものがなくなった僕は、全て流されるようにそれからもう1か月頑張ってみました。

状況全く好転せず。

ここでもうだめだと思いました。気づけば友達からのLINEが何件も未読になってて、いつもは連絡をよこさない友達さえも個別に心配して連絡が入ってました。全部スルーしてました。

たかが数か月でこんな状況になってしまった自分の弱さに辟易し、妄想でしかない自分のキャリアは見事に全て壊れました。



全部が回らなくなった

借金が返せなくなった人間は、別のところから金を借りて当座をしのぐシーンがドラマでもよくあります。

この時の僕はまるで借金を返せない人間でした。渡された仕事がこなせない。別の仕事はどんどん入って来る。回しているようで内実何にも進められない。

どうにもならなくなった僕はこなせる見込みもない計画を出しては大風呂敷を広げ始めました。

完全に火の車状態でした。

今考えると本当に馬鹿だとしか言いようがないのですが、虚栄心と周りの目に耐えられなかった僕に出来ることはこれしかありませんでした。

ある日、ようやく、たった一つの仕事が終わった瞬間、僕の中の糸が切れました。

「もうだめだ」

このままでは周りにも迷惑をかけるし、僕も壊れてしまう。僕はすがるように再び電話を掛けました。もう親戚も友達も誰も何も信じられない。

結果、かけた相手は厚生労働省の「こころの健康相談統一ダイヤル」、そして都道府県ごとに設置されていた「こころの健康相談」です。誰でもいいからとにかくこの状況から逃れる口実が欲しかった。誰かにすがりつくしかなかったのは僕の弱さです。情けない男です。

電話をかけている最中、いいオッさんの僕は泣きながらしゃべってました。全ては僕に責任があることは理解しているのだけど、それでも耐えられない。僕に生きている価値があるのかさえ分からない。何もなかったことにしたい。死んで全てが終わるならそうしたい。そんなことを言っていたかと思います。

電話をかけた相手は僕がひとしきり語りつくした後、こんなことを言いました。

「休んでください」



休職が決まって

心療内科からまるでベルトコンベアのように量産された診断書が出てから、僕はあっという間に休職の身となりました。

休職して最初の1~2か月はロクな記憶がないです。いくつか当時のnoteは残ってるんですが、書いたときのことが全然思い出せないんですよね。

朝から晩までずっと寝ていました。ひたすらひたすら寝続けてました。前述の親戚と数少ない友達にはLINEで一方的に「休職になった」と連絡して、そのままスマホごと投げ捨てました。

何もする気もなく、ただただ時がたつのを待ちました。

3カ月ぐらいたったとき、わずかにスマホをみるだけの余力が出てきた僕に対し、心配した友達は「会わないか?」と言ってくれました。

でも僕は全部断りました。

誰も僕のことを助けてくれない。誰も僕のことを必要としてくれない。こんな僕に会って、何か会話して、何の進展があるのか?そもそもお前ら、僕のこと助けてくれなかったじゃんみたいな被害妄想までありました。

前述の親戚からの電話やLINEが何回もありました。僕は居留守を決め込んで、全て拒絶しました。

こうして外部との接点を一切絶った僕はひたすら寝込んでいました。

唯一と言っていい会話は毎週通わざるをえなかった心療内科と1~2か月に1回の産業医面談。ただ産業医面談はよほど僕の調子が悪いことを悟ったのか3か月に1回になりました。

通っていた心療内科も定型文を聞いてくる医者に辟易してました。工場のラインのごとく患者を回すだけなのが透けて見えたので全くあてにしてませんでした。

そのまま4~5カ月たっても何も好転することがなく、産業医からはあーせいこーせいという提案があったものの僕自身全てやる気が起きない状況で「はぁ…そうっすか」で馬耳東風を決め込んでました。

漠然とした将来への不安を抱えながら、ただただ日が過ぎるだけの生活でした。



徐々に好転してきた休職して半年後の僕

ようやく外に出始めたのは半年後ぐらいです。友達から「会おう」という話をもらって、珍しく僕も「たまには会ってみるか」という気になりました。

行ったのはコンサート。数人で会って、たわいのない会話をして久々に飲んだ酒は超うまかった(笑)

誰も僕の病状を聞くこともなく、「いやーあのコンサートまじつまんなかったな寝ちゃったよ」と相手が煽るように喋るもんですから、「おいおい、睡眠用音楽CDに7000円も払ったんか己は(笑)」と返す僕はちょっと気持ちよかったです。

それから外にちょくちょく出るようになりました。

人ともまま喋れるようになってきたのはこの頃からです。広島に一人旅行いったり、競馬場にもちょくちょく足を運んだりすることが出来ました。

といっても社会復帰については目標が何かあったわけでもなく、ふと仕事のことを考えるとクソったれな情けない自分を投影して落ち込むの繰り返しでした。



予約に1か月かかる病院に転院した結果

表面上、僕の病状は停滞していたもんですから、産業医もついに業を煮やして病院を変えよとの指令が出ました。

示された病院はその筋で有名な大きな病院でした。

転院は思いのほか心のコストがかかりまして、僕もどうしようかと悩んだのですが、確かにこのベルトコンベア心療内科では何も進まないということは明白だったので最終的には了承しました。

通っていた心療内科で紹介状をだしてもらって、いざ予約…と思ったら。

え、まじ電話つながんねえ…。

予約が取れないレストランじゃん、もうこの世の中病みすぎだろどんだけいるんだと。

予約はネット化されておらず、全て電話のみ。さらに一週間に1回しか新規患者予約を受け付けてくれない病院だったので、この日もだめ!この日もだめ!でなんやかんや週単位で日にちが流れ、最終的に予約だけで1か月近くかかってしまいました。

B'zのチケット争奪戦のような状況を経て、電話越しの相手から「じゃあ〇月〇日に来てください」と言われた時には「ようやくか」と胸をなでおろしました。



全然思ったのと違う…けれどもそこから始まった

まあ、そんな予約がバチバチに入る病院ですからね。さぞかし名医が僕のことを診てくれるんだろうと期待していたわけです。

すげー良い薬を処方してくれるとか、バチクソ素晴らしい言葉で励ましてくれるとか。さあ、僕を導いてください!!と思った結果、何が起きたか。

初対面の僕に対して、医者はこう言ってきたんです。

「自分で薬の把握は何故されてないのですか?」
「なぜ前の心療内科ではだめだったんですか?」
「ここの病院にきて病状がよくなるとか思わないでください」

もうボッコボコでした。

薬名?知らないよ、それを考えるのはプロたるあなた方のお仕事じゃないの?それに心のコントロールが出来ないからプロに頼んでるのに、何でこっちが把握せにゃならんのだと反論したくなりました。

ぶっちゃけ、帰宅時はちょっと涙目でnoteと友達に愚痴をいいました(笑)コイツなんだよと。僕を治す気があるのかと。


…でもまあ、これが始まりだったと思います。

めったくそにボコボコにされたわけですが、一方で冷静にこの一連のイベントを改めて考え直しました。

思えば休職する前もそうでした。僕は誰かにすがるだけの思考でした。誰かが言ったから僕はこうする、誰も言ってくれないから僕は思考停止した。産業医が言ったから病院を変えた。そこに僕の考えは?ぶっちゃけどうしたいのか?

発症当初は仕方ないと思います。心に余裕がなかったから、すがるしかなかった。でもこれは半年たっても自分の意志がないという点において、根幹が変わってない状況にようやく気付きました。

誰も助けてくれないじゃなくて、そもそも僕はどうしたいのか。いや、そんな大きく遠い話ではなくて、まずは直近の病状をどうしたいレベルいいんです。

僕は今どういう状況でどうしたいのか、何が問題で何を相談したいのか。ある種、この医者に尻を叩かれた結果なのかもしれませんね。

心の病気は内科外科と違ってレントゲンを撮ればで分かるもんでもないし、先生がすべてを診れるわけじゃありません。せいぜい通っても1週間に1回の面談で外面キメこんだ僕との会話で医者が本当に正しく導いてくれるのか?

この病気は医者がすべてをコントロールしてくれるわけじゃなくて、自分の意志が必要なんだと感じた瞬間でした。



小さな目標をたてて、ひとつずつやってみた

とりあえず、最初にやったことは自分が今まで飲んでいた薬を調べました。ところがこの時びっくりしたのが薬名が全然覚えられなかったんです。

愕然としました。

確かに分かりづらい名前をしていましたが、たかが数文字のカタカナが覚えられないってどういうこと?と。

当時飲んでいた薬のせいかと思うんですが、ただでさえ物覚えが悪い自分がたったひとつの薬名を覚えられず、ノートに何回も書いて覚えました。

こうした大したことのない一つの事象から自分が置かれてる状況を把握し、あーそうかこんなことも出来ないんだなと思いつつ、ひとつずつまずは受け入れることにしました。

久々にランニングをしてみたら、体力が恐ろしく落ちていたことにも気づきました。走るのがきつくて、ウォーキングに変えました。病気に効くかどうかわからないけど、とりあえず毎日1万歩歩こう!と目標をたててnoteに投稿し始めました。

目的地はいつもマック(笑)薬の影響もあってブクブク太ってしまったのはご愛敬。ただ歩いた効果からか、ご飯は食べれるようになってきました。

ついには県をまたいで歩くようになってから、今度は頭も動かすことにしました。

カタカナ数文字さえ覚えられない自分が怖くて、最初は外に出て読書とか、ネットサーフィンするだけでしたが、徐々にせっかく休んでるんだからということで資格の勉強を開始。

今まで「必要ないなー」と思ってたプログラミングのPython言語に触れて、これなら僕でも出来ると確信してから受験。おかげさまで2つの資格をとれました。そんなに難しい資格じゃないんですが、ちょっとした自信になりました。

気づけば10カ月ぐらい髪も切ってなかったのでバッサリ切りました。大したことじゃなくても、理容店さえ何か聞かれるのも怖くていけなかったので大きな一歩でした。

こうした一つずつの積み重ねが良い効果を生み出したのでしょうか、徐々に自分としては「こうあったらいいな」みたいな将来像が描けるようになりました。

何か月も前に止まった秒針がやっと動き出した瞬間です。



まとまる前に期限がやってきた

ここまで来るのに1年です。長いでしょ?出来が悪くてすいません(笑)こんな奴なんです。

1年たった今現在。絶賛、未解決事件として進行中ですよ(笑)

状況は徐々に改善されつつも、復帰ができずにいるという事実だけ捉えれば会社としても期限を設けざるを得ないのは当然です。来年1月末がリミットで僕は退職か復職のどちらかを選択することになっています。

周りは復職を勧めてくる人がいます。いい年ですし転職はリスクがあります。ただでさえ休職という大きなハンデを背負ってますしね。

しかし僕は復職のイメージが描けずにいます。異動なども考えられますが、せっかくエンジニアとして色々やってきたものを捨てきることは出来るのか?という疑問もあります。

せっかくなので友達にも相談してみました(笑)
まーたお前他人に頼るんかい!と突っ込まれそう。まあアドバイスですよアドバイス。

それだけでは足りないと思ったので、今回転職エージェントにも応募してみました。休職している人間にエージェントは会ってくれるかはわかりませんが、こういうのはプロの意見も聞いてみたいもんでして。

転職すれば全てが解決するとは思ってません。個人として、僕自身は大した人間ではないということを改めていい意味で理解しました。過大評価でもなく、過小評価でもないです。僕はこういうやつなんだと何十年付き合ってきて自分がちょっとだけ分かった気がします。

僕はクリエイティブなことが出来る人間ではなく、また何か人を動かしたり計画をたてて大掛かりなプロジェクトを回せる能力もありません。ある程度決まった仕事を地道にコツコツやるような仕事が性に合っています。

まだ復職するか転職するかは分からないです。転職を選択しても、世間は僕をどう評価するかはまた別の話ですし、拒絶されればバイトでもするしかないです。まあ、それならそれでいいじゃないか。支えなきゃいけない家族がいるわけじゃないしね。

不安がないといっちゃ嘘だけど、ま、なるようになると思って右足を一歩だしてみました。

それが僕の現在地です。

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