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【古墳】日本に〇万基も存在する権力マウントの象徴!?意外と知らない古代のお墓のヒミツ【古墳時代】

どーも、たかしーのです。

今回は、『古墳』について、書いていきたいと思います!


古墳とは?

3世紀中頃から7世紀にかけて造られた巨大な古代のお墓

古墳こふんとは、土を高く盛り上げて築かれた古代のお墓のことを言います。日本では、3世紀中頃から7世紀までの約400年にわたって、盛んに造られました。この時代のことを日本史では「古墳時代」と呼び、この頃にヤマト王権が成立したと考えられています。

ちなみに、266年、邪馬台国の女王  壹与いよが西晋へ使いを送り、朝貢をしていたという記述が『晋書』に残されているのですが、それ以降、中国自体が乱れまくってしまったため、それから約150年間、つまり古墳時代の前期は、中国の歴史書に記録が残っておりません

↓ 邪馬台国の女王 壹与については、こちらをどうぞ。

当然ながら、倭国にはまだ文字がなく、その頃の記録も残されていません。
この文字情報のない時代のことを「空白の四世紀」と呼んだりもしています。つまり、中国に文字資料があった弥生時代後期よりも謎が多いのが、古墳時代の前期、ということになります。

この空白となってしまった時代を紐解くには、遺跡から出土した遺構などの物質文化の研究を通して、見ていくしかありません。
すなわち、考古学がカギとなってくるワケです。

そして、この時代の歴史を調べる上で、『古墳』がとても重要になってくるのです。

主に大王(天皇)や地方豪族が埋葬されている

古墳は、当時の身分の高い人のために造らせたものと考えられています。
埋葬されたのは、主に 大王おおきみヤマト王権の首長)や、各地域を治めていた豪族などの支配者層です。
大王は、のちに尊称が変わり、今なお続く「天皇」となります。

つまり、言い換えると、一部の古墳は、天皇のお墓でもあるのです。
そのため、皇族のお墓とされる古墳は、宮内庁が管理下に置いていることもあって、学術調査を含む一切の立ち入りが厳しく制限されています。

箸墓古墳(wikipedia)

例えば、奈良県桜井市にある箸墓古墳は、中国の歴史書や伝承によれば、邪馬台国の女王であった卑弥呼の墓である可能性が高いとして注目を集めていますが、この古墳も宮内庁の管理下であるため、立ち入り調査ができず、今なお謎のままとなっています。

↓ 邪馬台国の女王 卑弥呼については、こちらをどうぞ。

前方後円墳の分布=ヤマト王権の支配領域

古墳は、死んだ後も自分の力を示すために、墓として造らせたものと考えられています。それまでの弥生人たちは「死は怖く悲しいものである」といった認識のもと、集落の外に集団墓地を造り、そこへ死者を葬っていました。

弥生人については、こちらをどうぞ。

ですが、古墳時代へ向かうにつれて、そんな死に対する考え方が変化をしていき、特定の個人を葬ることを目的とした墓が次々と作られるようになりました。

そして、4世紀後半になると、巨大な前方後円墳が築かれるようになります。

前方後円墳

前方後円墳は、現在、岩手県から鹿児島県にかけて、全国で約4,700基が確認されており、大規模なものは近畿地方に集中をしていることがわかっています。

また、前方後円墳は、日本独自の形式の古墳であることもわかっているため、これほどまで同じ形状の古墳が近畿地方のみならず、全国にまで分布しているのは、ヤマト王権の身分秩序に、地方の首長も取り込まれ、やがて服属するようになったからと捉えることができるのです。

古墳の大きさ=権力マウントの大きさ

前述のとおり、大規模な古墳は、近畿地方に集中をしていることがわかっています。

日本に点在する古墳を墳丘長を基準として比べてみると、1番大きな古墳は、大仙陵古墳(大阪府堺市)であり、墳丘長は525m高さは39.8mもあります。

昔の歴史の教科書では、「仁徳天皇陵古墳」とも書かれていましたが、いまだ仁徳天皇のお墓であるとはっきり断言できていないことから、現在は「伝・仁徳天皇陵古墳」と記されるようになりました。

大仙陵古墳(伝・仁徳天皇陵古墳)(wikipedia)

この大仙陵古墳を含む「 百舌鳥・古市古墳群もず・ふるいちこふんぐん」は、「百舌鳥・古市古墳群 -古代日本の墳墓群-」として、世界文化遺産に登録がされています。

また、大仙陵古墳は、世界三大墳墓(お墓)にも数えられており、残り2つは、エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵が選ばれています。なお、体積で比べると、大仙陵古墳が1番大きいお墓となります。
※高さで比べると、意外にも秦の始皇帝陵がトップです。

・クフ王のピラミッド:高さ35.8メートル、体積140万立方メートル
・秦の始皇帝陵:高さ146メートル、体積260万立方メートル
・大仙陵古墳:高さ76メートル、体積300万立方メートル

引用:堺市「世界三大墳墓の大きさ比較」

このことから見ても、日本のみならず、世界の歴史上の有力者は、自分の権力を誇示するために大規模なお墓を造っていることがわかります。
あえて現代で例えると、高級車に乗っている、大きな豪邸に住んでいる、自分だけのプライベートジェットを所有といったといった権力者マウントをこの頃はお墓でやっていたということが言えるかと思います。

なお、その他日本の古墳の大きさランキングで、上位5位まではご覧の通りです。

第1位)大仙陵古墳大阪府堺市):墳丘長 525m
第2位)誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市):墳丘長 425m
第3位)上石津ミサンザイ古墳大阪府堺市):墳丘長 365m
第4位)造山古墳(岡山県岡山市):墳丘長 360m
第5位)河内大塚山古墳(大阪府羽曳野市・松原市):墳丘長 335m

引用:日本の大規模古墳一覧(wikipedia)

このデータから見ても、大規模な古墳が、大阪府に集中していることがわかりますね。

百舌鳥古墳群
手前が上石津ミサンザイ古墳 奥が大仙陵古墳(wikipedia)

ちなみに、第1位の大仙陵古墳、第3位の上石津ミサンザイ古墳を含む百舌鳥古墳群ですが、これは当時の海岸線上に築造されたことがわかっていますが、その理由は、外国の使節にも権力者マウントをするため、と考えられています。(古墳時代とは、マウントの時代…)

意外と知らない古代のお墓のヒミツ

日本にある古墳の数は、全部で…

実は、日本に点在する古墳の数は、全部で約16万基もあります!
※正確には、古墳の数は、全部で159,953基。(令和3年度 文化庁調べ)

よくコンビニの数と比較がされるのですが、なんとコンビニの約3倍の数の古墳が、日本にあるということになります。
※正確には、コンビニの数は、全部で56,759店舗。(2023年1月時点)

都道府県別でみてみると、1番多いのは、なんと…

兵庫県なんです!

第1位)兵庫県:18,707基
第2位)鳥取県:13,505基
第3位)京都府:13,103基
第4位)千葉県:12,772基
第5位)岡山県:11,880基

引用:『令和3年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数(古墳・横穴)』(文化庁調べ)

ヤマト王権が起こった奈良県がベスト5にすら入っていないのが、意外ですよね。※ちなみに奈良県は第8位で9,663基。

なお、古墳がない都道府県は、北海道青森県秋田県、の3つのみ。
沖縄県も近年まで古墳なし県でしたが、琉球王国が残した墓が古墳としてカウントがされたため、調査では古墳が2基あることになっています。

実際に大仙陵古墳と同じ規模の古墳を造ってみたら…

1985年、日本の大手ゼネコンである大林組が「大仙陵古墳と同じ規模のお墓を古代工法によって再現した場合、どれほどの労働力と工期が必要になるのか」を算出したことがあります。

大仙陵古墳 墳丘全景(左に後円部、右に前方部)(wikipedia)

その結果ですが、施工条件として、

  • 建設用工具は鉄製または木製のスキ、モッコ、コロを使用する

  • 労働者はピーク時で1日2000人とし、牛馬は使用しない

  • 作業時間は、1日8時間ひと月25日間とする

  • 建設事務所は陵の敷地内、労務宿舎を客土採取場の中に置く

としたとしても、

  • 総工期:15年8か月

  • 総作業員数:のべ680.7万人

と算出がされました。

つまり、これほどの労働力を15年以上も働かせ続け、大規模なお墓を造らせたということは、それだけ巨大な王権があり、また弥生時代末期のような争いがなかった、すなわち平和であった証拠と言えるわけのです。※争いがあれば、大規模なお墓を造らせず、戦争に動員させているはずなので。

古墳はどのようにして造られたのか?

では、このような大規模な古墳は、一体どのようにして造られたのか?
発掘調査をもとに、考えられている手順をもとに見ていきましょう。

1) 古墳が造れそうな場所を見つける
当たり前ですが、建設予定地を探すところから始まります。

2) 木や草を刈って、地面を平らに整える
マイクラと同じで、整地は大事です。

3) 地面に設計図を書き、全体の大きさの位置に目印の杭を打ち込む
ここで全体像がようやく見えてきました。

4) 杭に沿って土を掘り、掘った土を盛り上げる
土を掘った外側はほりに、土を盛った内側は 墳丘ふんきゅうになります。

5) 濠に水を入れる
水をいれることにより、水平がわかるようになります。

6) 濠に棒を立ててから、水面をもとに目印をつける
この目印を基準に、墳丘の形を整えていたと考えられています。

7) 目印の高さまで、土を盛る
土が盛れたら、さらに高さを測って目印をつけ、土を盛るを繰り返します

8) 墳丘に石を敷き詰める
土を盛っただけでは崩れやすいので、 葺石ふきいしと呼ばれる石を敷き詰め、土の流出を防ぎます

古墳は木に覆われているイメージがありますが、古墳ができた当初は石で覆われていたのです。

9) 埴輪を並べる
古墳に使われた埴輪には、大きく2つの種類があります。

  • 形象埴輪・・・形を象っている埴輪。葬られた人の地位を示した。

  • 円筒埴輪・・・円形の筒のような形をした埴輪。墓地の区切りを示した。

なお、古墳の上に、埴輪を並べたのは、ここで祭祀を行っていたためだと考えられています。

埴輪も含めて当時の姿が復元された五色塚古墳(兵庫県神戸市)(wikipedia)

10) 埋葬施設を造る
最後にお墓なので、故人を葬るための石室を造ります。
古墳の石室も、大きく2つの種類があります。

  • 竪穴式石室・・・墳丘のてっぺんから縦方向に穴を掘って作った石室

  • 横穴式石室・・・墳丘の側面から横方向に穴を掘って作った石室

竪穴式石室は、1回しか葬儀が行えないことから、個人を埋葬するために造られたと考えられています。

森将軍塚古墳の竪穴式石室(復元)(wikipedia)

一方、横穴式石室は複数回葬儀を行うことができ、後から遺体を追加して入れる(追葬)ことができました。

石舞台古墳の横穴式石室(内部)(wikipedia)

構造としては、「 羨道えんどう」と呼ばれる道の奥に、「 玄室げんしつ」と呼ばれる部屋があり、そこに「 石棺せきかん」と呼ばれるひつぎが置かれていました。

複数の故人を葬ることができる利便性からか、古墳時代後期になるにつれて、古墳の石室は竪穴式石室から横穴式石室へと移り変わるようになります。

ちなみに、この横穴式石室は親交があった百済との交流によって生まれたと考えられています。また、朝鮮半島南部にも、5世紀後半から6世紀前半にかけて築造された前方後円墳が10数基発見されており、これは当時の日本の有力者が朝鮮半島に渡って造り方を伝えた、もしくは、在地系の勢力が日本の前方後円墳をマネをして築造したのでは?と指摘されています。

おわりに

今回は、『古墳』について、書いていきました。

こうして書いてみると、古墳が当時の土木技術が結晶した建造物であり、超大型な土木工事が各地で行われていたことが、改めてよくわかりました!

また、前方後円墳が日本オリジナルであることには、驚きでしたね。(なぜあんな鍵穴の形になったのか、不思議ですな…)

他にも、この歴史上の人物神話などをベースに、記事を書いていく予定ですので、是非フォローなどしてもらえるとありがたいです!

それでは!


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