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日本村上春樹昔話 「一休さん」


そもそも僕が一休について全てを語る事など出来ないし、
あるいはそんなこと世界中の誰も望んでいないかもしれない。



「あなたにはそれを語る必要があるの」



彼女はそう言うと目の前にあるウイスキーを飲み干した。
カランと氷の音がーそれは不自然なくらいー大きく響いたような気がした。



「そういうものかね」



僕はジョン・コルトレーンの「ノット・イエット」の最初のピアノの伴奏の部分の事を考えていた。
店内のスピーカーから流れていたからだ。


彼女は僕を、まるでセロリの薄皮越しに見るような目で見ていた。
もしかしたら僕に見えていないだけで、彼女にはそれが見えているのかもしれないなと僕は思った。



「やれやれ」


どうしてもと言うなら、それは僕によって語られたがっているのかもしれない。



僕はベッドから出て昨日の飲み掛けの、炭酸の抜けたトニックウォーターを胃に流し込み、キッチンで丁寧にパンとハムを焼いてハムサンドを作った。


ベッドにはまだ昨日バーで知り合った女が寝ている。
名前は覚えていない。そもそも彼女は名前など名乗っていなかったかもしれない。
彼女が少し寝がえりを打ち、シーツが気持ちいい音を立てた。




僕が一休を知ったのは、それはまだ僕が今よりもずっと、傷付きやすかった時期の事だったと思う。


僕が彼を知ることはまるでこの世の理のようなことで、
それは雲に覆われた空の下で、雨が降り始めたことに世界中の誰よりも早く気付いたような、
そんな日だった。


彼はいつも冗談を言っていた。



「この橋を渡るな」と言われると
「真ん中を歩いています」だとか、

「毒だから食べるな」と言われた水あめを食べて
「死のうと思って食べました」だとか、

そんなものだったと思う。


彼はそれを「とんち」だと言ったし、周りもそれについて深く追及しなかった。


周りはそんな事よりも明日のパンの値段と、どうやって女の子を落とすかってことに夢中だったんだと思う。



ある日一休は殿様に呼ばれた。


彼がそんなとこに呼ばれるなんて、世界中の羊が逃げ出して井戸の中に自ら入っていくくらいありえない事だった。

だがそれは現実なのだ。真夏に突然現れる夕立みたいだった。



少し雲のかかった空の下で風が立ち始めた頃、ぴかぴかに磨きあげられたメルセデス・ベンツが僕らの前に止まった。


ブルックス・ブラザーズのスーツにオールデンのコードヴァンを合わせ、中にはスヌーピーがプリントされたTシャツを着た殿様がゆっくりとドアを開け降りて来た。


「どうかな」

「うん。良いと思う。君にはそれがとても似合っているし、それじゃなきゃ君は君じゃなくなってしまう」

「良かった。アップルレコードのリンゴのマークのTシャツにしようか悩んだんだ」

「よく似合っているよ」


僕がまるでまだ聴いた事の無い曲の歌詞カードを音読しているかのようにそう言うと、
殿様は公園で遊ぶ一人娘を見るようににっこり微笑んだ。



「一休、君は屏風の虎を退治しなくちゃいけない。そしてそれは今じゃなきゃいけない。こんな所に呼び出して突然失礼なことを言ったと思う。
けど、今じゃなきゃいけないんだ」

「良いんだ。君は僕を必要として呼んだ。そこに非礼は関係ない。
必要だから呼んだ、違うかい?」

「必要だから呼んだ…」


殿様は一休の言葉をなぞるように声に出して言ってみた。


「うん、悪くない」



殿様は家来に屏風を持って来させた。
屏風には恐ろしい、それはダンスホールには絶対いないであろう、虎が描かれていた。



僕は一休に言った。


「こんなの間違ってる。これは嘘だ。殿様は君をただ試そうとしているだけなんだ。僕らはここにいるべきではないし、皆もそう思ってる。
僕たちはいつも通りタバコを吸って本を読み、時々女の子について語る。それでいいんだ」


一休は僕の顔を見て微笑んだ。


「ねじり鉢巻きとロープを持ってきてくれるかい?
それと、出来るなら君の作ったサンドウィッチ。パンは焼き過ぎないでくれよ」




一休は僕からねじり鉢巻きとロープーどちらも肌触りの良いタイランド製の物だったと思うーを受け取り殿様に言った。


「ねえ殿様、このトラを屏風から追い出してくれないか。
そしたら僕はこのトラを縛り上げる。このトラが、好むと好まざるとに関わらずね」


殿様と一休の間には沈黙が流れた。
それは1分だったかもしれないし、1時間だったかもしれない。
殿様は深くため息を吐いて言った。



「やれやれ、負けたよ。」




殿様は一休に沢山のレコードを渡し、一休もそれを受け取った。





それで終わりだ。この話に続きは無いし、僕が語れることはもうない。
一休という男がいて、僕は一休という男を知っている。それだけだ。


「あなたの話し方好きよ。まるで丁寧にボートを漕いでいるみたいで」



結局僕は彼女の名前を聞くことなく別れてしまった。


この話は今でも誰かに語られているかもしれない。

そう、今この文章を読んでいる君のような人に。

夢の一つに自分の書く文章でお金を稼げたら、 自分の書く文章がお金になったらというのがあります。