見出し画像

罪悪感が生み出すホラー

こんな本を読んでいます。

我々はそもそも何故ホラーや怪談を生み出すのか?コリン・ディッキーの『ゴーストランド 幽霊のいるアメリカ史』を読んでいる。実は日本語版は手に入れられなかったので、仕方なく英語版でジリジリしながら読んでいる。

この本が扱っているのは、アメリカ各地の幽霊が出現するとされる場所を訪れ、事実関係と照らし合わせながら、怪談の意味を問うている。

ジョーダンピールの『アス』を思い出す。

我々は、アメリカ人だ!

のセリフが全てを物語る。笑わせながら嫌な気分にさせられる映画。それは、アメリカ人としての人生を享受する者の罪悪感を刺激するセリフだからである。

本書のおもしろさは、もちろんホラーや怪談は、記録として残されなかった事実が幽霊譚としてこだましてくるということを描いている点にあるが、もう一つ興味深いのは、語られてしかるべき話が残っていない、という部分にも目を向けていることである。『アス』は、まさにその語られないもう半分のアメリカ史を見てみよと言っている作品であろう。

アメリカのホラーを貫いている要素は、罪悪感なのかもしれない。例えば日本やフランスのホラーに、集合的な意味での罪悪感が読み込めるだろうか。どうもそういう気がしない。

昨年私の中で上位2位に入ったアメリカのホラー映画、『マリグナント』や『ダーク・アンド・ウィケッド』を考えてみる。『マリグナント』は、皆が亡き者にした存在が怒りをもって戻ってきたお話だ。ロビンウッド言うところの、抑圧されたものの帰還だ。自らを抑圧した者たちに対する異議申し立ての意味がうっすらあるからこそ、終盤でそいつが大暴れするシーンで我々はスカッとするのであろう。また、怪異は主人公を追い詰める一方、主人公の危機を偶然にも救う力としてたち現れている。あれだけ警察で暴れたのに主人公が免罪されているのも本当は変なのだが、そんなツッコミを無効にするほどの説得力がある。

『ダーク・アンド・ウィケッド』は、はっきりと、キリスト教的な核家族のLOVEに至ることのできなかった人の罪悪感が読める。単純に悪魔パワーの暴走としても読めるし怖いのだが、悪魔パワーの介入が無くともあの家族は修復不可能な道に足を突っ込んでいた。介護は、家族の真実を明らかにするよう迫るのである。残酷極まりない。日本でもよくある介護疲れの変奏曲だ。

『ゴーストランド』の問題意識に照らせば、後に形を変えて語られる怪談の一つとして採集されそうな物語である。が、『ダーク…』は家族崩壊のその後を描いていない。『チェンジリング』のように、過去を暴いてほしいと訴える幽霊譚ではないのである。他人から見ればそうなる可能性があるのに、家族の内部の気持ちとしては、家族崩壊によって解放されているかもしれない。すると、幽霊になって残る必要はないのである。

マイケルギルモアの『心臓を貫かれて』は、そんなアメリカの家族が持ちうる虚構の顔について語っている。

こちらの本が優れているのは、アメリカ的な理想の核家族が陥る罠を突いている点だ。古き良き…と言及されがちな時代に、実は温かい家庭というものは少しでも条件が悪いと直ぐにバランスを崩し、たとえ裕福でも隙間だらけの家が出来上がり、そこには荒んだ精神が育ってしまうのだと言っている。

日本のことを考えさせられる。家族や家の力が失われたから、今こんなに社会が問題だらけなのだ…過去に立ち返って適切に機能していたものを見直すべきだ…という語りは説得力がある。この話し方は、過去には家族や家が正しく適切に機能していたはずだという期待に基づいている。虚構も方便だ。ところが、YouTubeの凶悪犯罪者解説動画を聴いていると、ある人がとてつもない犯罪を犯すに至った経緯は既にその時の家庭環境にあるように思われる。ではその親はなぜ?と考えると、古き良き昭和の時代やその前から受け継がれてきた何かがそこにあるような気がするのだ。

この場合、その家族…血筋を例外視するほうが簡単だ。私も本音ではそう考えたがっている。何か、私の知っているものと全く相容れない、いわく言い難い他者のロジックに出会うとき、自分とはかけ離れた存在だと理解し、出身地や家系や過去の体験にその異様さの原因を求めるほうが、気が楽なのだ。過去の体験に原因を求めるのだって、一つの決めつけである。そうすることで、自分との間に線を引くことができるからである。ウッドが言うところの、モンスター対ノーマルな我々の対立構図において、私はノーマルの側に立っているつもりなのだ。

様々なレベルで我々は人の集団に線を引く。根深いものもあれば浅いものもあるだろうが、無数の線引…それは差別の言い換えでもある。差別をされていると言われる側に立つ人ですらそこから自由ではない。

前も書いたが、ホラー映画を愛好する時点でそのことに自覚的でありたいのだが、私は常に何らかの差別を実践しているのだと思う。それを認めることは非常に難しい。こんなことを書きながら、死ぬまでこの事実を認めず、逃げようとするだろう。

一方、学問の方はできるだけ差別から距離を取りながら、家族という存在を研究してきたように思われる。全ての家族がそこに内在する問題と切り離せない、だから、みんなで考えよう…この方が明らかに良心的だし、何か救いを見いだせる。光を見ている気持ちになれる。しかし…光を見すぎて、光に魅入られ、自分と光は別物なのだということを忘れてしまうと…これまた怖い結果になる。

アメリカのホラー小説はもしかしたらそこに自覚的であろうとする流れがあるのかもしれない。スティーブン・キングやロバート・マキャモンのホラーには、宗教的に正しくあろうとしすぎて却ってそれが悪に変わるというテーマを好んで書いている。マイク・フラナガンの『真夜中のミサ』にもそれがある。光に魅入られ自分が光の体現者だと思いこむことへの戒め。ホラーでしか描けない領域だろう。

ピューリタンとしての宗教的意識の高さが驕りに繫がっていはしまいか…ロバート・エガースの『ウィッチ』は明らかにそこを突いている。セーラムの魔女裁判の記憶はアメリカ人をずっと苦しめることだろう。また、そもそも先住民から土地を収奪して建国したこと、長らく奴隷労働に頼ってきたこと、白人の中にすら階層的な差別が存在してきたこと(ハリウッドは、黎明期において、社会の主流に食い込めなかったユダヤ系やイタリア系などが牽引した)…マイクロアグレッションという概念が飛び出してくるほどに、本音では、差別や区別をしたくてたまらない!という集合的な情念が渦巻いている場所。

日本のネット上の怪談には、都会から見た田舎の村落への目線、部落差別や他民族に対する感覚が率直に語られている。それらは日本では映画の形で消費されることは難しいと思う。実在する集団との距離が近すぎるし、ネット上は匿名だからこそ皆が率直に実感を語れるのである。実在する集団から少しだけ外れると、日本含め、アジア圏やインドのホラーは饒舌になる。怨念を残した女幽霊の物語である。

あれは、女性に対する差別を物語る一方、どうも社会的な反省を促す機能が備わっていないようだ。それ故に、大量に流布し消費されているのではないか。子供や女性や弱者に対する暴力の記録を、事故として、つまり例外だと語っているのではあるまいか。はやりそこにも、語られてない埋められた部分がある…が故に、皆がお手軽に消費できるのだろう。アメリカの幽霊屋敷や施設が観光スポットになっているのと同じ意味で、都合の悪いところは語らないのである。

日本のホラーで場所とそこに住む人たちの怨念とそれに対する外の人間の罪悪感に触れた作品は、『残穢』くらいかと思う。『来る。』もかなり迫ったほうだが、『来る。』は原作のほうが優れている。澤村伊智は、日本人が集合的な意識として持っているドロッとした記憶をホラーとして描いてくれるような気がする。

インドのホラーは何故怖くないのか?と何度か考えてきた。インドの社会を覗き込むと、信じたくないようなドロッドロの悲惨さが埋まっている。これはもう少し他のインド関連本を探して読んで考えたいが、あまりにひどい事実を隠さない上に、問題を何らかのやり方で流してしまう装置がそこら中にあって、それ故に多くの人は罪悪感も薄いのではあるまいか…と疑っている。もしそうなら、数々のドロッドロした事実をホラーとして消費するまでもないのだろう。一方超自然的描写を排したインドのドキュメンタリーやドラマ映画はときにゾッとするものになっている。

自分を考えると、集合的な罪悪感ゼロとは言えないけれども、アメリカのように、隠蔽することで却って凝視してしまうような罪悪感とは異なる。そこまで、悪かったよ、と思っていない。が、インドほど、敢えてそのことを個々人の頭から追い払うこともしない。そのへんのどこかにいる。おそらく日本人の大半はそうであろう。

アメリカでポリティカル・コレクトネス運動が生まれたのは、集合的な罪悪感、いやむしろ本当の糾弾から逃れるために暴走している側面があるのだろう。二百年の歴史しか無い以上、誰の目にも明らかで、逃れようがないのだろうと思う。白人性を脱色…いや、虹色で着色しようとしているかのようだ。

一方、反省しなきゃいけない、という声が繰り返しアメリカ映画から出てくるところに、私は、人間の良心を見出したいのだろう。だから、アメリカのホラー映画を批判しつつも大変愛好している。できれば、あの中に包まれていたいくらいだ。できれば良くありたい。

我々は、他人を踏んづけるときは気が付かない。言われて初めて気がつくものだ。私は特に、自分が『いい子、できる子』であるという錯覚のもとに長く生きてきてしまったが故に、私の信じたい自分像を突くような糾弾の言葉が怖い。今までもたくさん、お前は悪い人間だと言われてきたのに、何故私は悔い改められないのだろう。いくつか思い当たる糾弾の理由が私に投げかける影を追っ払うことはできそうもない。

ずっとずっと、憑いてくる。

罪悪感があるということや、罪悪感の吐露の方法で人や自分を評価しないようにしたい。あなたの罪悪感の吐露は素晴らしい!!そんな褒め言葉をそこら中で目にするが、褒められたいのではない。私は逃れたいのだ。

インドに来たのはよかったと思う。人間ってどんな存在なのか?ということを全く違う側面から考えることができる。インドで見かける様々な出来事、こちらではさも当たり前に行われていることを見るにつけ、私も皆も、大体同じく人間だなあと思う。どこの国でも、人間はほとんど変わらないことをするものらしい。一方で、とてもそうは考えられない程に隔たってもいる。

疲れる。もう考えたくない。が、結局明け方からダラダラとスマホでこんなことを書き、休みの日なのに朝から疲れた顔をしている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?