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戦争体験者である父の手記:「下関の思い出」第一部・戦争

実の父親に戦争の話を聞いた最後の世代が私ではなかろうか。
父は昭和6年生まれ。小学5年生から中学2年生までが第二次世界大戦(親父は「大東亜戦争」と言う)だった。

母親も戦争を経験している年代だが、疎開していたのでその生々しさは全く覚えていないらしい。

私は昭和49年生まれ。両親自身が当時としては割と遅めに結婚し、兄が生まれてから8年後に私が生まれた。親父は私を連れて歩いていると「孫」だと勘違いされて困った、と言っていた。

親父はまだ存命中であるが、時々、記憶が曖昧なところがある。しかし、私が聞いた戦争経験談は価値あるものだと個人的には思っているので、この機会に、親父が1980年6月に、ある機関紙に寄稿した文章をそのまま掲載したいと思う。

父は、キリスト教の牧師の家に生まれた。生まれながらのクリスチャンである。
(私もそうだが。)

戦争体験自体も、風化させてはいけない記憶なのだが、日本の中で当時のクリスチャンがどのような思いをしていたか、も窺い知れると思う。

当時のことを振り返る文章になっているので、現在では不適切な表現も入っているかもしれないが、表現の変更は歴史的な価値を減じる可能性もあるので、一部の誤字などを修正する以外は、このまま掲載したい。読みやすさのため、原文にはないが、小見出しをつけた。ご了承願いたい。

ちなみに、下関丸山教会とは、山口県下関市丸山町にある日本キリスト教団の教会だ。国の登録有形文化財にも登録されている。


『下関の思い出』岡田潔 
1980年6月4日
下関丸山教会機関紙『恵泉』に投稿した原稿


第一部 ー戦争ー

正義の戦い

 下関で過ごした十年間は、戦いと終戦の騒がしい最中でした。そこで体験した様々な出来事は、正に丸山教会の出来事と、何ら代りの無いようなものでありました。
 昭和十七年(一九四二年)三月、四国の多度津から父の新しい赴任地である下関に移ってきました。去る年の十二月八日、大東亜戦争が始まったばかりの戦時体制でした。小学校、当時は国民学校と呼ばれていた五年生でした。

 日本軍は、シンガポール、マニラ・・・などへと、善戦を重ねていました。美しい会堂で、父母共々、戦勝を喜び、また必勝を祈る毎日でした。大日本帝国は「鬼畜米英を懲らしめるべく立ち上がった正義の戦い」であることを絶えず学校で教え込まれていたからでした。
 正義には神の御手が差し伸べられて必ず勝利に導かれることを信じていました。

新しい赴任地・下関へ

 新しい赴任地における最初の礼拝の後でした。父は私たち家族を紹介し、「私は力の限り働きます。どんなに忙しくとも『忙しい』という言葉は使わないつもりです。遠慮なく忙しい目に遭わせて下さい。」という挨拶をしたことを、今もって強い記憶として残っています。

父の背中

 父の働き方は非常に活動的であったようです。信徒、求道者を訪問するのみでなく、家庭集会、祈祷会と、一日に、二、三軒の割合で活動し始めたようです。『訪問牧師』という言葉が昔からあります。良い意味にも、また悪い意味にも使われたようですが、父の牧会がどうであったのか分かりませんが、「先生は良く働かれる、我々も負けてはおれない。」と喜ばれたことは確かなようです。
 訪問先の家、その家庭のために祈り、そこに集った方々一人一人に、福音による聖別の祈りと祝福とを手土産として運ぶ一人の牧者、父・子・聖霊の交わりの中に己が身を浸しつつ、信徒の方々とのスキンシップ的な福音による祈りと、主にある交わりを共に味わって居たであろう父の姿を想像することが出来ます。

牧師とは・・・

 牧師は単に聖書の講義をする教師ではなくキリスト教についての解説者でもありません。キリストと共に歩む使徒の如く、取るに足らない土くれの器をも、その穢れた身をも、神は潔め祝福なし、神の自由な選びの中で、神の僕として呼び出し、用い給う、使徒パウロのごとく!
 復活のキリストを聖書の証によって告白し、信徒と共にキリストとの活ける交わりに導く僕者であり、己を低くして全ての人の足を洗う者であり、キリストの体なる教会を預かり守るため、その為に選ばれた牧会者でなければならないのではないでしょうか。
 家の柱である主人を戦場に送り出し、幼き子を抱え、日々迫り来る生活苦の中にある、母親のために、また、一人息子の戦死の報に接し、悲しみの涙に打ちひきがれた母親の心の中に、福音以外の何も携えず、ただ涙と慰めの祈りを引っ提げ、その中に飛び込み、励まし祈りつつ、主の御名をあがめ、牧師と信徒との主による深い交わり、これが父の牧会の姿であったように思われます。
 田舎牧師かも知れませんが『キリストの僕』となし給う神の選び、その御愛にひたむきに従うダイナミックな献身の姿を今なお思い出します。

戦況

 戦況は日増しに敗戦の色を濃くし始めました。「正義がなぜ敗れるのか?」子ども心に悩み、幾度となく学校の先生に尋ねました。祖国大日本帝国は「神国」である、必ず勝つ、「元寇の戦い」を見よ、「神風」が吹いて勝利に導いた歴史のあるお国柄である、希望を持つのだ!

 先生の言葉に励まされ、今に起こるであろう逆転劇に希望をつなぐのでした。

 しかし、負け戦になるに従って私に対する友人、教師、先輩、近所の人々の態度に変化し始めました。

スパイの子

 教会の建物は小さいながら白い塔のある美しい三階建てでした。

「お前はクリスチャンか」「お前の親父は牧師だ」「あの塔の上には無線機があるだろう」「お前のおやじはスパイだろう!」

 毎日のように「スパイの子」呼ばわりをされ続け、上級生のある者は、私の頬を殴りつけた後「さあ左を出せ」と命じたりしました。

 日本歴史の授業のときでした。
 キリシタン迫害の箇所を学んだ友人たちは、私に対して「国賊」と罵りながら様々な悪戯を始めました。

 聖日の礼拝には『特高』と称する私服憲兵が父の説教をノートし始めました。

 「天皇陛下とキリストとどちらが本当の神なのか、お前はどちらを信じるのか」、など詰問しに来ることも屡々あったとか。

 特攻に付け回されている父を持つ私に、周囲の風当たりは強くなるばかりでした。

現人神である天皇陛下

『天皇陛下は天照大神より万世一系の皇祖を誇る現人神で在らせられる。』

日本国民はすべて天皇のものであり、この机、この鉛筆に至るまで全て、天皇のものでないものは一つとしてないのだ!
大恩の下にある私たちは、天皇の為には喜んで命を捧げるべきである。『天皇陛下万歳!』と叫びながら!

板挟みの中の信仰 

 これが毎日毎日教え込まれる日本国精神でした。

 私は幾度か夢を見ました。
 誰にも負けない立派な手柄を立て、キリスト者として祖国日本に対する忠誠心をみんなに見せ付けてやりたい・・・と。

 私は牧師の子に生まれたことを恨みました。憎みもしました。

 しかし母の血筋よりすれば五代目のキリスト者であるという。その血のなせる業なのか、それとも神が幼き私を苦しめるイタズラなのか、私にとって訳も判らぬただ苛められる毎日に疲れ、泣きながら会堂で祈ることしかない日々でした。

 どのように祈ったか、今は忘れてしまいましたが「苛められないように守ってください」と祈ったのか「苛めっ子に勝てるように強くして下さい」と祈ったのか・・・とにかく幼い時から母によく聞かされた『私のために十字架の上で血を流して下さった優しいイエスさまは、苦しい時も、何時も傍にいて耐える力を与えて下さるのよ。』
 そのイエスさまを信じて祈ったのだと思います。牧師の子に生まれたことを恨みに思いつつも、父や母は常に強い支えでした。信仰の問答がどうであったか今は全く記憶にはありません。

家族だけの礼拝

 空襲はいよいよ日増しに激烈を極めてきました。聖日礼拝も家族だけになりました。
 父は私たちを聖壇の前に立たせ、聖書ヨハネ十五章を読み、私たちにも幾度も読ませました。

『我はまことの葡萄の樹、わが父は農夫なり』 キリストの幹にしっかりと繋がっておれ!

そして、讃美歌・当時二百八十番、を歌いました。

『神はわがちから、わがたかき櫓、苦しめるときの 近き助けなり、
 たとい地はかわり、山はうなばらの、中に移るとも、われいかで恐れん。』

 幾度も幾度も繰り返し歌いました。(父の愛歌でした)

 当時二百七十九番も歌いました。(母の最も愛した讃美歌でした)

 『主よみ手もて、ひかせたまえ、ただわが主の みちをあゆまん
  いかにくらく けわしくとも、みむねならば われいとわじ。
  ちからたのみ ちえにまかせ われと途を えらびとらじ
  ゆくてはただ 主のまにまに、ゆだねまつり、正しく行かん。』

主は言われる、私から離れては何一つ出来ない、私に繋がっておりなさい。(ヨハネ十五・五) 

天皇とキリスト

 『天皇とキリスト』どちらが偉いのか、あまりにも問題が大きすぎたのか、幼い私の質問に父も答えられなかったようです。
 
 当時、これに正面から答えられた牧師は何人あったでしょうか?
 
 答えた方は、即刻刑務所行きでした。

 神学的な答えはあったでありましょうし、聖書的な答えもあったでありましょう。
 確信の中では当然確かな答えを持っていたにも拘らず、世は言論の自由どころか、真理の発言をも嫌ったのでした。
 天皇陛下は神の中の神、いや、全ての神の上の神であらせられ絶対の権威者であられた。絶対君主主義の時代でした。
 幾人の牧師が、真理を口にしたが故に鎖に繋がれ獄死したかわからない、暗い時代でした。

 父の答えは、このヨハネの聖句と讃美歌であったと思われます。
この聖句を決して忘れてはならないと、父は繰り返し繰り返し教えました。礼拝のみではなく、まるで父の執念とも遺言とも思えるほどに毎日この聖書を読ませ、讃美歌を歌わされたので、私たちはヨハネ十五章を覚えてしまいました。

身を捧げる

『己が身を神の悦び給う潔き活ける供え物として献げよ』(ロマ十二・一)

後年、父から聞いたことでありますが、その当時、私ども家族は神の前に活ける供え物として献げられていたのでした。

 空襲は日増しに激しさを加え疎開する人々も増える一方でした。聖日礼拝どころか集会すら出来なくなって来ました。それに伴い、牧師の収入もゼロになっていったのです。

 親子六人の生活をどうすればいいのか、私の中学に進む日も近づいてきます。いかに牧師といえども無収入では生きるすべもない。毎日父母の悩みであったと思われます。収入の途を探し廻ったそうです。

 夜遅くまで母の踏むミシンの音が、受験勉強に疲れた私の耳に、優しい愛の子守唄に思えた記憶があり、今もって懐かしい響きが耳の底に残って居ます。
 生活のために知人の洋裁を引き受けていたのでした。出来上がった洋服を届けに行かされた記憶も多々あります。
 父も母の指導の下にミシンを踏み始めました。練習のためにランニングシャツを縫ってくれましたが、半身ゆがんで着づらいこと、不平を言って叱られたことなど、つい先刻のように思い出します。
 戦時下の内職、とても食ってゆけるようなものではなかったようです。牧師職を続けながらの就職は仲々無理のようでした。

 ある夜、信徒の方のお世話で職の話が成立したのです。しかし、副業ではなく、牧師を辞して正社員としてでなければならない、という条件のものであったようです。

 父は悩みつつも六人の家族のことを思い、決意し、約束を交わし、夜中に帰宅したようです。
 待ち侘びた母に上記の決意を話したのでした。
 しばらく唖然とした顔のまま、母は無言であったという。
 そのうち、『どうか牧師を辞めないで下さい』と言いながら泣き出したという。

父母の情景を想う

 その情景がどのようなものであったのか、今の私には想像できるようです。三人の子供、そして年老いた祖母を抱え、決して丈夫ではない母が、日々の生活に疲れ果て、今日の食事を考え、明日の糧を想わねばならぬ。収入といえば自分のふむミシンのみ・・・全く暗闇の前途、いかに母の血の中に四代にわたる信仰の血が流れていようとも、また牧師の女房であろうとも、日々迫り来る現実を前にしてどんなに思い悩んだことであろうか、育ち行く子供のため、新しい道を! 新しく生きる別の途を選ぶべきではないか、幾度か父に迫っていたのでは・・・

 それは女であり主婦であり、子を持つ母である者にとって『どうして食べていけばいいのですか、どうなさるお積もりですか、私はどうすればよいのですか。』夫である父に向かってつぶやく妻の姿を想像するのです。

『使命感』だけで食えるのだろうか!
現実を見つめた日々の生活の中での口論も度々あったのではないだろうか? 私のこんな勝手な想像もそれほど遠いものではないと思われます。

 その母が、父の決断に断固反対したという。牧師職に執着しなければ生きる途が開かれたというのに!

『どうして食っていくのだ、一家共々餓死するより他ないのだぞ。』
こんどは父が逆に繰り返し説かねばならなくなった。父がいかに説得しようとも、『牧師を辞めないで下さい』と、泣きながら反対し続けたという。

なぜ! なぜなのか!

母の信仰

 牧師を辞すか否かの決断の前に立たされたとき、母の信仰は、新しい炎によって燃え出したのでしょうか。一度献身した牧師が、食わんがために神によって選ばれた聖職を捨てる!

 これに母は耐えられなかったのだと思います。
『鍬に手をかけて後ろを振り返るもの、神の国にふさわしからず。』母の良く口にした聖句であります。

『人はパンのみによって生きるにあらず』の、本当の意味の悟りであったのでしょうか。

『餓死しても構いません、子供たちも共に神の御前に捧げます。』 母は強かった!

 父母は二人で会堂に行き、今までの不信仰を自ら恥じ、罪を懺悔し、あらためて信仰を告白し、涙の中で、父母共々抱き合って神に祈ったという。
そして、新しく生まれた献身の祈りを捧げ、神に誓ったそうです。

 夜中ではあったが、お世話を頂いた方のお宅に就職のお断りに再び出掛けたとのこと。

 気の弱いところもある母、それでいて気の強いところを持った母、矛盾もあり欠点も人並みに備えた普通の女である母、しかし父と共に献身した母は、神によって力を与えられたのであろうか・・・。

『泣く者と共に泣き、喜ぶ者とともに素直に喜び、悲しむ人とともに本当に悲しむ』ことの出来る母でした。

 母の信仰と祈りが神に聞き届けられたのか、間もなく途が開かれ、職が二つも同時に与えられたのです。私が記憶する限り、父が務めた戦時期が、わが家にとって経済的に最も安定した時期であったと思われます。もちろん、お金はあっても物が買えない、物のない時期ではありましたが・・・

学徒動員

 次第に激しくなる戦火に、私を苛める周囲の人も少なくなりました。自分の逃げ場所を求めて、私をからかう暇もなくなってきたのでしょう。

 中学二年で、彦島の三菱造船所に学徒動員として工兵・兵隊と共に労に服しました。父母の下から離れ、工場の寮での生活が始まりました。

『工場は空襲の目標にされるから、もう生きて会えないかもしれないネ。』
母は別れに際して幾度も言いました。

ヨハネ十五章を読み、祈ってもらっての出発でした。

『たとい地はかわり、山は海原の 中に移るとも われいかで恐れん。』

 淋しい折、苦しいとき、今度は一人で祈らなければなりませんでした。もはや生きて二度と会えないかも知れない。目前で船は沈み、共に働いていた友が高射砲の破片で目の前で死んでいく姿を眼の当たりに見ました。死体は毎日のように作業場側に数体打ち上げられ、全く戦争による地獄が展開される日々でした。

原爆投下。そして終戦。

 下関の中心部は大半が焼かれてしまい、八月六日には広島に大変な爆弾が投下され、祖国日本は全滅するのではないかと危ぶまれました。
八月十五日終戦。

 戦いに敗れたのです。必勝を祈り、この手で船を造り、この幼い体で戦いに参加したつもりであったのに・・・。

 私は神でも、天皇でも、キリストでも、また鰯の頭ですらも、勝つ為ならばなんでも信じたかった! 願いと祈りは聞かれなかった。

 全くの希望を失ってしまいました。
 翌日には寮を出ました。自宅に帰ることが出来るのです。父母に元気で再び会える喜びと、負けた悔しさ、聖句を信じたが私の望むところを満たされなかった失望と悲しみ、複雑な気持ちと、止めどなく流れる涙をどうすることも出来ませんでした。
 久しぶりに会えた両親の顔、嬉しさの中にも敗戦の悲しさが深い憂いとなって言葉では言いようもない雰囲気を、ただ呆然と感じるのみ。

 戦争に負けた!私たちが敵の戦車の下敷きにされる姿が目の前にちらついてきます。間もなく敵の上陸と共に日本人は皆殺しにされるのだ! 新しい恐怖と不安とが次第に私の胸を締め付けてきました。

 敵兵がすでに小倉に、また安岡に上陸した、などなどのデマが次々と飛び交いました。若い娘をもった親たちは、列を成して再び慌ただしい疎開が始まりました。街道は正に行列でした。

 父は私たちを部屋に呼びました。当時、教科の建物も、園舎も、また牧師館の半分は、お寺を焼け出された軍隊の宿舎になっていました。残された小さな二部屋と台所が我が家でした。

 部屋に集まった私たちを前に、父は悲痛な顔で、だが落ち着いた言葉で敵兵が乗り込んできた折の心得について話し始めました。

『牧師として祈りつつ対応する積もりである』と言い。しかし、母や妹に対して、『もし辱めを受けるような折には、舌を噛み切って死ぬんだ』と、諭しました。

 戦火の中、動員の間を今日まで生き長らえて来たのだ、再び会えた家族が、また死に別れなくてはならないのだろうか。私は木刀を握り締め、母や妹を必ず守らなくてはならないと思いました。『舌を噛んで死ぬのだ』と、小学生の妹に幾度となく諭す父の悲愴とも思える言葉に私の胸は張り裂けんばかりでした。

親子、久しぶりに聖書を読み、讃美歌を歌いました。

『人が私につながっていないならば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。我が愛に居れ』(ヨハネ十五章)

明日の命もわからないが、今こうして親子が共に会うことが出来、共に居る喜びに、母は私の顔を覗き込みながら笑顔で「こうして会えてよかったネ」と、幾度も同じ言葉をくりかえしました。

 母の信仰は、明日の生命も、私たち家族もすべて神にささげ、

『主よ 飲むべき わがさかずき、えらびとりて 授けたまえ。』
と祈っていたのでしょうか。

第一部・戦争 ー終ー

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