目醒めー記憶喪失、歩行不能、嚥下障害を経て/SLE(全身性エリテマトーデス)という難病とともに生きる(20)

<2018年1月>

 一週間が過ぎ、私は更に皆が驚く程の回復を見せた。歩行器を使って自分で歩いたり、尿意をきちんと感じて、自分からトイレに行ける様にもなった。主治医の治療方針の説明通り、頻度の上がったリハビリでは階段の上り下りをし、 ペースト食が始まったと思えば、すぐに お粥に切り替わっていった。
 あの時の、ひと月半ぶりに口から入れてもらったプリンの味の何と美味かったことか。とても素朴なものだったが、強烈な甘味を感じて心から感動したほどだった。

画像1

 仕事や育児に忙しい妻に代わって、母が私たちの自宅に残って、毎日見舞いを続けてくれていたのだが、 母は私の為に、図書館で本を借りては持ってきてくれていた。子供の頃と違い母はもう高齢だが、再び私の為に手を尽くしてくれた。そして、再び心を痛ませてしまった。
 私は、単に暇だったからという訳ではなく、言わば、この世に"生"を取り戻した喜びからか、自分が能動的に行動できることを満喫すべく、それら本を無我夢中で読破し、その結果、見舞い客用の椅子の上には、本が山積みになっていた。 

 妻もある程度は状況の変化を聞いていたものの、 ほんの二週間前とはまるで違う、普通の大人の人らしい一日を送れている私を見て、衝撃を受けていた。何故なら、私の家族は皆、私がもう歩くこともないと思っていたし、元の生活が出来る保証はないとさえ言われていたのだから。

「あの先生が主治医だったんだ?」

 私は、待てど暮らせど主治医が診に来てくれない、退院して良いって確かにこの耳で聞いたはずなのに、いつまで経っても相談できない、そんな風に長い間思い悩んでいた。だが、それを母や看護師に言う度に、「毎日診に来てる」「とても頼れる先生」そんな風に諭され、より一層、何でだろうなぁ俺がいつも寝てる時に来てるのかなぁなんて、頭の中で考えていたのだ。
 その私の夢想と現実にギャップがあった理由は、私の中で主治医イコール白衣、だったのだが、その病院での医師の制服は違っていて、もっと今風だったのだ。だいぶ良くなってからも「私のこと分かりますかぁ」と、声をかけてくるその人を、私はリハビリの担当者か何かかと思っていたが、その人こそ、私の命の危機を救ってくれた主治医だった。だが、そもそも始まりが始まりで、きちんと挨拶すら出来ていなかったので、分かるも何も無く、完全に突然、私の前に現れた様な感じだった。

 こうして私は、大方の予想を裏切り、短い距離であれば支えも無く歩ける程に回復し、X大での治療を終えた。そして、日常生活に足る筋力の回復や、頭脳的な作業を目的としたリハビリを継続する必要性から、元のかかりつけ病院へ転院する事となった。1月の中頃の事だった。

〜次章〜舞い戻った場所

ありがとうございます!この様な情報を真に必要とされている方に届けて頂ければ幸いです。