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僕らは未だ天動説の世界に生きている!?【事実と知識と身体知の関係】

皆さんに聞いてみたいことがあります。地球が自転していることは当然のように知っていますよね?

では地球の自転を「実感」したことのある方はいますか?

これ、ほぼいないと思います。

そう、僕らは知識としての自転を知っていても、実感としての自転を知っている人はそうそういないはずなんですよね。

知識は自転・公転に基づく地動説の世界に生きていながら、実感は未だに天動説の世界に生きている。それが僕たちと言えてしまうのではないでしょうか。


01.実感(身体知)としての地動説・天動説


もし実感としての自転を理解していたらどうなるか。きっと、自転の速度を体感しているはずですよ。

ちなみに自転の速度は赤道直下で時速約1,700kmほど、日本の緯度では時速約1374kmほどです。そんな速度を体感していますか?、していないんですよね。

地球の自転を実感できないのは重力の存在や大気も含めて一緒に移動しているから。電車が動いているときも外の景色を見なければ速さを感じない現象と似ていますよね。

さあ、少し目を閉じて瞑想してみましょうか。自分の意識を外界に向けて呼吸に集中してください・・・

さて、いまここで「ジェットコースター」に乗っているようなイメージを抱いた方はいますか?、そうそういないですよね。

でも、事実として僕らは地球と一緒に時速約1374kmで東の方向へ向かってブン回されています。

今あなたがお布団でぬくぬくしているとしても、朝ごはんをテーブルで味わっているとしても、恋人とイチャイチャしているとしても、家具や建物や周りの人と一緒に時速約1374kmで東の方向へ向かってブン回されています。

科学の進歩によってあるタイミングで「知識」はアップデートされました。でも僕たちの実感はアップデートされていません。

ここでは実感を「身体知」と表現することにします。

もし、僕たちの「知識」が天動説から地動説にアップデートされたときに、同じように「身体知」も天動説から地動説にアップデートされていたら何が起こったかを想像してみましょう。

きっと、僕らが当たり前に使っている「言葉」が変化したはずなんだと思うんですよね。でも、言葉は変わっていません。相変わらず天動説を土台とした言葉のままです。

相変わらず「日が昇る」と表現するし「夕陽は沈む」わけです。この表現が天動説に基づいていることは、もうお分かりでしょう。動く主体が太陽であり、地球が動く主体の表現ではありません。

地動説をベースにしていたとするならば、きっと「太陽に近づく」とか「日から遠ざかる」みたいな表現になっているのではないでしょうか。

朝日を見て「太陽に近づいてきたぞー!」とは、あまり言わないですよね?

もしかしたらコレは「身体知」がアップデートされていない一つの証拠と言えるのかもしれませんね。

特にこの天動説・地動説については、身体知がアップデートされ事実と一致してしまったら、もう普通に生きていくことがままならないでしょう🙄



02.認識をカタチづくる知識と身体知


さて、このテーマの肝はどこにあるのか。

よく言われることとして「事実」と「知識」のギャップ・ズレが問題視されています。Factを掴むことの大切さは、これまで以上に複雑になってモノが見えにくくなる世の中で大切になっています。

でも実は「知識」だけでなく「身体知」も存在します。ここでは「認識」を知識と身体知からなるものとして表現しますね。コレも一致していないケースも多く、その不一致をどう捉えるかも大切になってくると思うのです。

「事実」と「知識」が一致しているのに「身体知」とは一致していないのが今回取り上げた天動説・地動説についてです。

もしかしたら「知識」と「身体知」が一致しているのに「事実」と異なっているときは認識を動かすのがハードかもしれません、そもそも「事実」に合わせる必要があるテーマかどうかも分かりません。

「事実」と「身体知」が一致していて「知識」だけズレているときはアップデートが容易かも、もし「事実」と「知識」の比較だけでは認識をアップデートできなかったとすれば「身体知」からもアプローチするのは有効かもしれません。

「事実」「認識」「身体知」の全部がズレている場合はどうしましょうね、ここで何に軸を置くかに自分の価値観が現れてきそうです。

「事実」が必ずしも100%固定すべき座標というわけではないと思います。ときに何を軸にするかで、その先の自分が辿る道のりも変わってくる。その軸をどこに・どうやって置くかに意識的でいた方がいいと思うのです。

別に事実偏重になるつもりも感性偏重になるつもりもありません。根本的には「どう捉えてもいい」が僕のベースです。

だけど、もしかしたらコレは今まで考えてもいなかった観点かもしれません。「事実」と「知識」だけを比較するのではなく「身体知」も一緒に考えてみると、ちょっと面白い認識のあり方が見えてくる。

この構造の中にある「ズレ」と「一致」に目を向けると、一気に世界の捉え方が多面的になります。視点を拡張していくなかで、では自分がどう捉えるのかを自己決定していく。そのための材料だと思います。

新しい捉え方を得て、今日も自分のあり方を自己決定する。そんな自分でいたいものです。

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