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青山ブックセンター六本木店を悼む

青山ブックセンターの存在を初めて知ったのは、江國香織の本の中だったと記憶している。
中学生の時、江國香織の本を好んで読んだ。文章の温度、ひらがなと漢字のバランス、登場人物たちの憎めなさが好きだった。
東京の街に愛着がわいたきっかけも、今思えば彼女の作品の舞台の多くが東京だったからかもしれない。

青山ブックセンターが閉店するというニュースは、あまりに衝撃的で、私は思わずその場で立ち止まってしまった。

本屋よりも書店という言葉の方が似合う気がする、あの空間。居住まいを正して入らねばと思う、緊張感。雨の記憶が多いのは、雨宿りを口実に訪れることが多かったからか。
圧迫感があるほど狭すぎず、途方にくれるほど広すぎもしない一階で、並べられた雑誌に視線をやるのが習慣だった。淡々と、しかしさりげない気遣いをしのばせる店員との距離感も気に入っていた。

二階での滞在時間は、望むと望まざるとにかかわらず、長くなりがちだ。見るべき本が多すぎるからだ。ありとあらゆるジャンルに渡る文庫、語学の本、美術や映画の本。そうだった、時間ができたらこんな分野のことを知りたいと思っていたんだった、生活の中で頭のどこかに追いやった好奇心を刺激してくれる本たち。

そういう出会いを大切にしたいので、青山ブックセンターにはひとりで訪れるのがもっとも相応しいと思う。誰かと連れ立って「この本読んだ?」「これおすすめだよ」と嗜好を伝え合うのもたのしいけれど、この場所では是非自分自身と対話したいのだ。

なんて惜しい空間を失ってしまうのだろう。此処に行けば絶対に、今の私に必要な本に出会えるという信頼がある場所なんて、そうそうない。

Amazonでも本は買えるけれど、読むべき本に確信を持って出会うことはできない。戦利品の重みを感じながら帰路につくことも。

閉店までまだ少し時間はあるけれど、私は既にわかっている。
これから先、突然の雨に立ち往生したとき、時間を持て余したとき、酔いきれずに飲み会を終えてどこかをふらつきたいとき、私は最早この書店のない六本木を恨むだろう。足早に通り過ぎる人たちの中で、青山ブックセンターを失った私は、どこにゆくべきか途方にくれるに違いない。
そしてこの空間が無くなることで、私が出会えなくなる私たちもまた、六本木の街でさまようことになるだろう。

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