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【時計じかけのオレンジ】(ネタバレあり)映画と原作、それぞれの魅力がある

オススメ度(最大☆5つ)
☆☆☆☆☆

〜ハラショーな映画原作〜

スタンリー・キューブリック監督の「時計じかけのオレンジ」は僕の大好きな映画のひとつだ。最初に観たのは18か19の時だったと思う。こう言うとなんだが、暴力の興奮を教えてくれた映画である。

主人公のアレックスが冒頭から犯罪をしまくる様は、非常に痛快で刺激的だった。いやらしくも怪しげな造形のセットや色使いに視覚的にも衝撃を受けたし、こんなにハラショー(作中で使われるスラング。「素晴らしい」という意味)な気持ちにさせられた快感は今でも忘れられない。

さて、映画に出会って十数年。原作小説を今回初めて読んだのだが、これはこれで衝撃的だった。
ネタバレを含むので詳しくは後述するが、原作の最終章は映画では削除されており、この最終章の有無で「時計じかけのオレンジ」という物語の印象とメッセージ性が大きく変わる。

ちなみに著者のアントニイ・バージェスはキューブリックにより最終章を削除された映画を嫌っていたそうだ(「シャイニング」もそうだが、キューブリックは原作を破壊することで有名で、だいたい原作者から嫌われている)だからと言って、僕はどちらが好き、ということは決められない。
キューブリック版の「時計じかけのオレンジ」も原作の「時計じかけのオレンジ」も、大好きだ。

キューブリックの「時計じかけのオレンジ」が好きな人は、また違う解釈として、原作を読んで楽しめるだろうと思う。



以下、ネタバレ!


〜(ネタバレあり)削除された最終章〜

さて、キューブリック版では映画の結末は、アレックスがルドビコ療法による条件付けを解かれて「これですっかり元通り」と宣言するところで終わる。しかし、原作にはもうひとつ章が存在し、その章ではアレックスは昔の仲間ピートに出会った事で、大人になることを考え始める。

あとがきによると、この最終章の削除は、米国の出版社が「ハッピーエンドにするために付け足したもの」と捉え、カットを要求したためだそうだ。そして、その削除を踏襲したまま、米国では削除版が重版され続けていた。
キューブリックが原作を最初に読んだのもこの削除版だった。その後、キューブリックが脚本をほとんど書き上げたところで完全版を読んだそうなのだが、キューブリックはその最終章に納得がいかず、結果映画にもその最終章を含めることはしなかった。

さて、キューブリック版の場合、「これですっかり元通り」という場面で終わることで、この物語は「押さえつけることの出来ない人間の暴力衝動」を伝えているように感じる。
しかし、原作においては、最終章により「暴力衝動は思春期に誰でもあるもの」程度にしか捉えていない。いわば、いずれ収まるものを政府などの強大な力で押さえつけても意味がない、と制度や法を鼻で笑い飛ばしているようにもとれる。
本文の「人は自由意志によって善と悪を選べなければならない。もし善だけしか、あるいは悪だけしか為せないのであればその人は時計じかけのオレンジでしかない」というセリフにもあるように、人は善悪を選択する自由意思がある。政府に善や悪を決められるような社会主義的な世界は間違っている。最終章でアレックスは自分の意思で、善を選ぼうと歩み出したのは、自由な世界で生きる人間全てに対する、「人はいつでも変われる」という救いのメッセージなのではないだろうか、と思うのだ。

とはいえ、前述した通り、僕はキューブリック版と原作、どちらが良いかは決められない。
どちらもそれぞれの魅力があるからだ。

僕にとってラッキーだったのは、欲求にまっすぐだった10代のころにキューブリック版を見て、35歳のオトナになってから原作を読んだことだ。
順番が逆だったら、おそらく両方に何も共感はしていないだろう。大人になってからキューブリック版を見たら「下品な映画だな」と思ってただろうし、10代のころに原作を読んでたら「とってつけたようなハッピーエンドだな」と感じていただろう。

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