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日記からの随筆(・?・)「暇な日々に考えること」

ただ映画を1日中見る日があったとして、何故か充実しない場合がある。

仕事頑張った日のご褒美として映画を1本見た時の充実のは桁違いのものがある。

1日中映画を見るのを超楽しめるのは、1週間頑張ったご褒美の場合だ。

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最近の日々の中でご褒美のようなものが無い。学生は、暇を何にでも使えるのだ。こうなって気づくが、僕はついに刺激が足りなくなった。読書・映画・アニメを見てて、その行動に飽きてきた。脳がもっと刺激を欲するようになってしまった。。これすなわちドーパミンが調子こいてるのだ。ドーパミンが出てきてくれない。つまり、脳が堕落生活に慣れ、罰としてドーパミンのお預けを食らっている。目標達成や新たな経験など、刺激を与えないと脳が餓死する。

もう1度言うが、脳の報酬であるドーパミンは、前の刺激を超えるなど、何か新鮮なことをしないと出ない。脳はドーパミンを得るのために労働をしなければならない。何か目標を立てるなり面白さを感じなければならない。

僕は学生で今テレワーク状態だ。自分次第だが仕事量は圧倒的に減ってしまった。家にいると自由自在に堕落できるが、それは最初こそ楽しいが、すぐに更生したくなるものだ。この話は、ビジネスマンが「お金だけあっても愛は買えなかった。。」というような事に似ていて、ドラマチックな人が「愛を尽くしてくれてありがとう。もう充分よ。さよなら。」と言っているのにも似ている。つまり程々でいいのだ。僕は今自由に対して困っている。

あーー、そんなの当たり前である。だからどうしたという訳でもないが、つまり暇なのだ。

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ここでひとつ不思議だなーと思うことがある。

たとえば昨日、気分転換に小さな木材を買ってきて、カッターで切って形成して遊んだ。楽しかった。

しかし、それが無ければマジでうんこな日だった。

木の形成とかどうでもいいし、特に意味をなさないことなんだが、それをする事でちょっと充実した気になった。

すごくしょーもないが、これがなんか不思議だった。

他にも、今日は就職試験のWEBテストを受けた。別に入りたいと思ってるわけじゃないのに、受験しただけで、今日の仕事をした気分になった。

全然意味無い行動だが、充実した気分になる。

まあ、木の形成も余計な就活も、もしかしたら将来に繋がる要素が1mmくらい無くもないから、充実を覚えたのかもしれない。

しかし、本当に意味無さそうなことで充実を覚える例はある。例えば、、、1ヶ月後には捨てるであろうドングリを磨くとか、明日の雨で綺麗になることが分かっていながら窓を拭くとか。。。それでも充実するのだ。。。心が。。。まあ正確には、意味は見いだせるけども。。

意味を見いだせるから充実するのか?いや、そうではない気がする。

子供を見れば分かる。何故か楽しそうにしてる。シンプルに、その時楽しいように行動しているだけだ。そこに意味は求められてない。

話は飛躍するが、究極的には、何にも意味は無いと思えてしまう。逆上がりできたらからって何だと言うのか。

しかし、頑張った後に何が残った訳では無くても、過程は充実していたりする。意味があると信じていたものに意味が見いだせなくなり絶望しても、過程が充実していたことは変わらない。

それならそれでいいのか?

何かを目指すことで、それが達成されるまでの期間の楽しみが担保される。だが達成しても特に意味はない。

まあ、意味が無いと仮定すると、後で絶望せずに、達成するまでの過程だけ楽しめる。

しかし、意味が無いと思うことに対して過程を楽しめるかと問われれば疑問が残る。

ここで僕なりの解決策は「人の立てた方針や目標に従い、意味は他人に任せた上で実行する。そして、その過程の楽しみは頂戴する。」ということだ。まあ、その実行という部分には、もちろん全力を尽くして取り組むつもりではある。

こんなことを書いてる僕は、すごく情熱なさそうですね(笑)

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最後にするが、今までずっと「目標を立てろ。目標を立てる事で実現が近づく。」と教わってきた。

だがその時と比べて今は、目標に対して捉え方が変わった。

「目標を立てると、達成されるまでの過程を楽しむことができる。」というスタンスで目標を使っていこうと思う。

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