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冬の日誌

今年ほど、新年という実感のすくない年ははじめてで、なんとなく冬の空気に押し込められているような、静けさや暗さの方につよく引っ張られる感じがつよい。なぜなのかは不明。

正体不明の不安に駆られることは時々あるけれど、ひさびさに、おっとこれはいけねぇ。というかんじ。なぜだろうか。

人より自信があるわけでもないし、人より自信がないわけでもない。そして人と比べることに何の得もないことはとっくにわかっているし、そこに価値を見出さない。それなのに、今夜はすこし誰かと話したいような気持ちで、かといって連絡するのは億劫で、とぼとぼ帰る。青葉市子の歌声がわたしの薄い部分に容赦なく沁み渡る。

正月に、ひさしぶりに父に会い、はじめてすきな本について聞いた。むしろなぜ今まで聞かなかったのか。

藤沢周平、池波正太郎、松本清張あたりをなんどもなんども飽きるほど読んでいるらしい。こんなふうに父の私的な部分に触れる話を今まで聞いたことがなかったことに思い当たり、これからあと何回できるだろうと考えるけれど、それならばこれからはもっとコミュニケーションをとろうと思えるほどの勇気はもうない。いつもひとり帰っていく父の背中はさみしくて、なんだかなぁ。
ほんとうは、最近は絵を描いているの?といちばん聞きたかったけど、聞けなかった。せめて今年は父のすきな本をどれか読もう。


そして、年明けからオースターの『冬の日誌』をちみちみ読んでいる。

まるでオースターの走馬灯をみているような感覚になる。断片につぐ断片。少年時代のこと、青年時代のこと、執筆当時のいまに至るまでの後悔と喜びと、焦り。こちらから見たら特別なことなど何もないように思えるできごと。でも、オースターの頭の中では消えずにありつづける記憶たち。

なんとなく、歳をとってから読んだ方がいいかなぁと思っていたけど、いや今読んでよかった。だって歳をとってからじゃ、オースターの感覚をなぞるだけになってしまいそうだから。わたしにもそんな時があったかと思うだけになりそうだから。でもやっぱり、歳をとってからも読みたいけれど。

いま語れ、手遅れにならないうちに。そして期待しよう、もう語るべきことがなくなるまで語りつづけられるようにと。なんといっても時間は終わりに近づいている。もしかしたらここは、いつもの物語は脇へ置いて、生きていたことを思い出せる最初の日からいまこの日まで、この肉体の中で生きるのがどんな感じだったか、吟味してみるのも悪くないんじゃないか。五感から得たデータのカタログ。呼吸の現像学、と言ってもいいかもしれない。
ポール・オースター『冬の日誌』

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