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【感想文】越年/岡本かの子

『加奈江ちゃん Goes Down』

本書『越年』読後の乃公だいこう、愚にもつかぬ雑考以下に捻出せり。

▼あらすじ:

堂島が加奈江を不意にビンタ → 加奈江が仕返しのビンタ → 堂島から釈明の手紙が届く → 堂島は加奈江のことが好き → まんざらでもない加奈江 → 銀座にレッツゴー → 【完】

▼序論 ~ 愛憎について ~:

人間同士が感情的・非合理的な繋がりで引き付けるものが愛情である一方、憎しみは対象に敵意を持ち排斥することであり、愛情と憎しみは両極をなしているが、両者はそれぞれ独立しているわけでなく、表裏一体とする考え方を精神分析学において「両面感情(ambivalence)」という。これを踏まえると、堂島が愛する加奈江を殴ったこと、殴られた加奈江が堂島に惹かれて再会を望んだこと、この二点は表面上は自然な心理と見なせそうだが経緯が不明である。そこで今回、精神分析学を用いて堂島および加奈江の真意を解説する。

▼雑考① ~ 堂島の性的倒錯および自己愛 ~:

堂島の場当たり的な退職理由および唐突なビンタは幼稚である。彼は性的な分化ぶんかがない。つまり、彼の性的欲望は幼児同等の不定さのまま大人になったのである。これを「性的倒錯せいてきとうさく」という。その傾向として例えば、相手に攻撃を加えて苦しめることで満足を得ようとする可虐性愛かぎゃくせいあい(sadism)、自らを苦しめることで満足を得ようとする被虐性愛ひぎゃくせいあい(masochism)が挙げられる。「加奈江を殴った」という点で堂島は可虐性愛者の可能性があるが、殴ったことで彼が性的な快感・興奮を得たのかは作中から読み取ることができない。が、彼の「自己愛(narcissism)」が利己主義を促して可虐性愛へと発展したと思われる。というのも、堂島の手紙によれば加奈江を殴った動機に、

<<僕は令嬢というものに対してはどうしても感情的なことが言い出せない性質>>
<<いっそ喧嘩でもしたらどうか。或あるいは憎むことによって僕を長く忘れないかも知れない。>>
<<僕もきっかり決裂した感じで気持をそらすことが出来よう。>>

青空文庫より抜粋

とあるように、加奈江に対する配慮が欠けており、彼は彼自身のことだけに関心を示しているからである。彼は自己愛が強い。自己愛者の特徴は、自己愛が強ければ強いほど羞恥心も強くなり、また、自己愛が傷つくと激情を表す為、堂島はその心的作用により加奈江を殴ったものと思われ、そうした彼の手紙の内容を換言すれば「己の保身のために殴っちゃうぐらいシャイなオレを愛してくれますか?」の一点張りでしかない。では、その歪んだ愛情を受け入れた加奈江とは一体どういった性質の女なのか。

▼雑考② ~ 加奈江の異常心理 ~:

加奈江は被虐性愛が強い。被虐性愛者は罪悪感、無価値感を抑えようとして苦痛を求め満足を得ようとする特徴を持ち、作中の「仕返しビンタ」「手紙の読後、堂島を探し求める行動」がそれに該当しており、<<このまま別れてしまうのは少し無慙な思いがあった。>> と、彼女の堂島に対する罪悪感が窺える。ただ、加奈江の被虐性愛も堂島同様、性的な快感・興奮を得たのかどうかは判別困難だが、彼女は「道徳的被虐性愛(moral masochism)」の可能性がある。これは前述の被虐性愛の様に性的な意味合いはなく、苦痛に耐えることが道徳的であるとする考えであり、つまり、無意識的に罰を求める要求である。例えば、普通なら幸福や満足感を得て当たり前の状況にも関わらず、不安に襲われたりあえて苦痛を受けようとする異常な心理がそうであり、ひょっとすると彼女は堂島にもう一発殴られたいのかもしれない。

▼補遺:

「脅威アピール(threat appeal)」というコミュニケーション手段がある。これは受け手を脅して恐怖心を呼び覚まし、次にそれを解消・緩和することで内容を相手に受け入れさせるという方法である。心理学者のジャニス(Irving Janis)の実験結果によると、過度の恐怖心に訴えるこの方法は恐怖の度合いが強いほど説得の効果も大きいのだという。とすれば、加奈江は堂島による脅威アピール操作の餌食になったようなものである。

といったことを考えながら、今回ぼくが一番言いたいのは「岡本かの子は絶世の美女である」ということです。

◎参考文献:
・ナルシシズム入門/フロイト
・ラカン入門/向井雅明
・Communication and persuasion: Psychological Studies of Opinion Change/I.L. Janis, 他

以上

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