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優れた人は、読書家である

ちょっとびっくりした。

1つ前で『時間は存在しない』を紹介したnoteの反響のあまりのなさに。

自分ではとても面白い本だと思って紹介しただけにこの反応の薄さは予想外。
内容的にも「時間が存在しない」という衝撃的なことを物理学的に分かりやすく教えるものだし、世の中的にもよく売れてたりもするから、自分自身の紹介の仕方がよくなかったのかなと反省している。

まあ、それは仕方がないこととして、今回は、その本の内容自体の驚くべきすごい思考の展開もさることながら、もう1つ驚かされた著者のカルロ・ロヴェッリの読書範囲の幅広さを手始めに、「読書家」について書いてみようと思う。

優れた人は、読書家である

優れた人は、読書家である。

そう思う。僕はずっとそう思っている。

『時間は存在しない』の著者カルロ・ロヴェッリもそうだ。
時間が存在しないことを示す彼の思考の展開はものすごく優れたものだと思ったし、同時に、彼が読んでいる本の幅広さもすごいと感じた。

ジャンルも、時代も、地理的な区分も、まったく気にすることなく、ロヴェッリはさまざまな本を読んでいる。

クラウジウスやボルツマン、ニュートンやアインシュタインなどの科学者の著作を読んでいるのは当然だし、プラトンやアルキメデスをはじめとして、カントやフッサール、ハイデッガーらの哲学者の著作にも言及されるのも、まあ想定内だ。

でも、「事物は〈時間の順序に従って〉変化する」という言葉を引用する、古代ギリシャの哲学者のアナクシマンドロスや、各章の冒頭で引用される古代ローマ時代の詩人ホラティウスの『歌集』になると、理論物理学者もこういう本を読むのかと思えてくる。

それだけではない。
ソフォクレスの『オイディプス王』が呼び出されたり、シェイクスピアのいろんな作品への言及、リルケの『ドゥイノの悲歌』からの引用、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』から漂うマドレーヌの香りにまで言及があるように、文学作品にも幅広い関心が寄せられる。

自由な思考は、思考領域の自由さから

そうかと思えば、古代キリスト教の神学者であるアウグスティヌスの時間の捉え方をはじめとして、6世紀から7世紀にかけての中世初期神学者イシドールス『語源』や、それから1世紀後のイングランド聖職者ベーダ・ヴェネラビリス『時の分割について』、さらに時代が下った12世紀のユダヤ人哲学者・マイモーンのなかに「時間が粒状で、最小幅がありそうだ」という量子物理学的な時間の捉え方の起源を見出したり、14世紀のスコラ学の神学者オッカムのウィリアム『自然哲学』には「人は天空の動きと自分のなかの動きをともに観察する、それゆえに、自分自身が世界と正しく共存ふることで時間を知覚している」という、後のフッサールやハイデッガーにつながるような時間と精神の関係への言及が昔から存在していることを指摘するなど、さまざまな神学者の著作からも時間がどのように捉えられてきたかを探る。

すごいなと思ったのは、その読書領域が西洋の書物にとどまらない点だ。

パーリ語の仏典『ミリンダ王の問い』や『マハーバーラタ』まで参照される。

ミリンダ王はナーガセーナに問う。
「師よ、髪の毛がナーガセーナなのですか。爪が、歯が、肉が、骨が、なーかなのですか」と。

それに答えて、ナーガセーナが言ったのは、
「馬車とは車輪なのか。車軸なのか。それとも枠組みか。馬車は部分の集まりなのか」ということだ。

こうした話を引きながら、ロヴェッリは「わたしたちは、時間と空間のなかで構成された有限の過程であり、出来事なのだ」という。

ならば、こうした彼にとっては遠い異国の、遠い時代の、遠いジャンルの仏典の引用さえ呼び出されて構成されているロヴェッリという人物は、まさに、膨大かつ多様な読書を通じて、構成された素晴らしき過程だといえる。

「時間が存在しない」ことを自由な発想で読み解く力は、時代にも、文化にも、学問的領域にも囚われない自由な読書体験を通じてはじめて形成されるのだと思う。
それをあの人ははじめから優秀だなとと考えるのは、ただの知的に怠惰な人の言い訳だ。

読書がつなぐ知の結び目

もちろん、多様かつ多量の読書体験によって構成された人は、ロヴェッリに限らない。科学者に限ったことでもなく、ビジネスの領域にいる人だって優れた人はみんなたくさんの本を読んでいる。

教養がなくては「優れた」という状態を構成することはできない。少なくとも、知的に優れた状態を構成するには、ある程度以上の読書家である必要があるだろう。

この構成を考える際、つまらぬディシプリンは不要だ。
学問領域などというつまらないもので、異なる分野の知見同士の自由な連関から新たな発想が生じるのを妨げるのは馬鹿げている。
自分はビジネスの世界に生きる人間だから、ビジネスのこと、せいぜい創造性の名の下にデザイン思考だとかアート思考だとかまで手を伸ばせば十分だなどと思っているから、大したアイデアも生み出せないのだと思う。

ブリュノ・ラトゥールが、ヨーロッパ近代が自然とか社会とか持ち出すことで両者それぞれに属する(とする)もの同士の交通を遮断しようとしたことを糾弾するのも同じことだ。

近代主義が行き渡っているところでは、社会的なものの構成を精査することは、どのような形であれ、非常に困難であった。自然と社会を同時に脇におけば、多くの新たな構成子からなる集合体を組み立てることを本当に難しくなる。

「ANTはそのことに今一度敏感になろうとしてきたのである」ということが、まさに『社会的なものを組み直す』でラトゥールが主張しようとしたことの1つだろう。

「行為は自明なものではない」とラトゥールはいう。
それは優れた行為であっても同じだ。

優れた行為を行う者が、それを自明なものとしてやっているわけではない。
「行為は、意識の完全な制御下でなされるものではない」ともラトゥールが、言うとき、それが行為する者の完全な意識的制御のもとで行われない理由は、それがある種のネットワークの中、系の中で行われるものだということを明らかにしたいからだ。

行為は、数々の驚くべきエージェンシー群の結節点、結び目、複合体として看取されるべきものであり、このエージェンシー群をゆっくりと紐解いていく必要がある。この由緒ある不確定性の発生源こそが、アクター―ネットワークという奇異な表現で蘇らせたいものである。

結局、この結束点、結び目、複合体を生み出すため、それらが優れた連関を生み出すものになるためには、読書を通じて得られる数々の知が必要だ。
その知のネットワークは、既存の領域、時間、場所を超えていればいるほど、常識にとらわれない発想も可能になる。

よく言葉をうまく表現にまとめられないとか、考えがうまくまとまらないとか、それに時間がかかるとかいう人がいるが、そんなの理由は単純で、徹底的に読書量が足りないのだと思う。
もともと自分のなかにある知の総量が不足していれば、その時々に適切な言葉や考えを構成するような、結び目、結束点、複合体を構成するようなことができる確率は小さくなるのは当たり前なのだから。

優れた人は、読書家である。

それが真である以上に、その逆は真だと思う。


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