デザインと言語化2

デザインや美術作品などの視覚的なものは言葉にしにくい。
そんなことを時々聞く。

「観る者の精神状態」により「作者の意図に呼応しながらも、観る者の介在によってはじめて完全に存在しうる」、「曖昧で、不確定的で、多義的で」あるような美術作品(主に絵画)について考察した『潜在的イメージ』で、著者のダリオ・ガンボーニは、こう書いている。

観る者が(物質的対象としてではなく生成プロセスとしての)芸術作品の生成に貢献している事実を重視するとき、「潜在的イメージ」という概念は、視覚芸術という範疇を超えて、コミュニケーションと意味作用に関わる重要な問題を引き起こすことが明らかとなろう。じっさい、こうした場合には、イメージに本来的な根本的曖昧性がしばしば指摘されてきた。

コミュニケーションと意味作用という観点でみたとき、視覚的に表現されたイメージが、言語的な表現に比較して、何を示しているかという点で「根本的曖昧性」があるというのは、ここに書かれたとおりだろう。

ガンボーニが引くウジェーヌ・ドラクロワのこんな言葉にも、視覚表現がもつ言語表現以上の、不確定性や多義性は思い起こされる。

「美しいタブローに、ひとつの定まった思想しか見出さない人は不幸である。また、想像力豊かな人に対して、完成されたもの以外には、なにも提示しえないようなタブローも不幸である。タブローの価値は、定義しえないもの、正確さから逃れてゆくもののなかにこそある。要するに、色彩と線に魂を込めたものが、魂に語りかけるのだ」

定義しえないもの、正確さから逃れていくもの。そうしたものが視覚表現の魅力の1つであることは紛れもないことだと思う。

けれど、だからといって、視覚表現は常に曖昧で、言葉による表現のほうがコミュニケーションの際に意図が伝わる可能性が高いということにはならない。
そもそも「百聞は一見にしかず」という言葉があるとおり、言葉でいろいろ説明したりするより、説明しようとする対象を写真で見せたり、簡単な絵にして説明したりするほうが伝わることはよくあるからだ。

だから、視覚的な表現が一概に曖昧というのは間違いだと思う。
言語表現に比べて遥かに説明的である場合だって多々あるのは、いま示したとおりで、言語が一度にひとつのこと意味しか伝えられないのに対し、視覚的な表現は多義的であるゆえに一度に複数のことを伝えられる。

そうした違いがあるだけで、言語表現と視覚表現のいずれがより曖昧だということでもないし、説明に向いているかどうかを単純に比較すること自体に意味がないと思う。

翻訳だからむずかしさやスキルの必要性があるのは当然

ここで最初の話に戻ってみる。
視覚表現であるデザインを、それとは異なる表現としての言語で説明することに際しては、まあ当然「しにくさ」はあるだろう。

しかし、それはある表現から別の表現への翻訳にともなう「しにくさ」であって、視覚表現だからという特別な話ではないことはすこし考えればわかる。
音楽を言葉にすることだって、スポーツの動きを言葉にすることだって、当然同じようにむずかしい。何より、言葉で書かれた詩や小説のような作品を別の言葉で説明するのだって、変わらぬ「しにくさ」がある。言葉による表現同士でさえそうなのだ。

言語に「しにくさ」があるのは何も視覚表現の場合に限らない。

そう考えると、デザインや美術作品などの視覚表現を言葉にして説明できないのは、それをしようとする人の言語化のスキルの拙さの問題であって、視覚表現そのものの問題ではないことがあらためてわかるだろう。

なのに、自分が言葉にできないのを、自分たちが携わり愛着を感じてもいるはずのデザインや美術のせいにして、自分のスキルのなさやそれにともなう怠惰を棚に上げてしまうのは、あまりにかっこわるくはないだろうか。
いや、そんな姿勢で自分の仕事に向きあっていたのでは、その仕事もなかなか良いものにはなりにくいはずだ。

何を表現したいか、何故そういう表現したいか

その意味でも、言葉にするのは、自分以外の人に説明するためだけに大事だと言うわけではないと思う。
自分にとっても自分が行なっている視覚表現が何かを言葉でもちゃんと理解することは必要だ。

いまから6年ほど前、十和田現代美術館で行われた十和田アーツキャンプというものに参加したことがある。

当時、十和田現代美術館の副館長だった(その後は館長もつとめた)アーティストの藤浩志さんの企画によるもので、その数ヶ月のちに行うことを目指した十和田湖周辺でのアートフェスティバルの参加アーティストを見つけるための3日間のキャンプで、なぜか10数名の若手アーティストやキュレーターなどに混じって参加した。
十和田湖周辺の廃業したホテルや旅館の廃墟化した施設をフィールドワークしてまわったり、アーティストたちといろんな話をしたりしたのは面白い体験だった。

そのキャンプの夜、みんなでお酒を飲みつつ藤さんが若手のアーティストに「自分が何を表現したいか、何故そういう表現したいか」を問い、問い続けることの重要性を語っていたのを思い出したことが、実はいまこのnoteを書いているきっかけだったりする。
アーティストそれぞれが自分が現に用いている表現手段を選んでいる理由としてのオブセッションやら、欲望の根源を自分自身で問い続けること。そうした根源的なレベルでの活動の言語化、自覚化があることで、個々の作品制作においても「何故その作品はそう創られるのか、そう創られなくてはならないのか」が明確になり、作品としては理想の形が見出しやすくなる。

意図としてのデザイン

それはデザインという領域においても同様だ。いや、他者に対する言語化が必要な頻度という点では、むしろ芸術の領域以上に多いだろう。
しかし、言語化は他者のため以上に、自分自身にとって大事なのはアーティストと同じと思う。なぜ自分(たち)は、そのようにデザインしているのか?ということに意識的かどうかでデザインそのものの強度はまるで違うはずだ。

同じようなことは、ちょうど1年前にも「デザインと言語化」で書いた。

イメージで把握できることと言語にして把握できることは違う。だから、その差異をうまく使うことでデザインを違う角度から検証できるようになる。視覚的な表現を中心にデザインを進めていくときも、ところどころで自分がつくろうとしているものを言葉にしてみることも大事なことだ。違った角度から自分の試みを知ることで、気づくことは少なくない。

デザインには意図がある。
というよりもデザインとは意図そのもののようなところがある。

自分がどのような意図で、そのようなデザインをしているのか?ということもあるし、ディレクションをする際にどういうことを意図してほしいかをデザインに伝えることもある。はたまたクライアントの要求はどのようなことを意図しているのかをちゃんと理解するためのヒアリングの重要性もある。

この意図の明確化そのものは、視覚表現そのものではやりにくい。
ここでは言語表現に頼ったほうがよい。
意図もそうだし、期待や願望ということもそうだろう。

どうデザインするか、どのような視覚表現が必要かを考える際、そこは言語化という別の表現による明確化は重要なことだと思う。

言語化は苦手……。
その一言で、自らのデザインの意図の明確化という思考作業をやらずに済ましてしまうのは、あまりに失うものが大きすぎる。

苦手なら、他人にも頼ってみる

苦手だと思うなら何でもひとりでやろうとしない、というのが僕の持論だ。
言語化の作業だってそうだ。苦手なら、他の人の手も借りてやればいい。
実際、まわりにも日常的にそれを勧めている。

言語化の作業は、苦手じゃなくても、2人から3人くらいのディスカッションベースで行うほうがいい。僕もこれだけnoteを書いているように、言語化に対する苦手意識はないのだけど、それでも複数人のディスカッションを言語化の工程にはいれている。そうすることで言語化の作業が楽になったり、質が上がったりするからだ。他の人の意見や疑問という、物事の見方についてのズレなどが発見できると、自分の意図、自分たちの意図がどこにあるか、どこに設定すればよいかが見えやすくなる。

だから、そうしたディスカッションの際の1つのテクニックとして大事なのは、誰かの言葉を曖昧なまま聞き逃さないことだ。
他の人が言ったことが何故だろう?とか疑問に思ったら、その意図をちゃんと確認することだ。意図を明確にすることを目的としてディスカッションしてるのに、その確認をやらないなんてことくらい間抜けなことはない。他の人の意図を言語化してもらうことで、自分の意図を明確化するヒントが得られる。

もう1つのテクニックとしては、これも自分以外の他人の言葉を利用するという点では同じだが、書籍やインターネット上から集めた「ことば」を参照データとして利用することだ。
この作業ではついつい自分たちが議論している領域のものばかりを集めがちだが、できれば、異なる領域から「これは!」と思える言葉を集めたほうが実は効果的だ。先の他人の意見とのズレを利用するのと同じで、異なる領域の言葉にあるズレと類似性をうまく使うことで、自分たちの思考の領域がうまく広がっていくことが多いから。
その意味では普段から、いろんな分野に関心を示して、いろんな物事を自分の頭のなかに置いておくことが大事。そういう普段の活動で集めた言葉を、ディスカッションする人同士のあいだで披露しあいながら、自分たちの意図を言葉にしていく作業に役立てる。これも僕自身がよくやるテクニックである。

言葉にならずに隠れている思いや感情を、ヒアリング・テクニックを駆使して、複数人のあいだでお互いに言語化していくこと。
それがデザインだろうと、そのコンセプトだろうと意図を言語化して、自分たちが何をしたいのか、それをどのような表現によって行いたいのかを明確化することにつながる。

複数の思考方法を使って考えること

ここまで書いたのは、言葉で考えることのほうが大事だということではない。
視覚化や具体化による思考だけしかできないと困ることがあるのと同様に、言語化による思考だけしかできないのだって同じように困ることが多いからだ。

言葉や数字でばかり考えるひとにとっては、視覚的なイメージや像として考えたり、触知可能なプロトタイプを通じた体験をベースにしたりすることが不足している。
言葉や数字で、サービスのアイデアなり事業の目標などはいくらでも語れる人が、そのサービスなり事業がどのように使われたり、どんな社会的な変化が起こるのかをスケッチなどで視覚的に表現してみましょうといった途端、ぜんぜん描けないという例は少なくない。それは絵が掛けないというスキルが足りないからではなく、視覚的に考えてこなかったからイメージできないのだ。

そういうことが起こりがちだから、デザイン思考というものが、デザイン(この場合のデザインは狭義の意味)というものに距離を置きがちなビジネス領域、経営の領域に必要とされるのだろう。

言葉によって明確にしやすいものもあるし、数字によって明らかになりやすいものもある。同じように視覚表現だったり、触知可能なモノやアプリケーションとしての表現に落とし込んだりしないと明らかにできないものもある。
人間にはこれだけ物事を思考する形式があり、どれもそれぞれ利点も欠点を抱えている。なのに、自分にとって扱うのが得意なひとつの形式だけに依存するのがよくないという話だ。

なかでも、言葉というのは比較的ほとんどの人が扱える思考形式のはずだ。
絵が掛けない、数字が苦手という人はいても、言葉がしゃべれないとか、文章がまったく書けないなんて人はほとんどいないのだから。つまり、それを用いること自体のハードルは言語にはない。

だとすれば「デザインや美術作品などの視覚的なものは言葉にしにくい」なんて言ってないで、自分で努力したり、他人の力もうまく活用するなどして、デザインやその意図を言葉に翻訳する作業を習慣づけてみたほうがよいはずだ。


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Hiroki Tanahashi

言葉とイメージの狭間で

ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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