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想像する力と想像を捨てる力

想像力が大事だ。

他人のことを想像する力、自分の言ったこと/書いたことがちゃんと相手に伝わるかを検討してみる力、自分が行うこと/行なおうとしていることが外にどんな影響をもたらすかを想像する力、自分の仕事がどういう結果につながるかを想像する力。
ようは自分の言動に責任をもつために、想像力は欠かせないということだ。

だから、「自分勝手ではない」というのは、こうした想像力を常に働かせているか?ということに他ならない。だけど、自分勝手じゃないと言いつつ、こうした想像がほとんどできてない人は山ほどいる。

残念ながら、「自分勝手をしてるつもりではない」ということだけでは、実際に自分勝手ではないということにはならない。自分勝手かどうかは、あくまで自分が行うことが他人に、外部にどう影響してしまうのかを想像した上で行動の選択を行なっているかどうかによって決まるのだから。

目の前にない像を想う

想像力というのは、いま目の前にない像を想うことを指す言葉だと思う。
これから起こりうること、自分からは見えない他人の考え、そういう不可視のものをイメージする思考の行為が想像するということだろう。
目の前にあるものそのものの像を見ることを想像とは言わない。それは普通の言葉なら、実像なのだから。想像とは目に見えていない像を想うことを言う。

ようするに、想像するには意思がいるということだ。
目の前にないのだから、外部が自動的に想像させてくれることを期待しても、必ず外部が協力してくれるわけではない。外部からの何らかのきっかけで想像力が働くことはあっても、どちらかといえば、想像は自分自身のきっかけで働かせる思考のはずである。

その意味で、想像するという行為は、主体による積極的な行為だ。意思に基づくものだ。積極的に未来を考え、他人や周囲に敬意を払う行為だと思う。

それをせずに「自分勝手じゃない」はやはり通らない。
自分のことだけでなく、相手や、世の中も含めて良い流れにもっていこうとすれば、想像せずに行動することなんてそもそ不可能だ。見えている自分の内面以外にも、見えてない相手の思いや社会が被る影響について、意思をもって想像しなければ、それは自分勝手以外のなにものでもないだろう。

内的イメージと外的イメージ

だが、もうひとつ想像しているつもりて、見えている像と見えていない像のギャップに無頓着になってしまう場合もある。想像しないのではなく、自分が想像している像が実際の像とはズレていることに気づかないケースだ。
そういうことも往々にしてある。

『イメージ人類学』の著者ハンス・ベルティンクは、イメージ=像には内的イメージ外的イメージがあると言っている。それはアンリ・ベルクソンの考えにも近い。

前者は目の前に対象がなかったりする場合の記憶に基づくイメージ。想像力という場合、人が「見ている」像はこちらの方になるだろう。
一方、後者の方はイメージの対象が目の前にある場合で、対象が動けば像もそれを追いかけるように変化するようなイメージだ。

ベルクソンが『物質と記憶』で用いている用語に従えば、前者は「イマージュ記憶の能動的で、遠心的な投射」となり、後者は「自動的な感覚―運動的プロセス」となる。

むろん、両者は混ざり合って存在することの方が多い。
純粋な内的イメージなど長続きしないし、記憶という内的イメージの協力なくして外的イメージを元に世界を把握することはむずかしいからだ。

ベルティンクの言葉を引こう。

さまざまなイメージが存在するということ自体が証明しているように、イメージにとっては変化こそが唯一の連続性であり、イメージを変化させることだけが人間に可能な自由である。イメージはしたがって、疑問の余地のないほどに、人間の本質がいかに変化するものであるかを示している。こうした変化が示すように、人間は、世界や自己自身への問いに新たな方向を与えようとすれば、みずから作り出したイメージをやがて放棄することになる。

イメージは変化する。
それは外の世界の実像が変化するからだ。

外の世界の実像は自身は連続的に変化していっても、記憶によって内面化され、内的イメージとして元の像を残す。内面が外の変化を置き去りにして自分のなかの想像に溺れてしまうと、外部の実像と無関係の判断をしはじめる。

「仮面は身体上につけられ、イメージを呈示しながら、実はこのイメージによって身体そのものを隠蔽する。仮面は身体をイメージと交換するのだ」というベルティンクの言葉にあるとおり、イメージは仮面となり、現実を覆い隠してしまいもする

その状況から抜け出そうとすれば、ベルティンクが言うように「世界や自己自身への問いに新たな方向を与えようとすれば、みずから作り出したイメージをやがて放棄する」ことで、想像による虚偽のイメージの罠―― 平たく言えば「思い込み」―― から脱出しなくてはいけない。想像は大事だが、想像するがゆえに、想像できなくなることもあるのだ。

想像も必要だし、想像から抜け出すことも必要

想像が正しい必要は必ずしもない。
想像はそれが内的イメージであるがゆえに、常に、外的イメージとは異なるものになりえるのは当たり前だからだ。だから、内的イメージと外的イメージのズレそのものが問題ではない。問題なのは、生じたズレを放置することだ。

というわけで、想像だけを信じてしまうのではなく、想像した上で行動を起こしたり、相手とコミュニーケーションを取ることで、想像が正しいのかを検証することが大事だ。検証のために外的イメージと関わることで、内的イメージとどれだけ一致しているかがわかるし、それ以上に検証の行動は、流れを良い方向に近づけるきっかけになる。

別の角度から言い換えてみよう。それは意図をもった行動、考えのあるコミュニーケーションで、相手やまわりの環境とともに、流れを良い方向に向かせようとする共同作業をするということだ。あらかじめ外部と協力体制をとろうとすることだ

別に仲良くやろうぜ、ということではない。
ましてやコミュニケーションもなく、互いに忖度することでもない。
ぶつかってもいい。ぶつかることで互いに相手とのギャップに気づけるなら、途中での意見のすれ違いは問題ではない。ズレを放置することが問題なのだから、それをどう打開するかだ。想像も必要だし、互いに自分の想像から抜け出すことも必要だ。そう、こういうスタンスに立って行動してこそ、想像に基づく行動やコミュニーケーションは「自分勝手」なものではなくなる。

潜在的行為と現実的行為

ベルクソンはこんなことを書いている。

われわれの身体をある知覚対象から隔てている距離とは、まさしく、ある危険の切迫度の大小や、ある期待が実現する時までの遠近を示す尺度なのである。したがって、身体とは別の一対象、身体からは一定の隔たりで切り離されている対象の知覚は、潜在的行為以外のものを決して示さない。だが、その対象とわれわれの身体との距離が減少するにつれて、ということは言い換えると、危険がより切迫したものになったり、期待がいっそう目前のものになったりするのに比例して、潜在的行為はますます現実的行為に変じようとする。

主体と対象のあいだに共に害が及ばずに済むだけの距離があれば、互いの行為は、互いの内面のイメージにおいて、潜在的な影響しか及ぼさない。
しかし、互いが相手に現実的な影響を及ぼしあうような距離に入れば、相手の行為に基づく外的なイメージはそのまま内的イメージと一致して、こちらに現実の影響を与えることになる。

先に「共同作業」の必要性を書いたのは、この互いに相手に影響を及ぼす距離にいる場合である。

ベルクソンは、この距離に基づく主体と対象の関係において、主体のもつイメージが知覚となるか、感覚となるかを区別する。

われわれの感覚と知覚の関係は、われわれの身体の現実的行為と身体の可能的ないし潜在的な行為との関係に等しい。身体の潜在的行為は、身体以外の諸対象に関わるものなので、それら対象の中のほうに描き示されるが、身体の現実的行為のほうは、身体自身に関わるもので、それゆえ身体内部に描かれるのである。

対象が遠く、自身に影響を及ぼさないようであれば、対象が行う行為は、主体に知覚される。
しかし、対象との距離が近くなって、対象の行為がそのまま主体に影響を与えるようになると(例えば、対象が握手をしてきたり、殴りかかってきたり)、その行為を主体は感覚として捉えるようになる(手の温もりや痛みとして)。

未知の事柄に他人と協力しあって取り組まなくてはならないシーンが頻繁にあるようないまの時代の状況にあっては、この感覚的に他者と連携するようなことが、より求められるようになっているのではないかと感じる。

距離が縮まった世界で

自分ごと。
それが問われるのは、まさに遠く離れた距離にあっても、人間に限らずあらゆる存在同士が互いに影響を与える度合いが増した環境ゆえだろう。
世界はそれほどつながりすぎたし、人間が環境に影響を与える度合いも肥大しすぎている。

だからこそ、目の前にないことをイメージする想像においても、その目的は想像の対象とのあいだで、何かをうまく行くようにするにはどうすれば良いかという現実的行為を見据えた上で、潜在的行為を想像することがより必要になってきているんだと思う。
それが現実に感覚的なものとして感じられる距離に入ってきたときにも、ポジティブな感覚として受けとることができるよう、想像力を働かせて対象との共同作業を通じて、より良い流れに導くための策を講じなくてはならなくなっているのだ。

さて、あなたは対象が目の前にない状況から、その対象も含めて自分たちが幸せに暮らせるようになるためには、どうすればよいかを考えることができているだろうか?
考えることには時間が必要である。
だからこそ、日々、なんでもないときから頭を使ってさまざまな想像をしていないと、必要なときに必要な行動はとれない。

そのための想像力を日々高めるために、あなたはいったい何をしているのだろう?



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