目利きとファシリテーション

大正から昭和にかけて活動した、青山二郎という骨董収集鑑定家がいた。

子供の頃から眼力を発揮して、柳宗悦らの日本民藝運動の設立にも関わるが、後に退いた。
青山の元には、小林秀雄、河上徹太郎、中原中也、永井龍男、大岡昇平、白洲正子、宇野千代といった錚々たる文人たちが集まり「青山学院」と呼ばれた。小林秀雄は「僕たちは秀才だが、あいつだけは天才だ」と青山を評したと言われる。

本気であっても面白半分

青山学院に集まった弟子のひとり、白洲正子の孫にあたる白洲信哉は『天才 青山二郎の眼力』で、青山さんについて、こう書いている。

まだ十六、七歳の青山が、当時はごく限られた数奇者しか知らなかったような宋鈞窯の盃を、いきなり買ったという逸話はあまりに有名だ。その「天才的な審美眼」を持つ青年青山二郎の名は、壺中居初代の広田不狐斎はじめ、中国古陶磁の大コレクター横河民輔や倉橋藤治郎など一流の愛陶家たちに、広く知れ渡るのであった。

「ごく限られた数寄者しか知らなかった」ような価値が未知のものを自分の眼でみて選びとる。
この青山の未知の価値を見出す審美眼は、この新たな価値の創造がつねに求められている時代に求められるものだ

新しいものを創造する仕事に関わっているなら、まだ価値が保証されていないもののなかに、いかに新しい価値のタネを見出せるかが問われる。それは自分の物事を見る力で見出すしかない。そのことは日々仕事をしていて常に思うことだ。そして、その目利きの力が、新たな価値を生みだす仕事にたずさわる人々をファシリテートしていく上での原動力にもなる。自分で見えたものを、まだ見えていないまわりのメンバーにどう伝えるかも重要だ。

青山の鑑識眼は、骨董ばかりでなく、友人にも鋭く見開かれたという。
その眼力は、青山二郎という人がとことん自分が面白く感じることをするために必要なものだったのだろう。

40年もの付き合いのあった宇野千代は『青山二郎の話』のなかで、「不思議なことであるが、青山さんには、これと言った仕事はない。いや、仕事と好きなことをするのとの区別がない」と書いている。

青山さんのしていることは、それが本気であっても、面白半分に見える。ひょっとしたら、愉しいことだけしか、しないからかも知れない。何かに規制されてする、義務的にする、と言うことはないように見える。いや、ひょっとしたら、そう言うことも、青山さんの手にかかると、面白いことをしているように、変わって見えるのかも知れない。

本気であっても面白半分。これはいい。
自分も楽しめるから、まわりに集まる人も楽しめる
まさに、この感覚は僕自身、自分で仕事をしている上でも感じていることなのでよぬわかる。

自分が楽しめるようにデザインできたプロジェクトであれば楽しめるし、成果にもつながりやすい。
もちろん、楽しめるようにデザインするから楽しくなるのであって、勝手に楽しい仕事が来ているわけではない。青山二郎が義務的なことをしないように見えたのも、「青山さんの手にかかると、面白いことをしているように、変わって見える」ようにデザイン、工夫がなされていたのだと思う。価値が定まらないところに、未知の価値を見出す力がなければ、仕事を楽しくデザインしなおすこともままならないだろう。
人に対する眼力というのも、いっしょにプロジェクトを進めるメンバーにもちゃんと眼力を発揮しないと、楽しい仕事に楽しくないものが紛れこむことがあるから、よくわかる。

そんな意味でもとにかく目利きは大事だ。

天才ではないので準備が大事

小林秀雄さんではないけど、僕も青山さんのような天才ではまったくないから、せめて日々準備をして、せめて秀才に近づかないといけないと思っている。目利きの力を磨いておくために、とにかくいろんなものを観たり、いろんな本を読んだりして、眼力を磨いておかないといけないと思って、実際そうしている。

観た数、読んだ数だけ、物事を見る目は養われていく。
もちろん、ただボッーと見るだけではダメで、自分の仕事と関連づけて観たり読んだりすることが大事だ。

実際、僕はルネサンスの時代の文化史も、地球外生命の可能性の話も、現代の哲学がカント以来の相対主義をいかに超えるかという話も、円城塔さんの自動小説生成機械に関する物語も、自分の仕事を楽しくするための見る目を養うため、考える素材を得るために読んでいる。

前に「考えるの素材」というnoteで、こう書いた。

考えるための十分な素材を持っているからこそ、考える際に困らない。素材が足りなければ思考がままならない。目的の達成にまでも届かない。

今回は、さらに「素材をもっている」ということの意味をもうすこし考えてみたい。素材をもっていれば、それで十分なのか?という点で。

料理でもそうだろうが、素材がただあるだけではダメで、その素材にどういう使い道があるかも知っていなければ、うまく素材を使いこなせないし、ましてや素材の良さを引きだすこともできない。

考えるための素材をもっておくという場合でも同じはずで、ただ本を読んだり何かを観たりして素材を得たつもりになっても、それは使い物にならない
読んだもの、観たものを使えるようにしておく下ごしらえ的なものが必要だ。すくなくとも必要なときにすぐに取り出せるよう記憶のインデックス化がされている必要がある。

その際、世の中的なカテゴリーだけを用いてインデックス化するのはあまり意味がない。そんな整理なら検索すれば取り出せる。
そうではなく、自分にとってどういう価値を持つのかという観点でインデックス化しておかないと、せっかくの限られた脳の内部の記憶容量を持ちいる意味はない。
インデックスのためには観たもの、読んだものについて、ちゃんと自分の言葉で言語化してあげることだ。その方法の1つとして僕はこのnoteを使っている。
自分が興味をひかれたものについて、なぜ、そんな風に自分の心が動いたのかをちゃんと言葉にしてあげることだ。自分の言葉に。それがあとで何かを考える際のインデックスになる。

大胆な目利きで異なるもの同士の接点をつくる

だから、この自分の考えに基づくインデックスの蓄積が結局自分の目利きの力を形作っていくことになるのだ。

まったく異なるタイミングでインデックス化した複数の異なるもの同士が、あるとき、同一または類似のインデックスを通じてつながりを生む。異なるもの同士の結合がイノベーションを生むきっかけなのだとしたら、このインデックスの蓄積はそのための大事なアーカイブだ。

複数の異なる分野の人が集まるワークショップやミートアップの場で、異なる分野の人同士の間の会話のなかの言葉に、両者のつながりを生むきっかけとなる共通点を見いだし、その人たちの間に新たな価値創造の試みがはじまるのをファシリテートするのも、頭の中にアーカイブされたインデックスがうまく機能してこそだ。
リアルタイムで話は進むのだから、勝負は一瞬で決まると言ってよい。話のなかにいかに未知の価値を見いだし、16、17歳くらいの青山二郎が「限られた数奇者しか知らなかったような宋鈞窯の盃を、いきなり買った」ような大胆な目利きで異なる分野の2人の間の会話をつなぐ未知の接点を作るファシリテーションができるかどうか? これに尽きる。

それには会話の中にキラリと光るものを見出す目利きの力と、それを何につなげると何が起こりそうかをシミュレートするためのインデックスの蓄積、さらにそれに基づき、新たな結合を生みだす言語化力あるいはコンセプトメイキングだとかアジェンダセッティングのようなスキルを磨くことが必要だろう。
それが分野をまたいで開かれたコミュニティを通じてイノベーションを起こしていくために求められるファシリテーションの力の源なのだろうと思う。

だからこそ、いろんなものに触れ、自分の好き=数寄について考え、その感触をもとに「楽しい仕事」をデザインできるようになっておくことが大事だと感じている。
逆にいえば、そうした準備を怠っている者に、楽しい仕事をデザインすることはできないし、楽しい方向に仕事をファシリテートし続けることはできない
この点に関しては、常に自分を過信していてはいけないと思う。準備しすぎるなんてことはなく、むしろ、常に準備は不足していると思った方がよい。

そうでなくては楽しかったはずの仕事もいつのまにか楽しくなくなってしまうかもしれない。
過信は禁物で、常に高いゴールを想像しながら準備をし続けることが肝心だ。

そんな目利きの力をひたすら鍛え続けているか?
その努力をしなければ、楽しい仕事が自分のまわりに集まってくるはずはない。


この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

「スキ」してくれて嬉しいです。ありがとう!
26

Hiroki Tanahashi

言葉とイメージの狭間で

ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。