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私にとっての最後の仕事

女性学(ジェンダー・フェミニズム)の第一人者であるところの、上野千鶴子さんは10年ほど前のころだろうか、「男性」の女性学研究者に向けて、割と厳しい目(ご意見)をお持ちだったように見受けられる(実際にその種の発言もしている)。

それは、「女性学を作ってきたのは私たちだ」という自負、「自分たちのことは自分たちで決める」という決意、そして、「人のことに口出している暇あんのかよ」というスタンスだったように思われるのだけど。

そうこうしているうちに、「男性学」という、男性が男性であることの生きづらさを考える、男性が男性の弱さを、素直に見つめる学問も生まれたりしていて。「ジェンダー」=「社会が規定する性別・性役割」に縛られて、苦しい思いをしているのはなにも女性だけではない。あらゆる人が、この、人間が決めた「役割」によって生きづらさを抱えることがあるという理解が広がっていって。

男性が、男優位な社会の中で競争して、勝っていくこと(そして多くが敗れ去っていくこと)、そのような社会が、男性にとっても生きづらさを生んでいるということがわかってきて。

過去のウーマンリブ運動(「男子が持っている権利を、女性にもください」)と異なり(もちろん、「ウーマンリブ」はもともとそんなものを求めていなかった、という意見もあるのだけど、ここでは一般的な理解として)、現在のフェミニズムは、女性の権利拡大を訴えているわけではなく、同じ人間としての権利(たとえば、気持ちの良い夜道を、誰にも気兼ねすることなく散歩する権利、散歩しながら、月や星を眺める権利。現在は、変な人に付け回される恐れがあるから、女性はなかなか持てない権利)を保証しましょうよ、そしてまた、男性が背負っている、本来背負わなくてもいいものを下して、より自由に、自分の好きなことをしたり、やりたいことをする権利を誰もが持ちましょう、という風に変わってきている(もちろん、フェミニズムの理念を一つに換言することはできないんだけど)。

男性の管理職、男性の議員、男性の代表、役職者であっても、それらの役職に向いていない人が無理をして、身体や心を壊したり、なんのために、心身を壊してまで護りたいものは何なのか、ということを見つめて。

とはいえ、これは「男性学」が発見した効能でもあるのだけど、どうも、「男性」は「肩の荷を下したらどうですか」「無理せずに休んでいいですよ」と「女性」に言われると、逆に無理をしてしまうところが多くあるようで。それはまた、「奪われる(かもしれない)」という、恐怖があるのだろうと思うけど。むしろ、同性である「男性」から、「一緒にのんびり行きましょうよ」と言われると、素直に「そうだね」って言える人が多いみたいで。

そういった知見が広がるにつれて、上野さんも最近は「男性の女性学研究者が言った方が、どうも効果がある」ということを認めてくださっているみたいで、「男性の女性学研究者」に対する目もいくらか柔らかくなっているようです。

もっと先に行くと、「男性」だからとか「女性」だからと言っていたこと自体が、過去のものになると思うんですけどね。

そんな日本や世界の潮流とは別に、鹿児島のジェンダー指数はあいかわらず高い(低い?)水準で保たれていて、私なんかは時々「ここは江戸時代かな」と思うことがあるわけなのですが、そんな過渡期(をまだ迎えていない)鹿児島において、肩ひじや虚勢を張って「俺が頑張らなきゃ誰が頑張るんだ」と無理をしている男性の方々に、「私みたいにさあ、仕事だけじゃなくて、数学や哲学、ポーカーや読書、宇宙のこととか物理学のこととか、この世の真理とか考えてみる人生を送ってみるのはどうですか?」「もう少し、肩の荷を下ろしませんか?」と言うのが、私の(現在もやっているけど)最後の仕事かなと、思っているのですよ。

あらゆる人がその人らしく、能力を発揮して自由に生きることができる社会を作ること。

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