見出し画像

さみしいって言っていんじゃない?

今日、小津安二郎の作品「秋刀魚の味」を観た。

舞台は終戦から10年後くらいの東京。笠智衆演じる、軍人上りの妻を亡くしたサラリーマンが年頃の娘を嫁に出そうと奔走しながら、息子夫婦や若い妻と再婚した友人、行き遅れた娘と二人暮らしをしている年老いた恩師などとの交流を通しながら、結婚や家族についてが生き生きと描かれている。昭和の、しかも戦後の高度経済成長に向かう日本を舞台に物語は進む。

見どころは、昭和の東京の古く泥臭い中になにか懐かしさ、それにあったかさを感じるたくましい日本だ。

だから家族だけでなく、友達の娘であろうと世話を焼くし、心配してくれる、なんだか面倒な事に関わりたがらない今の日本では考えられない。

最近ではお金がかかるから、とか、めんどくさいから、とかそんなこんなで結婚しない若者が多いと日夜ニュースや新聞では取り上げられている。戦後の日本では子供の結婚は家族一丸となって取り組む重大な出来事だ、そんな風に受け取れた。

父親は、恩師が行き遅れた娘と暮らす姿を見て、娘も父親も年老いてああなるのはさみしいと思い、娘の相手探しに躍起になる。そして念願かなって娘を嫁に出して安心したのも束の間、娘を嫁に送り出した後、帰宅した父親は
「さみしい」
と口に出す。そのセリフで物語は終わる。

私は思う。人間がさみしいと感じるのは当たり前で、自然の成り行きだし、当然の感情だと。それなのに近頃ではさみしいと思うことが、悪で、リア充じゃないといけないような風潮のように思う。ひとりの時間を充実させる事が人生を豊かにする事だという。いやいや、待てよ。

確かに、自分の時間を大切にして、何か夢中になることを知っておくことは大切だ。

しかし、人間はひとりでは生きてはいけない。ひとりで楽しく過ごしてもいいが、
「さみしい」
って口にするのは悪いことじゃない。

むしろたくさん言っていいんじゃない?

無理に充実させなくてもハッピーにならなくても良い。

まあ、気楽に寝て起きて、ご飯を食べてボーッとして、少し身体を動かしたりリラックスしながら、ふと、
「さみしい」
そう思って過ごしていい。

ただ、さみしさに負けてひとりの過ごし方を間違えてはいけない。そして溺れてはいけない。

さみしいといい付き合い方をすればいい。

そして自分とたくさん向き合ってみる。そして強くなってみる。

そうする事で、またこれからの生活や人間関係が変わる。

だから、どんな時でも、家族がいてもいなくても、さみしくていい。

さみしいことから始まる充実もあるだろう。

本日の気づきは小津安二郎の映画が面白かったことと、さみしいについての感想。

(MacBook)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?