わたしに自炊は早かった

1月に一人暮らしを始めてから、健気に自炊してたけれど、やめた。

まだわたしは料理をする段階にない。一刻も早くやめなくてはならない。その前に、自分の基盤を整えるのが先だ。
(という目的意識を持ってさぼるのが大事だ)
そう悟った。

なぜ料理をさぼることが、自分の基盤を整えるのに大事か。
それは、料理が苦手であり、食事自体が苦手だからである。

料理が苦手といっても、そんなとんでもないものは作らない。そんなに手際が悪いわけでもない。

ただ、ものが増えるのが嫌なのだ。
片付けることは好きだが、増やすのは好きではない。
料理している片端から洗い物をしていくタイプであり、お鍋の中に新しく増えていく料理を見ても、むなしい気持ちにしかならない。早くなくなってほしい、空っぽにしたい、と作るそばから思っている。
これは万事に渡ることで、
たとえば思考を整理するために書くのは好きだが、何か新しいものを作りたいとは一切思わない。

ただ、そんな性格でも、「これはものを新しく増やしているのではなくて、タッパーに収まるように、野菜をボリュームダウンし整理しているのだ」と思い込むことによって、料理自体はできていた。

致命的にできなかったのは、それを取り出して食べることである。
せっかく納めたものを開けたくなかったからだ。
意味不明だと思うが、作るだけ作って腐らせて捨てた料理が一月から今までかなりある。

食べることで片付いていくものはわりあいたべれる(卵など)が、食べる前の方が散らかっていないものは、食べられなかった。

タッパーに入れた時点で満足してしまって、食べるのが億劫で仕方ない。

どう考えても料理というものの目的を見失っているが、とにかく、なんと言われたってわたしは食べるのが嫌なのだ。
もともとものを食べることへの抵抗感や罪悪感が強い方なので、それも手伝ってよけいに気が重い。

もう一つ食べるのが嫌になってしまうのは、汚いものおよび見えないものへの恐怖心が強すぎるためでもある。

作ってからたいして時間もたたないうちから、もう痛んでいるんじゃないか、大丈夫だろうかと怯えだす。
不安で開けてみるのが怖くなり、完全に疑いの余地なく腐るまで、放置してしまう。

完全に腐ればもう安心なのだ。それだって触りたくはないけれども。
怖いのはとにかく目に見えないことで、わからないことである。

そんな二つの理由から、冷凍庫には作り置きの肉じゃががゴロゴロしていて、冷蔵庫では着々とマッシュポテトが一度も開けられないまま痛みつつあるのに、
食べるものがなくてひもじい思いをする、というような奇妙な状態に陥った。

ひもじいだけなら別にいい。
問題は、腐りつつある食べ物への罪悪感と、食べるべきだ、でも食べたくないという葛藤の悪影響が大きすぎることである。精神にかかる負担が大きすぎる。

要するに、わたしは、調理の能力というよりは心構え的な面で自炊ができない。よくわかった。
そもそもなんでこんなに苦手なのに一生懸命作って食べようとしていたのかといえば、それはひとえに義務感であり、食べることへの罪悪感(の裏返し)である。きたなさへの恐怖が食べることにつきまとうことにも、たぶん意味がある。

罪悪感も恐怖も、一朝一夕になんとかなるものではない。ならばまず、「自炊しなくてはならない」というこわばった思い込みから手放していこう。

幸い、わたしの住んでいるあたりでは、かなりしっかりしたお弁当が200円前後で手に入ってしまう。

お弁当は、食べた方が絶対片付くし、賞味期限がはっきり書いてあるので、それを信じればいいから迷わず食べられる。

もちろん、わたしだって生まれついてこんな神経質だったわけではない。少しずつ、今健全な精神を取り戻しつつあるときである。
まだ、わたしには自炊は早かっただけのことだ。

それまではもう割り切って、お弁当とトーストと卵を食べて元気に生きて行こう。

ただ、お米だけは克服したい。
お米が好きなのにここ1ヶ月以上炊いていないのは、虫がいるんじゃないかと怖くなって、開けられなくなった(視認する限りいないのだけど)からである。
パンも好きなのでなんとかなっているが、お米はお鍋で炊いてるので、やっぱり炊いた方が経済的でおいしい。
これだけ直近の目標にしたら、あとはもう先のことだ。

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