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抱卵を諦めるオシドリ

若かりし頃、避妊を失敗して産婦人科に駆け込んだことがある。
アフターピルの副作用に苦しみながら「もし受精していたら私は人殺しかもしれない」なんて考えた。
妊娠しないという可能性を、あまり考えていない時代だった。
今、あの時に戻っても、私は同じ選択をしたと思う。

なぜ唐突にこんな話をしたかというと、夫婦で話し合った結果『子供を作らない』ことに決めたからだ。
どちらかといえば、ふたりとも子供が欲しいタイプだった。
長い月日をかけて、この選択をするしかなかった。

何度も何度も話し合い、時には泣いて、時には絶望して、ようやく出した答えだ。
主人はステージ4の肺がんで、毎日抗がん剤(アレセンサ)を飲んでいる。
抗がん剤は1カプセル6737円、それを1日4カプセル。高額療養費制度サマサマである。
抗がん剤治療しなければ余命半年だった。
そして、この薬に耐性がついてしまったら効果はなくなる。
もちろん他の薬も控えているのだが、効くかはわからない。

更に、彼は重度のアトピーだ。
ストレスを感じるたびにアトピーにも苦しまなくてはいけない。
関節の内側は色素沈着とかさぶた、そして傷跡のようにまだらに白く肌色が抜けている。
時に粉吹き芋のように。時にひびわれ。
生きるか死ぬかを考えることも、掻き消すほどに痒い日だってある。
肌をボロボロにするだけでも痛く辛い日々。
見通しが悪い、とても悪い未来を、彼は懸命に歩いているのだ。

また、私も持病をいくつか抱えている上に、ほんの少し発達障害がある。
円錐角膜、自律神経失調症、子宮内膜症、多嚢胞性卵巣症候群、PMDD、ADHD。
小学生の時に頭を打ち、脳が機能していないところが少し。あとは抑うつ状態にもよくなる。
体調を整える。人と関わる。それが普通の人のようにできないと、散々悩んできた。

どう考えても、妊娠を望むには遺伝と生活の覚悟しなければならない状態だ。
この時点で諦められれば、まだよかった。
ふたりの子供はかわいいだろうと夢を語り合った私たちは、上手に折り合いをつけることができなかった。
子供の人数や名前を考えるのは、とても幸せだった。
親や親戚の反応を考えるだけでくすぐったくなった。
死んだ父親代わりの祖父に、見せてあげたかった。
誰かに何かを残す人間に、なりたかった。

電灯から伸びたリリアンの紐のように、伸びて縮んでを繰り返した。
いくら明るくなっても、また暗闇に戻っても、その部屋にいるのはふたり。私たちだけ。
踏ん切りのつかない私たちは、ずっと夢を語っていた。

主人が酷い咳をしていた冬のことだった。
何度病院を進めても「喘息が酷くなっただけ」と言い切られた。
そのうちに湿った咳が出て、酸素が足りなくて苦しい、胸が痛い。そのぐらいになって初めて病院に行ってくれた。
レントゲンに映ったのは、左の肺にこぶし大の腫瘍。肺の半分ほどまでなみなみと胸水が溜まり、ひどい状態の癌だった。
太い血管と心臓に近いため手術も放射線も難しい。残されたのは抗がん剤治療のみ。
私の隣にいる主人は、ただじっと自分の中身をみつめていた。
彼が泣いたのは、抗がん剤治療を始める前に精子の凍結保存を決めた時。
自分が死ぬ前提で子供を作るか否かを決められず、暫定的にお願いした凍結。
この抗がん剤では精子に影響は出ない、そう言われたけど不安で選択した。
まだ、ふたりとも子供を諦められなかったから。

すぐに抗がん剤経過を見るための入院が組まれ、主人はそのせいで職を失った。
検査のために度重なる早退遅刻と欠勤。深刻な病名のこともあり、その会社では受け入れられる土壌がなかった。
幸いにも少しの蓄えがあったので、その時は何とかなった。
抗がん剤は瞬く間に効き目を発揮した。
検査の数値が急激に改善され始めたのだ。
だから、彼は逞しく、仕事を始めた。
ライターをやりながら、深夜は倉庫でバイト。
私も本業に加えてスナックなどを掛け持ちした。
翌年からはもっと免除されてラクになる。働けるうちに少しでも働いて、あわよくば、子供まで。
家も欲しい。子供に残してあげたい。

2年後。凍結保存期間が終わると、通知が来た。
延長もできるとあったが、私たちは破棄した。
もうこの時には、緩やかに諦めを感じていたんだと思う。

実は、主人と同じタイミングで祖父が大腸がんになっていて、だいぶ悪化していた。
祖父は私の育ての親で、父親代わりだった。
祖父にひ孫を見せてやりたいと、私の子供への想いが再熱した。
主人も同意してくれたけれど、コロナ渦での妊娠と主人のコロナ感染が恐ろしくて動けなかった。

それから祖父が亡くなり、バタバタとして。

気付けば私は34歳になっていた。
主人は改めて就職し、私も職を変えて安定している。
彼の腫瘍は目視できないぐらいになっていて、検査での数値は一般人以下だ。
長生きできる望み。5年でもいい。10年でもいい。
耐性ができるその日まで、生きていてほしい。
何とかやってきたのだから、これからも何とかなる。
ようやく、道が見えてきた。

世帯収入はそれなり。
ふたり分なら問題ないが、老後や家を考えると若干の不安。
年齢は。子供は。

改めて考えて、私たちは、答えを出した。
本当はお互いに諦めの段階をきちんと踏んでいたんだと思う。
相手が欲しければ頑張ろうって思っていた、とお互いに告白した時は笑った。
悲しいけれど、仕方ないね。ふたりで楽しく生きていこうね。
何度となく電気を点けては消して、私たちは互いの輪郭だけ慈しんだ。
ふたりしかいないけど。ふたりだから。
こうして狭い部屋でもいいじゃないか。

私たちは、よく、外で出会う子供を見て笑う。
かわいいね、と。面白いね、と。
そのうち里子でも、なんて言ってまた夢を作る。
将来を話せるだけ、今はしあわせなのだ。
後悔するかもしれない。その時はまた寄り添おう。
あなたが生きている。それだけでいい。

ふたりで、歩む。
ふたりで、生きている。

私は外に出れない期間に文章を書き始め、こうして活動をしている。
主人も猛烈に応援してくれている。
子供に何かを残すことができないので、物語はこの世に残していこうと思う。
少子化が問題視される中で国の役に立てないことは非常に心苦しい部分がある。
私たちは逃げた。
それは曲がることない事実だ。
いろんな覚悟ができなかった。
せめて、同じように悩む人に少しでも届くように。
逃げても、しあわせになる権利はある。

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