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忘れてしまった口紅

いつかのクリスマス、私はなけなしのお金で、母に口紅を買った。

いつも100均で茶色いクレヨンみたいな口紅を買って使っていた母に、ささやかながら「いいモノ」を使わせてあげたい、そんな私の気持ちのこもったモノのはずだった。

その数年後だったろうか、母は電話で私と口論になった際に、はっきりとこう言った。

「私はあんたから一度もプレゼントなんて貰ったことも無いのに!」

…後になって考えれば、既にその頃母は幻聴を聴く人になっていた。鳴るはずの無い電話が鳴ったと錯覚し、それを元彼からのいたずらだと信じ込んでいて、あやうく私もそれを信用していた(今となってはあれは幻聴だ、と思えるのだ)。

とにかく、実際に数年前に幻聴を聴くことが悪化し、入院もした母のことだ。恐らく、私からのプレゼントの記憶も、あっさりと頭の中から消えてしまっていたのだろう。だからこその、口論でのその発言だったに違いない。

けれども当時、電話口でそう母から言い切られてしまった私の心はズタズタになった。いつかのクリスマスに贈った口紅のことが頭に浮かび、悲しくてしょうがなかった。あのクリスマスの頃、私だって全然お金が無くって、グロスもアイライナーも100均で揃えていたような生活の中、なけなしのお金で買ったのが、母への口紅だったのだから。


だから、母にとっては「忘れてしまった記憶」がとても多いのだ。私はそれを解っている。解っていても、ふいに「解せないな、」と思う瞬間がある。


虐待をする親は、それを虐待とは思っていないこともあると聞く。

「なんであんなひどいこと、するんだろうねえ。虐待したりするくらいなら、子どもなんて、作らなければいいのに!欲しくてもできない人だってうんといるっていうのにさあ…。」

電話口で母が言う。そうだね、と私は相槌を打つ。忘れてしまったのだ、きっと、母は。それかまったく自覚が無かったか。

私は確かに、連続的で、生命に関わるような暴力や育児放棄はされずに済んだ。だから私の記憶を虐待と言ってしまっていいのか、自信が無いところもある。けれどももし、身近な子どもが私と同じ経験をしていたとしたらー私はしかるべきところへその子どもを逃がすとか、とにかくどうにかする手段を考えてあげたい、と思うのだ。


「それさ、虐待だよ?」

少し大人になって、お風呂になかなか入れなかった過去を「我が家での当たり前」として話した時、知人にそう言われた。目から鱗が落ちる、と言うより「そうなんだ、」という驚きが大きかった。

「ウチはウチ、他所は他所!」と母はよく言った。だから「我が家での当たり前」を受け入れるしか無かった。部屋干しのジャージがいくら煙草臭いと嘆いても、けして策を練ってはくれなかった(季節によっては外に干せなくなる土地だった)。お風呂の回数が少ない故、頭が臭ってくると、それを隠すヘアコロンで誤魔化させた。洋服の洗濯も、冬場は数日に一回。下着はサイズも合っていないものを「安いから、」としまむらで買って、ワイヤーが飛び出るまで何年もそれを使った。月経の下着は数日使ってから洗う。薄汚くなったそれは10年近く買い換えられなかった。

そういう細かなものも、思春期の女の子にはひどくつらいもので、けれども私自身が「つらい、」とも気づかずに「それが当たり前、」と見做していたところもあって、それ故私は、その漂う野暮ったさと不潔さを、あくまで無意識の内に恥ずかしく思っていた。無意識、なのだ。「我が家では当たり前」「他所は他所」だから、恥ずかしく思う必要は無いと考える気持ちが表に出て、心の底では私は、そんな自分を醜い存在だと貶めてゆく一方だった。

一人で暮らし始めて、お風呂に毎日入れるというその快適さに、とめどない幸せを感じたものだ。


母は、怒りに任せて呑んでいた焼酎を私にぶっ掛けたり、私の部屋から知人の名刺を見つけ出してそこに電話したり、超えてはいけないラインも何度か超えた。それでも私にとってはただ一人の「母親」だった。だから、そんなことがあったって、私はあのクリスマスの日に口紅を買った。KATEのオレンジだかベージュだかの色味のものだ。私にすら高くて使えない、そういう品物だった。


私は、夫の家族に贈り物をするのが好きだ。贈り物をし合う、という慣習の無かった夫の家族間に私が入り込んだことで、「父の日」「母の日」「父のお誕生日」「母のお誕生日」「姉のお誕生日」には、私と夫が贈り物をするようになった。特に義理の父はとても喜んでくれる。酔うと、初めて息子夫婦からプレゼントを貰った時の話になる。

喜んで欲しかった、あの口紅だって。こんな風に、いつまでも覚えていてくれたらば、私はきっと、母から受けた「嫌だったこと」すら、うすぼんやりとした記憶に出来るほどに、満たされたんじゃあないか。


いっそいつか、母が私をも忘れてくれたら。そうしたら私は、こないだ近所のおばあちゃんとカルガモを見て過ごした日みたいに、そんな風に母と向き合えるのだろうか。



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