SNSに惑わされずに後悔しない生き方
何が正解かというのは死ぬまで結局分からない。
なのに、SNSのインフルエンサーなどは若いうちはこうしておけ20代のうちに
○○しておかないと大変なことになるなどといわゆるポジトーで愛のない正論を大量に振りかざす傾向にある。
彼らの多くは状況や立場、能力やルックスに恵まれており若くして異性にモテていたり大金や自由を手にしている傾向にある。
それは彼らが偶々運や境遇に恵まれているに過ぎないのだが努力で全て掴んだような夢に陥っている彼らはそこに中々気づけない。
そして他人にもそれができると信じて止まない。いわゆる躁状態の彼らはなまじ影響力を得て二元論で愛のない意見を振りかざすたちの悪いインフルエンサーとなる。
(自分もたまにこれをやってしまいがちであり分からなくもない。それくらい客観視は難しい)
人によって何ができるかどうかというのは環境やそのときのその人の立場や価値観、状況によって違ってくるという前提がある。
これは少し考えれば分かる話である。年齢も職業も住んでる場所も人によって何もかも違うからだ。
でもSNSというのは拡声器みたいなものでそれ以外が兎に角視界に入りずらくなる。
刺激的な意見というのは人を緊張状態にさせるので、とにかく人のIQを下げるのである。
そんなときにどうすればいいのか
そんな刺激的で愛のない意見と距離を置けるように今回はこのnoteを書こうと思った。
結論から言うと、
人生の答えというのは死ぬまでわからないものなのだ。ならば、
その場その場が正解になるように今を真剣に生きればいいだけなのだ。
そうすれば仮に結果が伴わなかったとしても死ぬ直前に後から自分の人生を振り返ってみてあのときは結果は出なかったけど一生懸命やったのだから後悔はないと思えるものである。金太郎あめを想像してもらえると分かりやすい。どこを切ってもその人にとってご褒美になるように生きればいいのだ。
少なくとも、自分はこの考え方に至ってからかなり精神が安定しSNSの過激な意見に振り回されにくくなった。
そのときを最大限頑張ったものがその人にとってのギフトなのだ。
人により不遇な状況に立たされていることもあるだろう。
それはその人にとって必要だからそうなのであり、その状況を改善させるために最大限努力すればいいだけなのだ。
そもそも人と比較すること自体が間違っている。
その人のパーソナリティや特性は必要だから備わっているものであり、それを外側の基準と比較して無価値、無能、有能と区別することに自分は本質的な意味はないと思っている。
でなければ全員AIでいいはずだしロボットでいいはずだからだ。
その人が地球にとって必要だから存在するしその人にしか発揮出来ない役割というのが間違いなくあるはずなのだ。
本来一人ひとりが80億分の一のかけがえのない存在なのだ。
これが正しい倫理観だと自分は思うし色んな宗教や哲学的な知見からも間違っていないと確信を持って言える。
もちろん、自分も人間なので人と比べて落ち込んだり愛のない意見を言ってしまうことは多々ある。
だが、その都度こうした本質に回帰することそのものに意義があると自分は思っている。
冷静になれるし間違った選択肢を回避できるからである。
ナチスドイツはかつて間違った選択肢をしてしまい国家レベルで惨劇を招いた。
だが時代は今や令和である。
国民一人一人がこうしたモラルをもち闇に触れたらその都度立ち戻る努力はその人が幸せに生きる上でも周囲を幸せにする上でも必要ではなかろうか。
日本国の教育はネットや情報に関する授業が少なく国民のリテラシーに関して不十分であり仕方のない部分がある。
なので自分が代わりにここにnoteとして記すことで多くの人が冷静に快適にネットライフを送れるようにしたいと思った。
SNSの過激な意見に疲弊した際の避難先としてこの記事を活用して貰えれば幸いである。
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