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「体温が乗っかった言葉」を書きたい

昨日と一昨日に更新した、好きな海外文学を語るnoteを書き始めるよりも前。
実は、ある作家さんの好きな本について書いていました。

が、途中で行き詰まって、それ以上書き進められなくなったんです。

しばらく様子を見よう。
と決めて下書き保存して以降、その文章は読んでいません。
noteには「熟成下書き」なんてタグもありますし。時間が経って冷静になれたらまた書き直せるかなあ、と楽観的に考えています。


なぜ行き詰まったのか、理由は明白です。
ご存命中にたくさんの功績を残された方で、それをひとつひとつ伝えるために、著者経歴の内容を読み込んでは抜粋したり、Wikipediaの文章を引用したり…。

そういった「情報」だけの文字で埋め尽くした文章を、ふと冷静に読み返した時。
面白くないな、と感じてしまったからです。

で、職場で取り入れられている「なぜなぜ分析」を参考に、なぜ面白くないのかを考えてみれば。
その文章には「私」がいないから。
という結論になりました。

ただ情報だけを書き連ねた文章なら、Wikipediaを読む方がずっと深く理解できるはずで、ここでわざわざ字数を割かなくても良い。
そう考えたことが、図らずも「自分がnoteでどんなことを書いていきたいのか」を振り返るきっかけにもなりました。


たまに、自分が書いた過去のnoteや日記を、読み返すことがあります。
書き上げた内容はいったん自分から切り離されるので、存外に新鮮に読めるんです。
加えて文章における個人的なツボを一番理解している人間(=自分)が書いたものなので、単純に読みやすい。
(と同時に書いた当時は気づかなかった細かい部分が気になって、直したくなったりもするんですが)

でも振り返ってみれば、そうやってあとになっても面白く読める文章って、共通して「感情」や「思い出」がうまく溶け込んでるんです。
「自分の言葉で書いている」と言うのが適切なのかな。

行き詰まって中断した文章にしても、ただ引用やコピペじゃなくて自分なりに書き直してみることで、そこに感情や思い入れを込めることが出来たのかもしれません。
(この過程をAIに託せないあたりが私の気難しさなのは承知してます)

ウェブ上に、noteという場に公開する以上は。
手書きとは違って、誰が書いても同じフォントで綴られる、そんな文字の羅列です。
しかしそこにも、コピペで埋められる情報ではなく、書いている人間の体温を込めることは出来るもの。
書く以外に、読むことを通して感じるのも同じだと思う。

願わくば、時を経て読み返した時にも、そういう熱量が届くものを書きたい。
それが自己満足で終わらないことが一番の理想です。

引き続き考えてみます。
お読みいただき、ありがとうございました。
今日も良い日になりますように◎


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