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#1169 泣いても笑っても、まな板の上の魚

それでは今日も尾崎紅葉の『三人妻』を読んでいきたいと思います。

馬場はまだ一向に酔いが回っていない様子。この人数では弾まぬと、皆来て飲めと言えば、ぞろぞろと七人座敷に込み入り、下女ふたりも呼び上げ、小気味よく猪口が飛びます。心の働かぬお艶は暇さえあればじっと考え、呼ばれて慌ただしく徳利を持つのを、余五郎は腹の内で笑います。しばらくして火を灯す時間となり、馬場は慌ててお暇しようとするが腰がふらつき、足はエックスに捻じれ、帯の間から金時計が振り子のごとく揺れ、宿の夫婦に助けられながら梯子を下りて行きます。時刻を見れば七時過ぎ。お艶は暇乞いをしますが、余五郎はまだ話すことがあると取り合わず、夕飯の相伴せよ、と手を鳴らせば女房が来て、お艶を捉えて奥の小座敷へ連れていきます。

いかなる事にならむかと苦労せしに、異条[イジョウ]無き夕飯[ユウメシ]の請伴[ショウバン]。二人の席を間近[マヂカ]に設け、着飾らせたる宿の小娘を給仕に附けたり。
お艶は此娘[コノコ]に物いひかけて切[シキ]りに手持無沙汰[テモチブサタ]を紛らはせど、箸を取りてからは、見られ勝[ガチ]なる顔の向所[ムケドコロ]無く、始終俯[ウツム]きて物は口に入れども、胸塞がりて吭[ノド]を通らず。冬の夕[ユウベ]に汗をかきて、二十四の処女[キムスメ]理[ワケ]はなしに男子[オトコ]を懼[オソ]れぬ。
余五郎狼[オオカミ]の志[ココロザシ]ありてかく無理留[ムリドメ]はしたれど、酒の席にての言葉を懐[オモ]ふに、其[ソレ]と同一口頭[ヒトツクチ]からは、酔[エ]うた面[ツラ]しても謂はれぬ理[ハズ]の望みを、今宵の事にあらずと一旦は諦めけるが、また勃々[ムラムラ]となりて、抑[ソモソモ]か〻る事に直談[ジキダン]は興覚[サ]めて野暮の至り。宜しく亭主を頼みて金銭[カネ]に口説かせ、否[イヤ]なこともいはねばならぬ魂胆は陰[カゲ]にして、錦[ニシキ]は表[オモテ]を見るがよし。我等より上手[ジョウズ]に能言奴[クチキクヤツ]は円[マロ]きもの、と葛城流の奥の手を出さむとせしが、別間[ベツマ]には山神[ヤマノカミ]のましますに心を置き、婆[ババ]の耳に入[イ]らば、また尻切半天[シリキリバンテン]の旧時[ムカシ]を担出[カツギダ]して聴聞[チョウモン]させらるべし。憖[ナマジ]ひに小細工して事を敗[ヤブ]らむより、今日[キョウ]の手際にて知れたる文平に声を懸けさせ、其時[ソノトキ]は泣いても笑うても俎[マナイタ]の魚[ウオ]、尾鰭[オヒレ]をふるも今の間[マ]と放して還[カエ]しけり。

#619でちょっとだけ説明しましたが、「山の神」とは、結婚してから何年もたち、口やかましくなった妻のことです。

「俎上[ソジョウ]の魚[ウオ]」とは、相手の思うがままにするよりしかたない、逃げ場のない状態にある者のたとえです。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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