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#996 逍遥がヨーロッパの語をわがままなる意義に用いたためだ!

それでは今日も森鷗外の「早稲田文学の後没理想」のつづきを読んでいきたいと思います。

次に折衷之助は逍遙子が旨を承けたる軍配の大詰として、沒主觀(沒實感)見理想(哲學上所見の現出)といふ詩品を立てゝ、鴎外のために傷けられたりと見たるシルレルを辨護せむと試みたり。

かつて鷗外は「早稲田文学の没却理想」で、こんなことを言っています。

おほよそ詩の上にて観の主客を言ふものは、大抵作家の感情を以て主観とし、作家の観相[アンシヤウウング]を以て客観とす。叙情詩を主観とするは是を以てなり。叙事詩を客観とするは是を以てなり。戯曲には観の主客等く存ぜりとはいふものから、シルレルが曲とシエクスピイヤが曲とを比べ見ば、彼には作家の感情多く、これには作家の観相多きを知らむ。シエクスピイヤが作を客観なりとするは豈これがためならずや。(#718参照)

で、これを受けて逍遥は「雅俗折衷之助が軍配」でこんなことを言います。

米人エヷレットが詩を論じたる語にいはく「美術はおしなべて儀型[タイプ](極致)を料とす、詩もまた然り。詩は或一個[ヒトリ]の心の私の喜び、愛憐、又は悲みをいひあらはせども、その表白する所は、衆人心の悲喜愛憐ともなりぬべきやうにものするなり。すなはち、その詩人が私の執着は消失し、そが一個の感動は、件の普通的表白[ユニワルサル エキスプレッション]の中に幷吞し去らるゝなり」と。是れ豈没主観にあらずや。げにやシルレルが作の上に作家の感情の見えたり、とあるは、さることながら、これによりてシルレルが作には、シルレルが主観見えたり、といはんこと、いかヾなるべき。(#944参照)

で、さらにこれを受けて、今回、鷗外はこう言います。

われシルレルが曲中に主觀頗る現れたりといひしは審美的主觀の情にして實感にあらず。逍遙子が實感を主觀とする心より、我判斷を輕々しと思はれたるは、恐らくは逍遙子が自ら輕々しく今の歐羅巴多數の審美家の用ゐ慣れたる語を我儘なる意義に用ゐしためならむか。シルレルが詩には素より實感なし。そを早稻田流に沒主觀といはむは勝手たるべし。シルレルが詩には素[モト]よりポオザ公が自由と「コスモポリチツク」との思想の如く、一種の哲學上所見の審美的主觀の情となりてあらはれたるあり。そを早稻田流に見理想といはむこと、これも亦勝手たるべし。
折衷之助が軍配めざましき論戰畢りて、逍遙子はさらに

軍評議

といふものをぞ開きける。先づわが沒却理想の評のこまかなるところに答へざるゆゑよしを常見和尚に言はせ、次には折衷之助に鴎外とハルトマンとを全くおなじに看做[ミナ]して事問ふべき譯ありと辨ぜさせたり。さてその仔細をたづぬれば、わが山房論文に烏有先生といふ談理家ありて、理を談ずるを旨とする大文學雜誌を發行せむとして未だ果さずとあるを見て、ハルトマン舶來せざらむ限は、鴎外即ちハルトマンと看做すべきならむといへるなり。
ハルトマンが審美學の序にいはく。われは此書のあまりに大册にならむことをおそれて、應用審美學の區域に入らむことを避けたり。されどそのわがこの區域に入ること能はざるがゆゑならぬは、わが小品にて知れかしといへり。(審美學下卷序八面)斯くハルトマンは文學美術の批評の如き審美學の應用に志ありて、多くこれに及ぶに遑あらざりしを、わが山房論文は寓意語をもて出しゝなり。さるを折衷之助の羅織[ラショク]に巧なる、わが文學雜誌の發行といひし言葉を、日本にてと限りても言ひたりけむやうに解き僻[ヒガ]めて、ハルトマンみづから海を渡りて來ずてはかなはぬやうにいへるのみ。そが上に若しかの言葉をハルトマンが上に當らずといはゞ、折衷之助は何の依るところありてか、これを我上に當れりとはしたりけむ。われまことに忌むことを知らずして、我草紙を所謂大文學雜誌に當てたりとせば、未だその發行を果さずといふ言葉いかにしてわが口より出づべき。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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