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自分ができないことは悪?

最近、またTODOリストを作ることとnoteを書くことが滞っていた。私は三日坊主であることが分かっているのでこうなるだろうということは知っていた。きっとかつての私だったらどうしてできないんだと自分をもっと責めていただろう。でも今の私はちがう。自分の仕組みが徐々にわかってきている。自分の「特性」をわかってそれとうまく付き合おうとできるようになってきた。

昨日、障害者の方の教育を支援する企業に入社した方とおはなしする機会があった。彼女は自分の仕事に誇りを持っていた。
彼女と話していて、「障害」というテーマから自分に紐づけて考えた。一見遠いこのテーマは、じつはあなたそのものにも通じるものなので読み続けてもらえると嬉しい。

私が彼女と話すなかでもっとも印象に残って自分に影響したことは
「障害は、特性を持った人の前にあるものだ」ということだ。

障害というものはなにか悪いもの、特別に劣っているというものではない。障害は特性なのである。そして特性は地球上の人が一人残らずもつものだ。このnoteの最初に述べた、私は三日坊主でなにかを続けることが苦手と、いうのも私の特性の一つだ。これは社会という場で何か継続することが吉、決めたことを続けることが美とする価値観をもつ社会にいるからこそよくないとまわりからもいい評価は得られないものだ。また、ある人はおなじ場所でじっとできないという特性を持つ。これは社会で活動するうえでよくないこと、世の中で障害といわれるものだ。そのまたある人は耳が聞こえにくいという特性をもつ。これはマジョリティの耳が聞こえる程度よりも聞こえないということから障害といわれる。私ができないこと、「障害者」と表現される人ができないことにはなんのちがいがあるのだろう。私の考えではそこにはできないことというくくりの中でちがうものではないと思う。なぜならこれは各々が持つ特性なのだ。ただその人が持つ特性に対して社会に障害が「ある」と障害者と表されるだけだ。

この特性をもつという考え方は私のできないことへのとらえ方に大きく影響を与えた。私はできないことが多い。たくさん遅刻をするし、すぐ物事を忘れる。そして三日坊主だ。これは私の特性なのだ。かつて私は自分のことをなんてダメな奴なんだと思っていた。でもこれは良い、ダメ、で判断する前に自分の特性という事実がある。自分はダメな奴で終わってしまうと望みがない。でもそれは自分の特性であると知っていたら、それを自分の思う方向に進ませようと工夫をすることができる。たとえば、私は三日坊主という特性を持っているからきっと明日にはできなくなる。だから明日は休んで明後日から再開するリマインドをかけておこうとか、自分の特性に合わせた道筋をたてることができる。自分の特性のまえに現れる障害を回避する術、受け入れる術を見つけることができるのだ。俗にいう障害者と呼ばれる人と健常者と呼ばれる人に差などない。みんな特性を持っていて、各々の前にある障害がどのようなものかという違いだけなんだと私は学んだ。

これを読んでいるあなたも自分のダメポイントを責めている人がいるかもしれない。それは悪なのではなくて自分の特性が社会にある障害にぶつかっているだけなので、自分の特性はどうやったら自分が思う方向に進んでいくか考えてみてほしい。

(今回、意図的に「障がい者」ではなく「障害者」という表記を使用しました。上記にも述べているように障害者とはその人のもつ特性に対して社会の「障害」が存在する人のことだからです。また、音声認識ソフトでは障がい者という言葉は誤って変換されるという合理性の観点からの理由があります。)

メメントモリ!




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